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3 彼女こそ女神なり…

「あっ! シンジ君。バイバイッ!」


 かわいらしい女の子の声が、通り過ぎてゆくブカブカの学生服の背中に掛けられた。

 シンジは少し頬っぺたが紅くなった顔で振りかえり、その声の主の方(あくまでも方であって、そのものズバリって訳じゃない)を見た。


「あっ、トモミさん。……さようなら」


 それが、限界だった。それだけ言うので精一杯! 

 

 一緒に帰ろうか、とか、これから本屋へ行くけど、どお? スターバックス・コーヒーの新しいメニュー、もう飲んだ? なんてことは、とてもじゃないが言えるわけがない。名前を口にしただけで、節分のときにかぶる鬼のお面みたいに真っ赤になってしまうのだ。そんな変化を彼女に気取られないよう、さっと前に向き直ると、じわじわとスピードを上げ始めた。いつもそうなのだが、こんなときのシンジの頭の中は、複雑に噛み合った歯車が、おのおの好き勝手に動き始めたような状態になっている。

 だから、自転車屋のオヤジとの約束など、どこかにすっ飛んでしまっていた。

 

 やれやれ、床屋の次は、自転車屋……どうやらこの少年、街のオヤジ連中に悩ませられる星の元に、生まれついたに違いない。

 

『このギア、もう駄目だな。こいつとこいつも曲がっちまってる。交換だな』


『でも、これは何ともないんでしょう? だったら、ギアを変えなきゃ良いだけなんじゃないの?』


 あの時、自転車屋のオヤジは、それ以上何も言わなかった。オヤジは黙ったまま、6つあるギアのうち、一番小さくて重いギア──「でも、スピードは一番出るギアだよ」と、それをからかう友達に対して、シンジがいつも反論するギアにやむなく固定された自転車を、ヘタをすれば骨折するくらいクソ重たいハーレーダビットソンのキックスターターを踏みつける、ヘルズエンジェルスのバイカーみたいな格好で、ペダルの上に立ち上がって必死になってこいでいる少年の後姿を、やれやれ…というように、何度も小さく首を振り振り見送っただけだった。が、もしも今、この現場に居合わせたなら、それ見たことかと大笑いするに違いない───そんな事件がそのとき起こった。もう一段あると思っていた階段が、実はもう無かった…なんていうときや、堅い板だと思い、片足を乗っけると、実は薄っぺらなベニアで、足がズッポリ抜けてしまった…なんていう時に感じる、カクンと拍子抜けのするあの感じ……。


 ガラガラガラッ……と派手な音を立てて、チェーンが外れた。

「えっ?」 

 ふと手元を見ると、彼の頭の中の歯車が、たまたま偶然に噛み合って出した命令────本人は全く記憶に無い命令に従って、右手が変速レバーを掴んでいた。


 そいつをちょっとでもいじくりゃそうなるに決まってるんだ。なにしろ、ギアが曲がってるんだからな! 腹を抱えて大笑いしながら、自転車屋のオヤジはそう言うだろう。

 なあ、坊や。おまえさんが、修理代をケチったばっかりにそうなったんだぜ。俺のせいじゃない。俺んトコの晩飯に、そうだなあ、むこう3ヶ月ってトコだな、おかずがもう一品、そして、ビール。こいつが重要なんだ。ビールがもう一本余計に並ぶ分だけ、おまえさんが金を払ってくれさえすればよかったんだ。  

 

 ───でも、よりにもよってこんな時に、そうならくたっていいじゃないかっ! 


 なったんじゃなくて、お前がやったんだ。レバーをいじくっただろ? 恥ずかしいもんだから、ちょっとでも早く、一秒でも早く、その女の子から離れたかった。だから、お前さんは無意識のうちに、そのクソ重たいギアを、もう少し軽いやつに変えようとした。歯が曲がって、まともな仕事も出来んやつに、ここ一番、大事な仕事をさせようとしたのさ。だからそうなった。お前がしくじったのさ、坊や。


「シンジ君、大丈夫?」

 

 トモミが自転車を止めたのがわかった。そして、しゃがみこむ自分の背中越しに覗き込んでいるのが、シンジにはわかった。


「えーと、……あの」

 

