40 幼なじみの約束
シンジが教室から出ていくときに、トモミと交わしたほんのちょっとしたやりとりを見逃さなかったものがいた──例のデキスギのくそ野郎だ。サタンが入り込んでいようがいまいが、あまり大差のないそのゲス野郎は、休み時間になって教室にもどってきたシンジをさっそくとっ捕まえた。
「きのう、おれを置いてきぼりにしたな。あのあと大変だったんだぞ!」とそいつは凄んだ。
「え?なんのこと?」シンジはきょとんとした顔で訊きかえした。
「とぼけるなっ!おまえの自殺未遂のせいで、おれはあれから一時間も警官にあれこれ訊かれたんだぞ」怒ったようにクソ野郎は言った。
「自殺未遂?……」
シンジはべつにすっとぼけているわけではなかった──信じられないことだが、BMWに向かって突っ走っていったことなどシンジはすっかり忘れていたのだ。当然その現場に、目の前に立っている怒りもあらわなこの男がいたことも、ころっと忘れていた。
「とぼけやがって、このやろう。あのあといったい彼女とどこへ…」
そう言いかけたクソ野郎の肩を、なにやら建設現場で見かけるような恐ろしげな機械のようなものが、ガシーンッ!とつかんだ。そして、そのビルをぶち壊すときにつかう鉄の爪の持ち主が、敵を目の前にした虎が低く唸っているような声で言った。
「おまえ、おれの目の前でこいつにつっかかるとは、よっぽど勇気があるのか、それともただのバカか…いったいどっちだ?」
コースケは両手で肩を鷲づかみにして、クルッといとも簡単にクソ野郎を振り向かせた。
「い、いや、べつにおれは…」
「それとも、おれをなめてんのか?」コースケはたたみかけた。
「そ、そんな…こ、こ、こ、ことは…」
肩にぎりぎり食い込んでいたコースケの手がはなれると、その野郎はうしろに転びそうになりながら後ずさりして、まるで後ろにも目があるんじゃないかとおもえるほど、器用に椅子や机をよけながら教室を出ていった。
「まったく、器用なこった」とコースケはその様子を見て感想を述べた。シンジはクスクスと笑った。そして、もうひとつの笑い声…いつの間にかトモミがシンジのとなりにくっついて立っていた──シンジの脇に手をつっこんで腕まで組んでいた。
「おい、おい…」まったく大胆なやつだとコースケはあきれた。そらみろ!シンジの耳がまたまっ赤になっちまったじゃねえか!トモミもすぐにそれに気づいたが、離れるどころかキャッキャ言いながらシンジの耳をいじくりはじめたから始末が悪い──とたんにクラス中の注目をあびることになってしまった。
トモミと仲のいいなん人かの女子生徒が、コースケの顔色を恐る恐るうかがいながら、じりじりとにじり寄ってきた。そして、そのなかのひとりがトモミのとなりへやって来てこうたずねた。
「トモミ…あんたシンジと、もしかして?」
なんだ?その文法は!とサタンはおもったがなにも言わなかった。
「つきあってるのかって?」とトモミが訊きかえすと、その女生徒はうなづいた。
「そんな甘っちょろい関係じゃない」とトモミは言い「わたしはシンちゃんにすべてを捧げた…。シンちゃんはそれを受け入れてくれた。そういう関係よ」と胸を張らんばかりにきっぱりと言い放った。
「へっ?」とトモミの友だち数人がみな一様に驚いた顔をした。驚いた…というよりは呆然としたと言ったほうがいいかもしれないような顔だった。いったいこの子はなに言ってるの?とお互いに顔を見合わせ、その中の一人が皆を代表して「どういうこと?」とトモミに訊いた。
「きのう、シンちゃんのうちに泊まった。シンちゃんのベッドでいっしょに寝たの」
トモミは涼しい顔でそう言うとにっこり笑った。
クラス全員を巻き込んだ「ええぇぇぇーっ!」の大合唱がおこった──どうやら教室にいた全員が聞き耳をたてていたようである。
やれやれ…とサタンとコースケが同時につぶやいた。なにもそんなことまでわざわざ教えてやる必要などあるまいに…。しかも、いかにも誤解を招きそうなその言い回し…。ひとの口にふたはできんぞ。どうするんだ?この女どもにしゃべるってことは、校内放送で大々的に発表したも同然だぞ!きょうの放課後には、学校の全生徒の知るところとなるにちがいない…。おまえ、自分のポジションってものをわきまえてるのか?この学校のマドンナってほどじゃないが、おまえ結構もてるんだぞ──おまえの性格を知らないバカ野郎がいっぱいるってことだ。シンジも含めてな…もっともシンジは、おまえの性格を知ってますますおまえにのめりこんじまった大バカ野郎だがな。おれがついているからいいようなものの、そうでなかったらシンジのやつはバカどもから袋叩きにされるところだ。
