35 2000年間で最良の1日…
あてにしていた名司会者が職場放棄したようなので、サタンは自分で軌道修正することに決めた。『特攻野郎Aチーム』はおれも好きなドラマだが、いまこの話にのるとまたとんでもないことになる。ところで、いまいったい何時なんだ?サタンはぐるりとくびをまわし、シンジの部屋の中を見まわした──ところが、時計がない。まるっきり、ぜんぜん、ただのひとつもない。ふつう壁掛け時計がひとつと枕元に目覚まし時計が一個くらいあるだろう……なのにこいつの部屋にはそのふたつどころか、ただのひとつも時計がない。こんなことでまともな社会生活がおくれるのか?
「おい、いま何時だ?」サタンが訊いた。
「たぶん11時くらいだとおもう」シンジがこたえた。
「たぶんって、おまえ…、なんでこの部屋には時計がないんだ?不便じゃないのか?」サタンが不思議そうに言った。
「べつに…不便じゃないよ」
「私の部屋にもないよ」とトモミが言ったがサタンはギロリとひとにらみしてだまらせた。またこいつに割り込まれると話がややこしくなる。シンジはひょっとしてトモミがつむじを曲げたんじゃないかと心配になり、ちらっと顔を見たが、トモミはとくに気にした様子もなくけろっとしていた──これしきのことでふてくされるようなトモミではない。シンジは安心して話をつづけた。
「だってテレビがついてればだいたいの時間はわかるでしょ?DVDレコーダーにも時刻表示がついてるし…」
「朝はどうする?」
「タイマーでテレビがつくようになってる。毎朝7時になるとテレビが勝手につくんだよ。それに、この時計もあるしね」
そういってシンジは袖をまくりあげて腕時計をみせた。
「あっ!かっこいい時計!ちょっとみせて」
トモミがシンジの腕を両手で引っつかんでグイっとじぶんに引き寄せた。その結果、正座をしていたシンジのバランスがくずれ、シンジとトモミはぴったり密着するようなかっこうになった。トモミはシンジのブライトリングを熱心にのぞきこんでいる──シンジのすぐ目の前に石鹸の香りのするトモミの黒くて艶やかな髪の毛があった。トモミは「ふーん…」とか「へえー」とか言いながら、シンジの手を引っぱったりひっくりかえしたりしている。髪の毛が垂れ下がると、トモミは武田鉄矢のように髪を耳にひっかけた。
「ねえ、シンちゃん…」とちょっとドスの利いた声でトモミが言った。「いま、へんなこと考えなかった?」
「えっ?」シンジは動揺した。武田鉄矢みたいだっておもったのがバレた?まさか…
シンジはトモミの天使の輪がくっきり光っているキューティクルじゅうぶんの髪の毛をみつめながら、彼女の次の言葉をまったが、トモミはそれ以上なにも言わなかった。
風呂上りで化粧っけのまったくない(学校に来るときも、ほかの女生徒とちがいほとんどスッピンだったが…)トモミの横顔は、シンジにはこの世のものとはおもえないほど綺麗にみえた──まるでミケランジェロかヴェルリーニが作った彫刻のようだとシンジはおもった。
すーすーとトモミの息づかいが聞こえた。生きている彫刻だ!伏せたまつげがおそろしく長い──鼻はツンと上をむいている。口はどちらかといえば大きいほうで、艶々と光っているうすいピンク色の唇もぽってりと厚ぼったい。その唇がちいさく開いたり閉じたりして、なにやらぶつぶつとつぶやいている。あごもちょっと突き出た感じで、鼻のあたまと唇とあごの先っちょが、アルファベットの《E》の関係になっている。あごの下から細い首がすっとのび、ややなで肩ぎみの肩につながっている。ビロビロにのびたスウェットの襟首から鎖骨がひょっこり顔を出している。スウェットのサイズは大きめでダブダブ──まえの胸のあたりがかなりダブついている。しかも襟首はビロビロに伸びきっている。そのすきまから見えるものは…
Oh. My God! シンジはこころのなかで歓喜の雄たけびを上げた。なんてこった!あれは…もしかして…アレじゃないのかぁぁっ!そ、そして…あ、あの谷間わぁぁぁ…!けっこう着やせするタイプみたいだ…ちくしょう!炭鉱夫のライトつきヘルメットがほしいっ!暗くてはっきりとは見えないが、まちがいない!しかも、しかも…なにもつけてないんじゃあ……ないのか?それってつまり…ノーブラ
「ねえ、シンちゃん…」
まえよりもいっそうドスの利いた声が言った。まるでやくざ映画の姉御のようなドスの効き具合だ。