 顔を上げられるわけが無い。郵便ポストみたいに、真っ赤になっているのは確実だからだ。鏡が無いので確認は出来ないが、触ればジュッと音がしそうなくらいに耳が熱い。そんなときは自分でもビックリするくらいに、母さんが見たら、慌てて病院に連れて行こうとするくらいに、真っ赤になっているのだ。


 ───でも、待てよ。よく考えると、ちょっと変じゃないか?普通、熱いものに触った時なんかに、反射的に耳タブに手をやるもんじゃなかったっけ? 指を冷やす為に…。だから普通なら、耳たぶはほかより冷たい部分のはずなのに、どうして僕の耳たぶは……


「シンジ君?」


「えっ?…あ、あの……チェーンが外れちゃったんだけど……、すぐ直るよ。大丈夫」


 シンジは、今がこいつを修理する上で一番肝心なトコで、手を止めたり、ましてや眼を逸らすなんてことをしたら、全て水の泡だとでもいった感じで、忙しそうに手を動かしながら答えた。ほんとうは、頭のてっぺんがヤカンの蓋みたいに外れて、そこから湯気がシューシュー噴き出しそうな状態なので、手は動いているが、作業はまったく進んでいなかった。チェーンを直すという目的すら、どこかに、すっ飛んでいってしまっていた。


「へぇー、意外とそうゆうの得意なんだね、シンジ君」


 からかうふうでもなく、子馬鹿にしたふうでもない(彼女がそんなこと、するはずないじゃないか!)ので、どうやら、本当に感心しているみたいだった。

 

 外れたチェーンくらいなら、誰だって直せる。作業時間に多少の違いはあるだろうが、自転車に乗っているものなら、それがたとえ、小学生だろうと、直せるのだ。だから、自分がなにをしているのか、よくわかっていないシンジでも、直すことが出来た。実のところ、自分でも、直っているのを見てビックリしたくらいだ。チェーン修理と云う作業は、それくらい簡単な仕事なのだ。だけど、彼女にそう言われると、ひょっとして、僕も満更でもないのかな、という気にさせられる。立派な仕事をやっつけたと、グイと胸を張りたくなる。彼女は、人を勇気づける力──萎れかけた植物が、急に背筋をシャンと伸ばし、花まで咲かせてしまうような──まるで太陽のような、とてつもない力を持っているんだ。

 シンジは、今までなぜ、自分が彼女を好きなのか、正直なところ、よくわからなかった。確かにかわいらしい顔はしているが、この街で一番っていうわけじゃない。それどころか、生徒数1000人未満の学校でですら、一番って訳じゃない。でも、きょう、それがわかった。わかったと言い切るには、あまりにささいな──そんなの、大袈裟に考えすぎだぜと笑い飛ばされるような、なんてことない事件だったが、シンジには、確かにわかったのだ。


「べつに得意ってわけじゃないけど、ほら、もう直ったよっ!」

元気づけられ、勇気を持って振り返ると、彼女はもう走り出していた。

「・・・・・・」


 シンジは自転車で去ってゆく女の子の後姿を見送った。一キロ離れていても、決して見間違えることのない後姿が、だんだん小さくなってゆく。

シンジは爽やかに、にっこりと笑ってつぶやいた。


「こうゆうところが好きなんだなぁ、彼女のさぁー」


 寒さに震え、背を丸めて歩いている旅人の頬を、さっと一瞬かすめてどこかへ飛んでいってしまう暖かい風…。

 その風は去り際に「街までもう少しよ。がんばりなさい!」と、消えかけていた希望という電球に、再び明々と光をともしてくれる、しっかりとした、それでいて、あふれ出さんばかりの無限の優しさが満ち満ちている声をかけてくれる。

 そして、春の香りを残して何処かへ去って行く。

 街につき、暖かいスープとパンですっかり生気を取り戻した旅人は、たっぷりと睡眠をとったあくる日に、自分を励ましてくれた暖かい春の風にもう一度逢えないかと、必死になって探すが、どうしてもみつけることが出来ない。

 そして、何年か経ったある日、彼が再び苦境に陥っているときに、その風はどこからとも無くやってきて、彼を励まし、勇気を取り戻させるのだ。


「あのひとは、春の風のようなひとだな。春風の女神ってとこかな」

 

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