31 聖母マリアの黄金の精神
おいシンジ!こいつはどえらいこったぞ!おまえわっかってんのか?
シンジはボーとした顔で、たったいま並々ならぬ決意を表明したばかりのトモミの顔を見ていた。いっぽうみつめられているトモミのほうは、シンジの視線をまともにうけとめることができず、またうつむいてしまった。その様子を見ていたサタンは思った。
(だいじょうぶさ。どうせシンジの目ん玉はなにも見えていねえよ…。しかし、よくもこんな大それたことを言ってのけたもんだ……)
すべてをあなたに捧げる──演歌あたりじゃあ使い古された言い回しだが、この女の言葉には、それよりも深くて重いなにかがある。あなたに一生ついていきます…どころじゃない、深い意味が込められている。ひと言でいってしまえば、シンジはこの女の生殺与奪の権利を得た…ということだ。おそらくこの女は、シンジが死ねと命令すればなんのためらいもなく自ら命を絶つであろう──シンジが刃物の切っ先をその胸にあてがえば、自らの手で刃物を自身の胸にずぶずぶと深く沈めるであろう──その覚悟はできている!と言っているのだ。その行為に意味があろうとなかろうと、女にはまったく関係がない──死ぬことの意義など必要としないのだ。
(おまえ、そのことがわかってるのか?安っぽい愛の告白とは格がぜんぜんちがうんだぞ!)
シンジはただ、「わかった。ありがとう」と言っただけで、それ以上はなにも言わなかった。シンジのその反応を見て、サタンには、シンジがそのことをよーく理解していることがわかった。
(じゃあ、このおれはこんな決断をしたこの女に対し、いったいなにがしてやれるんだろう…)
サタンは考えた。
この女は、現実の世界で実際にシンジに命を救われたことがない──まえの時間のシンジがおれに語り、今の時間のおれがこの女に語ったことをこれっぽっちも疑うことなく、まともな脳ミソでは受け入れがたい突拍子もない話を100パーセント信じてそう決断した──決断したしただけではなく相手の目のまえで宣言したのだ。つまり、サタンだと名乗ったにもかかわらず、このおれを完全に信頼してくれた証でもある。
では、おれはいったいなにを決断すれば良いんだ?この女のために…、いやふたりのために…
おれはシンジという男をみこんで〈屈服〉させることなく命を助けた。なぜそうしたのかというと、シンジのような男は今後二度と得られないような、たいしたやつだということがわかったからだ。シンジ以上の男はこの2000年間でたったひとりしかいない──イエス・キリスト……。だが、あの男のもっていた〈黄金の精神は〉ほかのと違うはず…つまりあの男は特別な存在であったことを考えると、シンジは過去何千人という〈黄金の精神〉を受けついだやつらのなかで最高だといえる──だからおれは決断した。そう、シンジと言う男の潜在的な力を知ったときに、こいつとならやれる!こいつにはすべてを話しても良いと決断した。
シンジは完全に信頼できる!
それならば、そのシンジにすべてをゆだねたこの女も完全に信頼できるということだ──女の顔を見れば、その決断がほんものだとわかる。
だから、この女にもすべてを話そう!それがおれが女に対してしてやれる決断だ。
「おまえたちにはおれの計画のすべてをはなす」
サタンはふたりにそう宣言した。
「すべてを話すまえに、おれはおまえに謝らなくてはならん」
サタンはトモミに深々と頭を下げた。
「なに?いったいどうしたの?ちょっと気持ち悪い…ぜんぜんコウちゃんらしくない!」とトモミはちゃかした。いっしゅんまえにみせた真剣な表情はきえ、もとの屈託ない明るい笑顔だった。ついさっき、想像を絶する内容の発表をしたのがウソのように思えるほど、晴れ晴れとした表情──飛行機が雲を突き破ったときに目の前に広がる蒼天のような顔になっていた。まるでこころのどこかにスイッチがあり、パチンとそれを切り替えたかのように…
「じつは、さっきまでおれはおまえを信用していなかった。おれたちにつきまとう裏に、なにやらどす黒い陰謀があるんじゃないか?と疑っていた──だが、そんなのはまるっきり見当はずれだとわかったのだ。おまえの決断をを知ってな。おまえがおれたちにつきまっとった理由がはっきりとわかったのだ。おまえはおれを信じてくれた。これっぽちも疑うことなく100パーセント信じてくれた。だがおれは、そうとも知らずおまえをはなから疑ってかかった。申し訳ない。ゆるしてくれ」