「コウちゃんもいっしょに泊まったの…」とトモミはちょっと残念そうに付けくわえた。
「へっ?コウちゃんって?いったいだれ?」とまわりを取り囲んだ女子生徒たち輪のなかから声が上がった。「もしかして…、コウちゃんって…コースケくんのこと?」べつの声がほぼ99%まちがいないとの確信はあるのだが、念のために確認しておきたいというような感じで訊いた。
ガルルルゥゥーッ!という唸り声が聞こえたような気がして、シンジはコースケのほうを見た──声はだしてはいないが、まるでほんとうに唸っているかのように、コースケの口がめくれ上がっていた。
「そう。わたしはむかしからそう呼んでる──シンちゃんもね。わたしたち三人幼なじみなの。学区はちがうけど家はみんなすぐ近くで、むかしから行ったり来たり泊まったりしてるんだ」
トモミは平然とした顔でそう言った。
「なぁーんだ」とまわりの生徒たちが声をそろえて言った。そして、くちぐちに「びっくりしたわ」とか「わたしはてっきり…」などと言いながら、はずかしさのあまり赤くなった顔を手であおいだり、トモミの背中をどやしつけたりした。そして、ひとりがこれで一件落着ってわけではないことに気がついた。
「でも、すべてを捧げるって言ったわよねぇ。それってどういう意味?」
「そのものズバリ!」と言ってトモミはにやりと不敵に笑った。「わたしのすべてがシンちゃんのものだって意味よ。シンちゃんのためなら死んだっていいっていうこと。べつにへんな意味じゃなくて、わたしはシンちゃんのためなら命をかけられるし、シンちゃんもわたしにそうしてくれる…コウちゃんもね!わたしたちにはそれがあたりまえのことなの。ずっとずっと昔からそうだった。それはこれからもかわらない…特別なことじゃない」
トモミが適当に話をつくってごまかしているようには、シンジには見えなかった。きのう、ずっと幼なじみが欲しかったと言ったときのトモミのさびしそうな顔があたまに浮かんだ。厳密に言えばトモミは幼なじみではないが、きのう一日でそれくらい親しくなったのは事実だ。だからシンジはそれが真実であろうとなかろうとどうでもいいことのように思えた──なにも言わないところをみると、コウちゃんもおなじ気持ちなのだろうとシンジはおもった。おそらくトモちゃんは本気でそうであってほしいと願っているにちがいない…あるいは本気でそう思い込んでいるのかもしれない。それはシンジの気持ちでもあった。だからそれでいいとシンジはトモミをみつめながらおもった。
「じゃあ、シンジくんはトモミのことをなんて呼んでるの?」と女子生徒のなかのひとりが訊き、シンジは照れくさそうにあたまをぽりぽりかいて、蚊の鳴くようなちいさな声で「…トモちゃん」とこたえた。「ふーん」とか「きゃー、かわいい」という声があちこちであがったが、そのなかから「じゃあコウちゃんは?」という質問があがると、一瞬にして水をうったようにしんと静まりかえった──期待にみちたキラキラと輝く瞳がコースケにあつまった。
「おれが女を呼ぶときは『おめえ』…それいがいの呼び方なんかねえ」とコースケは地獄の門番でさえ尻尾をまいて逃げ出してしまいそうな凄みのある声で言い、くだらねえ質問をしくさった女子生徒を鬼のような形相でにらみつけてこうつけ加えた。
「もういっぺん、おれのことをそう呼んだら、たとえ女だろうとただじゃおかねえぞ、わかったか!」
取り囲んでいた女子生徒たちは、「きゃー!」と悲鳴をあげて、蜘蛛の子を散らすように四方八方へと一目散に逃げていった。
「怒るってことは、いまはコウちゃんね?」とトモミがコースケに訊いた。
「あたりめえだ。休み時間はおれさまの番だ。サタンの野郎が勉強はまかせておけって言ったからな。ところでおめえ、気安くコウちゃんコウちゃんって呼びやがるが、いったいいつおれがそれを許した?」
「だって、いいじゃない!幼なじみなんだからっ!」とトモミは口をとがらせた。
「そうはいかねえ。シンジにだって許しちゃいねえんだ。いいか、今後ひと前でそう呼ぶことを全面的に禁止する。もし約束をやぶったら、女だろうと容赦しねえぞ」
「うん!わかったっ!」とトモミはなぜかうれしそうに元気いっぱいで答えた。