「また、へんなこと考えたでしょ?」
「え、ええっ?ぼ、ぼく…は…お風呂あがりで…そのう…薄着だから、寒くないかな…って、つまり…風邪ひかないかって心配で…」シンジはしどろもどろに必死に弁解を試みようとしたが、今回は考えていたことが考えていたことだけに、とつぜんそう訊かれてあたまがまっ白になってしまった。
トモミが顔を上げる気配がしたので、シンジはあわやゴツンとぶつかるかという寸前に、間一髪であたまを引っ込めて危機を脱した。トモミはじろりとシンジの顔をにらんだ。ふとどきな妄想をあたまのなかいっぱいに膨らませていたシンジは、トモミの刺すような視線をまともに受け止めることができない──シンジはすっと視線をはずした。
「ますますあやしい…」トモミがシンジの視線を追いかけると、シンジはまたすっとそれをはずす──視線の追いかけっこがしばらくつづいた。
「ははーん、どうやらシンちゃん。なにか良からぬことを考えてたな?」
トモミが顔を近づけて値踏みするような顔でシンジの顔をのぞきこんだ。お互いの顔が近すぎて、首をふって視線をはずすことができない。シンジは目玉だけを必死でうごかして追求を逃れようとした。ほんの数センチ離れたところにシンジの大好きな顔がある──そんな状況で冷静にいられるわけがない。おそらく脈拍はレース中のF-1ドライバーなみに高くなっているにちがいない。
トモミが両手をもちあげて、シンジの耳をつかみ、『ジュッ!』と自分の口で言っておきながら「ほら、いま音がしたわ。まっ赤になってる」と言った。
お互い向き合って、いっぽうは両方の耳をもういっぽうから引っぱられている──なんとも妙なかっこうだ。
そのとき信じられないことが起こった!
トモミがシンジの顔に自分の顔をさらに近づけてくっつきそうになったとおもった刹那、あっというまの早業で、シンジの唇にシンジが愛してやまないぽってりとした代物を、チュッと音をさせて重ねたのだ。
なにぃぃぃっ!サタンはわが目をうたがった。トムとジェリーみたいに拳骨の手で目をゴシゴシやってからもう一度見ると、ふたりの距離はもとにもどっていた。しかし、シンジのまっ赤な顔──耳ばかりでなく顔までまっ赤になっている事実が、いま自分が目にしたものが目の錯覚ではないことを如実にものがたっていた。シンジはぽけーとした顔で、おそらくなにも見えていない目で空中をぼんやりみつめていた。
サタンはすっかりご無沙汰しているシンジの親友のコースケにむかって話しかけた。
(おい、みたか?いまの…)
しかし返事がない。
(どうした?おいコースケ!おいったら!あれ?なんだ、おまえ寝てたのか…。いまスゴイことが…イテッ!なんだ、おま…イテッ!こらやめんか!なんちゅう寝起きのわるいやつだ。もういい!おまえには教えてやらん!とっとと寝ちまえ!)
トモミがシンジの目の前で自分の手を振って、見えているかどうか確認していたが、シンジは何の反応も示さない──やっぱりおもったとうりなにも見えてない…とサタンは呆れた。するとこんどは、トモミが自分の手をシンジの胸にあてて、胸の鼓動を確認した。
「すごく早くなってるっ!」とおかしそうに笑いながらトモミが言うと、シンジははっとわれにかえった。
自分のせいだってわかってるくせに…あの女め、小悪魔ぶりにますます磨きがかかったな…サタンはため息をもらした。
さて次はどんな手でシンジを手玉に取るのかとわくわくしながらサタンが見ていると、トモミはシンジの右手をとり、それを自分の胸にぴたりとあてた。
なにぃぃ!サタンはまたもやこころのなかで叫んだ。なんて大胆なことをやらかすんだ!シンジを殺す気か?
「ほら、わたしもドキドキしてる!」シンジの手を両手を包み込むようにして自分の胸にあてながらトモミが言った。
こら!シンジ!しっかりしろ!もうすこし下だ。あとほんのちょっとで…なんでおれがこんなアドバイスまでとサタンは自分でも呆れたが、千載一遇の大チャンスの到来だっていうのに、シンジの夢遊病患者のような腑抜けぶりにいてもたってもいられない…という気持ちだった。シンジはトモミの胸に手をあてながら、からだをもぞもぞと動かしはじめた。
あぐらはいかんっ!あぐらはいかんぞ、シンジ!一本柱のテントを張っているのがバレちまうからな。そうだ、正座だ。正座ならいい。ついでにその厄介な代物をもものあいだにたたみ込んじまえ!…おれはなにをいってるんだ?…いや、おれじゃない!
