27 空をいつも見てた。ふたりで見てたんだ
西の空が茜色にかわった。
空というものは知らないあいだにがらッと変わってしまうものだ。太陽が動き、地球が動き、そして雲も動く──ぜったいに止まったりはしない。一瞬たりとも止まらない。常に動いてる。そのスピードもおそろしく速い。だから、空なんてあっというまに変わってしまう。いまこの瞬間を見のがしたら、もう二度とおなじ空を見ることはできない。だから・・・
目に焼きつけておけ!と父さんはよく言った。
『あの雲の色を見てみろ!写真にはぜったいに残せないぞ』
写真には残せない・・・というのがシンジの父親の口癖だった。その意味が、幼いシンジにはよく理解できない。目で見たものをそのまま残すことができる技術──それが写真という技術ではないのか?とシンジは不思議におもうのだが、父にいわせるとどうもそうではないらしい。目でみた光景と写真になった景色はまるっきりちがう!とシンジの父親は言う。
『でも、写真が嘘っぱちだって言ってるんじゃないぞ。写真はおそらくほんもの・・・ほんものの景色を写している。騙されているのは人間のほうだ。なあ、シンジ。ひとはなぜものが見えると思う?』
──目があるから
『そのとおり!ひとは目でものをみる。じゃあ、フィルムはどこにある?』
──目の後ろ?
『はずれ!目の後ろにはなにもない。映画館みたいなスクリーンもない』
──あたまのなかにあるんじゃない?
『どうだかな、おれにもわからん。おまえにはちょっとむずかしいはなしだが、いいか、目ん玉はカメラのレンズだ。虫めがねとおなじかたちのレンズがついてる。虫めがねの実験は学校でもうやったか?』
──太陽で黒い紙を燃やすやつ?
『そうだ。その実験のとき先生はぜったいに太陽は見るなと言っただろ?目がつぶれるからぜったいにダメだと注意したはずだ。実はひとの目ん玉もおなじで、網膜という真っ黒な紙がうしろについていて、光がそのなかのちっぽけな点に集まるようになっている。虫めがねの実験とおんなじだ。だから太陽を見るとおまえの目ん玉の奥が煙を出して燃えてしまう・・・』
──ええっ!ほんとに?
『ほんとうかどうかはわからん。父さんはやったことがないからな。でも、ちょっとくらいならだいじょうぶだ。長くはいかん。太陽を見るとくしゃみが出るだろ?あれは警告だ。これいじょう見ちゃいかん!という身体からの警告』
──くしゃみが出ないときはずっと見ていてもいいの?
『えーと、そうとはかぎらんが、とにかくあまり太陽は見ないほうがいいということだ。それでと、網膜という紙切れ──実際は紙なんかじゃないが、そこに集まった光はそのあとどうなると思う?わからんか?そうか、おれもわからん。どこかにいってしまうんだろうな。どこにも出口なんてないはずなんだがな。おかしなはなしだ。その光が消えてなくなるときに、あるものを残していく──いってみれば置き土産だな。それはなにかというと電気だ。光が電気信号に変わると本には書いてあるが、なんのことやらさっぱりわからん。その電気が視神経という電線を通って脳ミソまで伝わる。どんな信号かはわからんが、目ん玉が見たものの情報がいっぱい詰まった信号だろう。その情報は絵の設計図みたいなもので、そのとおりに脳みそは絵を描きはじめる』
──えっ?じゃあ、ぼくは脳ミソが描いた絵を見てるの?
『そのとおり。コンピューターとおなじだ。デジタル信号を送るとパソコンのなかの絵を描くチップがその信号のなかの設計図どおりに絵を描いていくのとおなじ。おまえが見ているものはほんものではなくて、脳ミソが描いたCGをみているようなものなんだ。でも困ったことに、おれたちの脳ミソはあまのじゃくな性格で、設計図どおりの絵なんか描かない。勝手に変えてしまうんだな。色もかたちも、ときどきそこにはないものを勝手に描きくわえることだってある。だいたいいつもはへたくそな絵ばっかり描いてるんだが、ときどき大傑作をかくことがある。いまみたいにな』
──いま?
