38 生涯でいちばん長い夜③
トイレからもどったシンジは寒さにブルッと身震いした。でもきょうはだいじょうぶだ──布団を温めてくれているひとがいるから。布団にもぐりこんだあとも歯をガチガチいわせる心配はない。温かくていい香りのする楽園がシンジを待っている…。
いい香りと言えば、シンジの布団はお世辞にもそうだといえるような代物ではない。しかし、トモミはそういうことには無頓着のようで、はじめからまったく気にしたそぶりはみせなかった。シンジに気をつかったんだろうと考えるむきもあるが、トモミという女の子は、あいてを気づかっていやなことを我慢するような、そんなしおらしい女の子ではない──「シンちゃんの布団くっさー!」ぐらいのことは平気で言うだろう。言わないのは、気にしていないからにちがいない──無頓着なのか…、あるいはシンジの体臭でさえ愛おしいとおもえるほど、シンジのことが大好きなのか…、そのいずれかであろうとおもわれる──シンジは後者であって欲しいと心から願っているが、客観的かつ冷静にみれば、気にならない…つまり、無頓着だというほうに軍配があがってしまうのはいたしかたないことだ。
トモミは寝返りをうって背中をむけて寝ていたが、シンジにとってこれはむしろ歓迎すべきことだった。もしこちらを向いているとなると、その胸元に飛び込むようにして布団にもぐりこむこととなる──それはやっぱりちょっとはずかしい…。だから、背中をむいていてくれてシンジは少しほっとしたというのが本音だった。
布団のはしをそっとめくりあげると、肩がゆっくりと上がったり下がったりしているトモミの背中があらわれた。クッションを抱っこしているので、背中がちょっとまるくなっている。シンジはトモミと背中合わせに腰をおろしてからだをひねり、足を突っ込むためにもう少しだけ布団をめくった 。くびれたトモミの腰が徐々にあらわれてくる。そして…
ああ、なんてこった!
スエットのすそがまくれあがり、そこから白いトモミの肌が露わになってるではないか!
知らず知らずのうちに、そのホワイトチョコレートのようなトモミの素肌に手が伸びていく。たかが背中にちょっと触れるくらい、どうということあるまい?――シンジは人差し指から小指までの四本の指の腹で、白い大理石で出来ているようなトモミの背中にピトッと触れてみた。
ふれた瞬間トモミがかすかに身じろぎした──でもだいじょうぶだ。いちど寝たらなかなか目を覚まさないタイプだっていうことはわかってる。
それは、これまでに触ったことのない感触だった。えっ?これがひとの肌?シンジはちょっと驚いた。トモミの肌は、目隠ししていたらなにかべつのものと勘違いしてしまいそうなほど、ツルツルスベスベの手触りだった。ためしにシンジは自分の背中にも触ってみたが、それはぜんぜん別の代物だった。
シンジは宝物をしまうときのような慎重な手つきで、まくれあがったスエットのすそをもとにもどした。
するすると布団のなかにもぐりこむと、その布団のなんて温かいこと!これからどんどん寒くなるこの時期、毎晩こうであってほしいものだ…とシンジは自分勝手もはなはだしい希望を胸に抱いて、ふたたび眠りにつこうと目をつむった……いや、ふたたびじゃない――きょうはぜんぜん眠ってないじゃないか!
布団がいつだって温かいのは素晴らしいことだが、ぜんぜん眠れないというのは、ちょっと考えものだ。これから毎晩こんな調子だったら、いったいいつ眠ればいいんだろう…。でも、ちょっと待てよ。そもそもきょうが特別なんだ。トモミさん…いやトモちゃんだ!とシンジは心のなかで訂正した。トモちゃんが毎晩泊まっていくと決まったわけじゃない――決まっているのは毎日スタートレックのDVDを見にくるということだけだ。それすらちょっと怪しい気がしないでもない。性格的にすぐに『もうあきた…』と言い出す可能性が大である。
それにしても…とシンジはしみじみ考えた。性格的にうんぬんかんぬん言えるようになったということは、ふたりの関係がすごい勢いで発展したという証拠でもある。おそらくこんな性格だろうと想像していた(あるいは願望…そうであってほしいと願っていたとも言える)ものと現実があまりにもピッタリだったので、昔からずっと知ってるように思えるだけで、きょう…実際にはきのうだが、午後4時まではなにひとつ彼女のことを知らなかったのだ。毎日学校帰りの道すがら自転車で追い抜いてゆく──そのとき「さよなら…」と言うだけがふたりの関係のすべてであったのに、いまはおなじ布団でからだを寄せ合うようようにして眠っている…この現実をどう説明すれば良いんだろう。しかも、わたしのすべてはあなたのものとまで宣言した…。そんなのは夢に決まってると言われたら、あっそうですか…と簡単に納得してしまうような信じられないような現在の状況である。ほんとうに現実なのか?マトリックスのような仮想現実じゃないのか?
そのときシンジんの脳裏にぞっとするような考えがうかんだ。
もしかしたら、どこかのだれかがあの時計を作動させていて、いまこの瞬間にもリセットボタンを押して、すべてなかったことにされてしまうんじゃないだろうか?