「あやまらなくたっていいよ。あなたがどう思おうとそれはわたしにはわからないこと。それをわざわざ話してくれたうえにあやまったくれた……それはつまりわたしが間違っていなかった証拠──シンちゃんの人を観る目が正しい証拠でもある。わたしの決断に間違いがないと確認できてわたしもうれしい」
「そうか、そういってもらえるとちょっとは気が楽になる」サタンはもいいちど小さな声で『ほんとうにすまなかった』とあやまった。
「いいの、いいの、気にしないで!わたしに大切なのはシンちゃんがどう思うかってことだけ。シンちゃんがあなたを信頼できる人だというのなら、たとえサタンだってわたしはあなたを信頼する…それだけのことよ」
シンジはひと言も発することなくふたりのやりとりをじっと見ていた。ふしぎなことに、トモミの決意を聞いたあとも、シンジの気持ちにはなんの変化も起きなかった。こうまで言ってくれる女のためなら、じぶんはどんなことでもやる!という気負いもまったくない──そうするのは当然だから。BMWのまえに一歩踏み出す決断をしたときから、シンジはトモミにすべてを捧げていたのだ──あばら骨のすきまに手を突っ込んで心臓をつかみ出しトモミの眼前にさしだすことすら、眉毛ひとつ動かすことなく平然とした顔つきでやってのけるだろう。だから、トモミにいまさらなんと言われようが関係がない──肩に力なんかぜんぜん入っていない自然体でいられるのだ。
このふたりの関係をいったいどう表現したらよいのだろう?すぐには適切な言葉が浮かばない。究極のギブ・アンド・テイク……シンジの精神はキリストに匹敵するのはサタンも認めるところ。というのであれば、トモミの精神もキリスト…いや、わが子のためならわが身を犠牲にすることをいとわないという点で、トモミのそれは〈聖母マリアの精神〉と言えなくもない……などとサタンは思ったりするのであった。
(そうだ、この女は〈聖母マリアの黄金の精神〉を受けついだ女ということにしよう)とサタンは自分ひとりこころのなかでそう決めた。
(もしそんなことを口にだせば、この女の性格からして絶対につけあがる。もちろん本心はちがうとわかっている…からかい半分おもしろ半分であるとわかっているが、つけあがられると腹がたつからそんなことはぜったいに口にはださない)
だが、この考えはあんがい的を射てるかもしないな。もしそうだとすれば、入り込めなかったことも説明がつくし、〈黄金の精神〉保有者リストに名前がなかった理由にも説明がつく──キリストの黄金の精神とおなじようなとくべつな代物だということだ。ただ、現時点では一切証拠はないし確信だってない──そうしたほうが納得できることが多いと言うだけの理由。むしろそう思いたがっているだけなのかもしれないが……。
じつをいうと、サタンは聖母マリア本人と接したことはない。したがって、彼女がどんな精神の持ち主であったのかほんとうのところはなにもわからない。〈黄金の精神〉を持っていたのかどうかということすらわからない。キリストを心から尊敬していたサタンは、その母マリアもたいへん敬っていた……いってみれば、キリストの12使徒をのぞけば、歴史上最初のキリスト教信者だといっても良いくらいに、サタンはふたりを敬っていたので、マリアには近づかなかった──たとえ〈黄金の精神〉受けついでいたとしても、キリストとおなじ運命をたどることが明白だったからだ…そんなことは絶対に避けたかった。
そういう理由から、〈聖母マリアの黄金の精神〉が実在するかどうかもサタンにはわからなかった。
(もしあるとすれば、この女が受けついでいるにちがいない)
サタンはそう信じたがっている自分に気づき、やや自嘲気味な笑いをうかべた。
(現代の世の中で、おれほど熱心にキリストとその母を敬っているやつなどおるまい…まったく、おれはサタンだって言うのに、おかしなはなしだ)
「さてと、じゃあなにから話そうか…」
サタンはこれから話そうとする内容をもう一度再検討した。そしてやはり順を追って話していくのが良いだろうと結論し話し始めた。
「まず、おれが生まれたときの話からはじめよう…」