『そうだ。いまだ。見てみろ!あの空を!あの雲の色を!いましか見れないぞ。写真にはぜったいに写らん。目に焼き付けておくんだ!』
空いちめんにうろこ雲がひろがっている。西の地平線にはまっ赤な夕日。夕日に近い部分は雲の色も同じ色。遠ざかるにつれて赤い色は徐々に薄くなっていく。空の色もおなじように赤色からオレンジ色、黄色、白色、みず色、青色、群青色・・・というように深みをましていく。そのなかで空いちめんのうろこ雲が、まえのほうから赤いスポットライトをあびた金色の綿菓子のようにみえる。夕日がおおきな雲の中に入ると、雲のすきまから光の帯が四方八方にとびだして、むかしの海軍の軍艦旗のようにみえる。
そんなものすごい景色のなかに、シンジはたったひとり、ポツンと立って空を見上げていた。
「シンちゃんどうしちゃったのかしら?さっきからずっと空をみてる・・・」トモミはシンジの後ろ姿をみつめながら、だれにきくとはなしにそう言った。
「いいから、ほっとけ!」トモミのよこにすわるコースケが答えた。
「なんだか、さびしそう。背中が泣いてる。わたし、ちょっとみてくる」
立ち上がろうとするトモミの腕をコースケが力強い手でつかまえた。
「いいから、シンジにかまうな!」
「でも・・・」
(あんな背中をみたらほっとけない。おとこの子のあんな背中をみたら・・・)
トモミはコースケの手をふりはらって、シンジのところへ堤防を駆け下りていった。
「おい!まてっ!」
(ばかめ!まったく、女ってやつは・・・じぶんなら慰められると思い込んでやがる。知らんぷリしてるほうがいいときもあるんだ。シンジはきっと泣いている。そんなところをおまえにはぜったいに見られたくないだろうに・・・)
トモミが堤防を駆け下りてシンジの隣に来たことに、シンジが気づいたのか気づいてないのかよくわからない。シンジはただじっと空を見上げていた。
「どうしたのよ、しんちゃん!」とトモミはつとめて明るい調子で訊いてみたが、シンジはやっぱり振り向かない。ただ、だまって空を見上げている。
なにかに見とれている?UFOでも飛んでるのかしら?わたしには気づいてない?いったいなににみとれてるの?
トモミも空を見上げた。
空なんてみず色と雲の白色くらいしかないとおもっていたけど、こんなにたくさんの色があったのね!
「この空はもう二度と見ることができないんだ」
トモミがとなりにいるのは、あたりまえのごく自然なことだというようなはなしかただった。
「えっ?なに?」
「おなじ空はぜったいにない。だから目に焼き付けてる」
「ふーん、いがいとシンちゃんロマンチストだったりして?それとも詩人?」(あれ、ぜんぜん聞いてない)
「父さんが教えてくれたんだ。この空は人間の目でしか見ることができない。写真には写らないって・・・」
トモミはだまってシンジの顔を見た。シンジはあいかわらず空を見上げている。コースケは老婆心からそのことを心配していたがシンジは泣いていなかった。
「だから、目に焼き付けてる」
トモミはシンジの横顔をみて気づいた。シンジくんはほんとうは泣きたいんだわ。でも、それを必死でこらえてる。わたしがここにいるから涙をこらえてるんじゃない。さっきからずっとそうだった・・・あのときのおとこの子とおなじ顔。しわくちゃのハンカチを貸してくれたおとこの子。涙をグッと我慢している男の顔・・・いまのシンジくんとおなじ顔をしてた。
「いつも父さんと歩いたんだ。この堤防を・・・手をつないで歩いた」
トモミののどにからだのずっと奥のほうから、なにやら堅いしこりのようなものがこみあげてきた。
「ぼくはこの時間が大好きなんだ。黄金の時間ってよんでる・・・」
トモミはもうシンジの顔を見られなかった。でっかい手で胸をギュッと鷲づかみにされたような感じだった。のどが痛い。シンジの顔から目をそらして、あごをグッと突き出して空を見上げた。そうでもしないと涙がこぼれてしまう。シンジくんは泣いていないのに・・・・・・
ついさっき見た空とはまったく違う空だった。空ぜんたいが群青色。世界中のひとにぎりの人しか知らない太平洋のど真ん中の色。ほんものの海の色・・・
「大好きなのは、それが父さんとの時間だから・・・・」
ああ、もうダメ!我慢なんかできない!
トモミはわんわん大声で泣き出した。
「あれ?ともみさん、そこにいたの?・・・なんで泣いてるの?」
(うるさい!あんたのせいにきまってるじゃない!)
堤防のうえのコースケがふたりの様子をじっと見ていた。
「あの女、ほんとうにバカだな」
というわりには、そのくちぶりには妙に愛情がこもっていた。