可能性はまったくゼロじゃない。
ぼくのもらったもの、そしてミスター・サタンのもの…ふたつあったということは、三つあったとしてもなんのふしぎもない。あるいはそれ以上あるかもしれない。そしていまこの瞬間もだれかがそれを使っていて、本人にしかわからない理由によってリセットされてしまう…。ぼくがおじいさんからもらったものは、最大で15分まで時間を戻すことができた。ほかのも同じだろうか?もしそれがその装置の標準的な仕様だとすれば、トモミさんとの関係はだいじょうぶだ──もう何時間も経過しているので、まるっきりもとにもどってしまうことはない。あの宣言…すべてをあなたに捧げるというあの宣言も有効だし、ひとつのベットで寝ているという現実もきえてなくならない。さっきちょっとお漏らししてしまったことはなかったことにしてほしいところではあるが…。でも、もし、何時間も何日もさかのぼる装置があったとしたら?
もしそうだったら、ぼくはいったいどうなる?ほかの人はいい──そんな装置が存在することすら知らないのだから、時間をもどされてなかったことにされるんじゃないか…という心配をすることなく日々暮らしていくことができる。でも、ぼくはそのことを知っている…なにか良いことがあるたびに、なかったことにされたらどうしようとビクビクしながら生きていかなければならない。
耐えられるのか?そんな人生に耐えられるのか?
たしかめる必要がある!どうやったらいいか、その方法はいまのところぜんぜんわからないが、なんとしてもたしかめなければならない。時間を戻す時計はぼくが使ったものとミスター・サタンのもののふたつしかないってことをたしかめる…そして、〈確実なる安心〉というやつを手に入れなければならない。さもないと……
温かいはずの布団のなかで、シンジの体温は5度ばかり急に下がったような気がした──背筋に氷のような冷たいものがはしり、歯がガチガチ鳴った。
シンジは自分でも無意識のうちに、手の届く範囲内でもっとも温かいものにしがみついた。それは、温かくてとてもやわらかい、ゆっくりと息づいているものだった。胸から足の先までピッタリと密着させ、両手を腋の下に突っ込んでギュッと抱きしめ、あたまをトモミのうなじにゴリゴリ押し付けて、ゆったりとしたウェーブのかかったボリュームのあるトモミの髪の毛なかにもぐりこませたが、震えはとまらなかった。胸のところで堅く閉じられているシンジの手を、トモミのあたたかい手がやさしくつつみこんだ。
ああ、なんてあたたかいんだろう…。大晦日のよるに神社の境内で一晩中焚かれるかがり火のようだ。トモミの身体と密着している部分から、あたたかさがじわじわと身体の芯までしみわたっていくのが感じられた。震えが徐々におさまった…。
ああー、よかった…。とトモミはおもった。トモミは起きていた。シンジに力いっぱい抱きすくめられたときに目が覚めた。「なにやってるのよ!」と叱り飛ばそうとしたが、シンジのようすがへんだとすぐに気づき、しばらく寝たフリをしてようすをみることにした。
シンちゃん、震えてる…。こわい夢でもみたのかしら?
だが、それでもトモミはなにも言わなかった──シンジほど勇気のある少年はいないことをトモミは知っていた。そのシンジが震えるなんて、よっぽどのことにちがいない。シンちゃんはわたしなんかが想像できないような恐い目にあったんだもの。わたしのために命を投げだす決心までしたんだもの…。だから、震えてるんだわ…きっとそう。うなじにグイグイ押し付けられたシンジの頭のほうでなにかがカチカチ音をたてていた。しばらくこのままに好きなようにさせてやろう…たぶんシンちゃんの震えは、わたしがなんと言ってなぐさめても止まらない。わたしは寝ているフリをしてたほうがいい。わたしが起きていることを知ったら、シンちゃんは離れていってしまう…あたまをぽりぽりかいて「ごめん…」とあやまりながら、わたしからは離れてしまう…。わたしがしてあげられるのは、あたためてあげることだけ…。だからこのままでいい。でも、向い合せだったらもっとよかったのに!そんな子泣きジジイみたいに背中にしがみつかれたって、わたしはなにもしてあげられないじゃないの!と多少腹立たしくもあるトモミであった。
トモミはシンジの手を自分の手でやさしくつつみこんだ。シンジの手はびっくりするほど冷たかった。なぜこんなに冷えきっているの?トモミはシンジの両手を抱え込むようにしてあたためた。
やがてシンジの身体からゆっくりと力が抜けていくのが感じられた。それにともなって震えもだんだんとおさまった。バターがとろけるようにシンジの身体がやわらかくなったように、トモミには感じられた。
ああ、よかった。震えがおさまった。トモミはいままで感じたことがないような幸せな気持ちになった。もしかして、これが母性本能ってやつ?だったらつくづく女に生まれてよかったっておもえるわね。あたまのなかがピンク色のペンキで塗りつぶされたみたいで、ほかのことはもうどうだっていいって感じ。胸がムズムズする…ムズムズどころじゃない!でっかい鉤爪の手でかきむしられたような感じ…。やっぱり、恋人にするなら同い年か年下にかぎるわ──それもとびっきり甘えん坊の…。
ギュッと抱きしめていたシンジの手から力が抜けて、ゆっくりと腋の下から出ていった。あれ?もういっちゃうの?まだいいのに!もっと抱っこされていたいのに!とトモミはほっぺたをふくらました。