(コースケ!おまえいつのまに!おれはそんな下品なアドバイスなど…)
まあいい。こいつもおれとおなじように、いやもしかするとおれいじょうに、シンジのことをほっておけないんだ。しかも、こいつはふたりの様子を見て、こころの底から祝福しているのがおれにはわかる……いがいといいところあるじゃないか!こいつにも…。しかし、見ているものまで幸せにするカップルなんて、そうざらにあるもんじゃない──やはりおれの見立てはまちがっていなかった。このふたり…いや、コースケをふくめると三人だ。こいつらとならやれるかもしれん。コースケはこいつらにくらべるとたしかに見劣りはするが、おれが入っているかぎりこいつは人類の歴史上類を見ないほどのスーパークールな不良だ。いいぞ。これならやれる…。しかし、やつらは少なくとも5人はいるはず…8人は屈服させたから、のこるは下っ端が4人と親玉ってことになるが、もしかするともうひとり、あの男…。あの男が復活するとなると厄介なことになる。万全を期すためにもっと仲間をあつめるべきかもしれん…。まったく、おれは地獄の王様だっていうのに、なんで手下がひとりもいないんだ?やつには頼りになるのが12人もいるっていうのに、なんでおれにはだれもいない?……いや、いまはひとりぼっちじゃない。こいつらがいるじゃないか!頼りになるふたりと頼りないがいいやつ…幽遊白書の桑原のようなこいつがいる。
もんだいは、いつ?どこで?というのが現時点ではまったくわからないってことだ。
「ところでシンちゃん?」とトモミがまたドスの利いた低い声でシンジに訊いた。「さっきはいったいなにを考えてたの?うえからわたしをのぞき込んでたでしょ?」
「ええーと、もしかして…」シンジは蚊の鳴くようなちいさな声で自供をはじめた。「…トモミさんは、…えーと、…ノ、ノーブラなんじゃないかって…」
「このスケベッ!」
シンジはトモミにあたまをピシッとたたかれ、ごめんよとあやまった。トモミは「それで、みたの?」としつこく訊き、そのたびにシンジは「みなかった…」「みえなかった…」「暗くてみえなかった…」となんどもあやまった。
これぞまさにアメとムチだな…宰相ビスマルクも絶賛するだろうとサタンはおもった。あの女はたしかにシンジにすべてを捧げると誓ったが、このようすだと、どうやら言いなりになるのはむしろシンジのほうだな。きょうはおそらくこれいじょう話をつづけることはできまい──シンジもトモミももはやおれが何を言っても耳に入らないだろう。まあいい。あと1年ある。たっぷりというほどではないが、あせるほど切羽詰っているわけでもない……おれは2000年待った。一日くらいなんだっていうんだ──どうってことない。
とにかく、今日という日はこの2000年のあいだでもっともすばらしい一日だった。なににもまして、かけがえのない仲間を得ることができた。サタンであるこのおれをこれっぽっちも疑うことなく、こいつらはおれを全面的に信じてくれた。これは奇跡といっても良い出来事だ。おれが言うのもへんだが、このことを神に感謝したい気分だ…。
がしかし、おれが感謝したい相手っていうのはあの野郎じゃない…断じてあいつなんかじゃない!あのクソ野郎に感謝などするものか!
「めんどうだから、きょうは泊まっていく!」
と屈託のない笑顔でトモミが言い、シンジとコースケは『マジか?こいつ…』と呆れた顔で見合わせた。
「コウちゃんもそうしなよ」とトモミがにかーと笑った。
「冗談じゃねえ!おれはおまえらがひと晩中いちゃつくのをながめてるのはいやだからな!」
「そんなことしないもんね」と言いながら、トモミはシンジの首に手を回し、顔をシンジのほっぺたにスリスリしながらぴったりと抱きついた。
やれやれだぜ…。くっそう!すっかりこいつが口癖になっちまったようだぜ。おまえ明日の準備は?と訊いたら、持ってきたって言うじゃねえか…。やれやれ、最初からそのつもりだったってことじゃねえか、まったく。しかたねえな。おれがいねえとシンジはこの女になにされるかわかったもんじゃねえ。おれが心配してんのはそこだぜ!サタンの旦那も文句はねえな?どうせおれは帰ったところで風呂もはいんねーし服も着替えねえ…。着たきりすずめってわけだ。なんも問題ねえ。なに?汚いって?パンツぐらい毎日変えろって?変えてるぜ…ちゃんとな。きょうは裏返しにする番だ…なに?いちいちうるせえな。いやなら出てけ、このやろう!
「とっとと寝るぞ、おめえらっ!」
トモミが「やったー!」とよろこび、コースケに飛び掛るようにして抱きつこうとするのを、コースケは腕一本を前に伸ばしてトモミのあたまをガシッとつかんで止めた。
「調子にのるんじゃねえ!」
「あれ?もしかしてコウちゃん?」
「もういっぺんそんな甘っちょろい呼び方をしてみろ!たとえ女だろうとタダじゃおかねえぞ、わかったか」
「了解っ!」とトモミとシンジは同時に言ってビシッと敬礼した。
「おい、ところで布団はあんのか?」コースケがシンジに訊いた。
「ええーと…」シンジはしばらく考え込んだが良い考えが浮かんだらしくポンとひざをたたいた。
「トモミさんはベットに寝て、この掛け布団をつかう」
「それで?」とコースケがさきを促した。
「ぼくは毛布をかぶってそのソファーに寝る」
「それで、おれは?」コースケはなにかに気づいて、そのせいでちょっとイラついているといった感じにみえた。
「ええーと…」シンジはちょっとたじろいだ。
「いいから、おまえの名案をきかせてみろ!」眉毛がつりあがり、もはや怒っているのは確実だった。
「ええーと、コウちゃんは…、そのう…、床のうえで…」
「床の上で?…なにを掛けるんだ?おれはなにを掛けて寝る?」
「ええーと…」
「いいから言ってみろ!」
「…マットレス」
「ばかか!おめえ!そんなもん引っかぶって寝れるわけねえだろっ!」
「だって…、ほかに…痛てっ!」シンジは拳骨を食らった。
「わたしのシンちゃんになにすんのよ!」とトモミが飛んできて、シンジのあたまを撫でながら「わたしにいい考えがある!」と言った。
「どうせろくでもねえ考えに決まってるが、いちおう聞いてやってもいい。言ってみろ」とコースケがうなるように言った。
「シンちゃんはわたしと一緒にベットに寝るっていうのはどう?そのほうがあったかいし…」
「ええーっ!ぼくが?」
「なによ!わたしとじゃいやなの、シンちゃん?」
「べつにそういうわけじゃ…」
「なら、それで決まりね!わたしはなにかを抱っこしてないと寝れないの!」
おいおい、それじゃあシンジは目が冴えちまって一睡もできねえだろうが…。でも、まあいいか。おれには関係ねえ。おい、見てみろ。シンジのあの締りのねえ顔を…。なんだ、サタンの旦那、寝ちまったのか?
「わたしはたぶんシンちゃんに抱きつく…でも、へんなことをしたらぶっ殺す──考えただけでもダメだからね!」
そりゃあ拷問みてえなもんだぜ。コースケはシンジに同情した。たいへんなやつに見込まれちまったなあ…。でも、すこしうらやましくもあるな…。
「そうだ!」トモミがひらいた左手を握った右手でポンとたたいた
「後ろ手に手を縛っておけばいいんだわ!…それより、ベットにくくりつけたほうがいいかも……」
「だいじょうぶだよ、なにもそこまでしなくたって…」とシンジは自己弁護しようとしたが、ニタニタ笑いが完全に消え去っていないいまのシンジではまるで説得力がない。
その顔を見てトモミは真顔で言った。
「冗談のつもりだったけど、ほんとうにそうしたほうがいいみたいね」
「ほんとうにだいじょうぶっだって!」とこんどは胸の前で両手を必死に振りながら、真剣な顔でシンジは訴えた。そのようすがおかしかったのか、トモミはプッと吹きだした。
「ばかねぇ、冗談よ。冗談に決まってるじゃない」
シンジはあー良かったと胸をなでおろすしぐさをした。そんなシンジをにこにこしながら見ていたトモミが、キッと急にまじめな顔つきになりこう言った。
「でも、いやらしいことしたらぶっ殺す!これは本気だからね」
しゅんと肩をすぼめ、叱られた子犬のようにうなだれて、シンジはちいさな声で「はい…」とこたえた。