25 シンジのゆるぎない決断
にせものなんかいらないと生意気ぬかしやがった小僧が、こんどは一転してそれをよこせ!とバスケットボールの選手がリバウンドをとるときのようなかっこうで必死にジャンプして、なんとか風船のヒモをつかもうとしていたが、さっきまでおれが入り込んでいた男は、そうはさせじとさらに手を高くあげて、くそガキをからかっている。
(あいつはおれが入っていようがいまいが、そんなことはまるで関係ないな。ゲス野郎はゲス野郎ということか…)
さんざんからかったあげくに、おまえにやるくらいなら捨てたほうがましだと言いたげな、どす黒い笑いを顔に貼りつかせて、風船のヒモをパッとはなした。こんどはサタンは風船には無関係なので、風船はまっすぐ空にのぼっていった。小生意気なガキは男にあかんべーをして店のなかに入った。おそらく母親に底意地の悪い高校生にいじめられたとチクリにいったんだろう。そしてピエロの入ってるトイレの扉をドスンドスン叩いて「ピエロのくせにウンチしてる!」と騒ぎまくるにちがいない。かわいそうなピエロ…
だから、もうだいじょうぶだ!シンジ!──みたところ危険な目にあいそうなやつは、このあたりにだれもいなくなった。おまえはそのままそこにいてもだいじょうぶなんだぞ!
シンジは力強い一歩を車道に踏みだした。
くそ!やっぱり、思ったとおりだ。あいつはすでに決断しちまってる!時計をもっていないという事実が、あいつにそう決断させたんだ。失敗が許されない状況で、あいつはいちばん確実で、もっとも勇気のいる方法を選択し決断した。
やはり、からだを張って止めるしかない。
コースケとなったサタンはシンジのところに向かってダッシュした。
全力で走りながら考えた。
おれがシンジにタックルするとして、そのあとはどうなる?こっち側からだと、ふたりとも反対車線に転がり込んじまう。それでいいのか?対向車が来たらどうなる?
ふりかえって対向車を確認すると……なんてこった!バカでっかいトラックが来るじゃないか!しかもタイミングはドンピシャのようにみえる!
どうする?…ふたりが歩道に転がり込むには、対向車線側からタックルしなくちゃならない。ということは、おれはセンターライン上を突っ走ればいいんだ!
即座に実行した!あの女が「キャー!コウちゃんあぶない!」と悲鳴をあげたが、冗談じゃない。あぶないのはおれのほうじゃない。シンジだ。車はセンターラインのうえは走らんものだ。だが車線のど真ん中は走る!シンジがビックリしたような顔でおれのほうをみている。助けに来るだろうとは予想していたが、まさかセンターライン上を突っ走ってくるとは思ってなかったようだ。それいじょうこっちにくるな!と両手をあげて必死に叫んでいる。
(ばか言え、おれは特攻機の直援だぞ!いつだっておまえのそばにピッタリとくっついてなきゃならん!おまえが敵のどてっ腹に突っ込むまで、おまえを生かしておくのがおれの仕事だ。グラマンが機銃をぶっ放してきたら、機体ごとおっかぶさってでもその弾をとめる。たとえそれでおれが死んだとしてもだ!とはいえおれは不死身だから死ぬことはないが、いまのおまえは目標を見失ってる。いちばん近くにいる敵なら、それがちっぽけな駆逐艦だっていい!というわけにはいかないだろ?おまえが突っ込むあいてはそのBMWなんかじゃない!まったくの無駄死になっちまうんだ。だからおれはどうしてもおまえを助けなきゃならん!)
だが、まてよ。もしかするとシンジは助かっても、コースケが危ない目にあうかもしれんな。が、まあそれもしかたないか。なにごとにも犠牲はつきものだ。最悪の場合はまたやり直せばむ……で、もしも、コースケが死んだら?文字どおり即死して16時05分まで生きられなかったら?…いったいだれが時計のボタンを押すんだ?たとえ死ななくても、時計が壊れてしまう可能性だってある!
いかんっ!この方法はリスクがおおきすぎる!
そのときサタンは目を疑うような光景をみた。
シンジは自分を助けに来ようとするコースケを止められないと悟ると、その場でくるりと回れ右をして、BMWに向かってダッと走りはじめた。
(な、なにいいいっ!な、な、なにするつもりなんだああっ?そ、そうか、わかった!あいつはおれを助けるために自分から突っ込んでいくつもりだ。おれにつかまらないように、おれを巻き添えにしないように──ちょっとでも先に自分が死ねば、それで悪魔は満足し、それ以上だれも死なないと判断しての行動。なんてやつだ…。これこそまさにほんものの特攻だ。おまえのその闘志!まさしく……黄金の精神!まてよ、ひょっとして、もしかするとキリストの……いや、そんなはずはない)
さあ、どうする?どうするどうするどうするどうするどうする……ひらめいた!この手があった。
(距離はだいじょうぶか?オーケー!射程圏内だ)
サタンはコースケにそのまま直進するように命令すると、コースケからはなれた。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
いきなり女のキンキン声が耳に飛び込んできた。
サタンは「やかましいっ!」と言って携帯電話を叩き捨てた。
ハンドルに手を突っ張って、ブレーキを両足でおもいっきり踏んだ。シフトノブをマイナスの表示側─手前から奥に小刻みに叩きつけてギアをダウンさせる。エンジンが唸り声をあげた!目ん玉が飛び出るくらいのもの凄い減速G!アンチロックもOFFにしたいところだが、スイッチがわからない。
だぶだぶの学生服を着た少年が髪の毛を後ろになびかせて、もの凄いスピードでフロントガラスに向かって突っ込んでくる。
(なんでこの野郎はこんなになるまでシンジに気づかないんだ?この目はガラス玉か?)
とてもじゃないが、止まり切れそうもない。しかたがない…
サタンはハンドルをグイッと右に切った。
エアバッグはついているのか?よし、ついてる。こいつは死なない。
重症で勘弁しておいてやる。BMWはそういうわけにはいかんだろうが。
サタンはそこからはなれた。
(不死身だとはいえ痛いのはごめんだからな)
BMWは頑丈なトラックの鼻面に突っ込んだ。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
どかん!となにかにぶつかった。
(いてぇ!なんだ?なににぶつかった?)
サタンの目のまえにBMWのドアがあった。
(バカか!こいつは!たしかにそのまま直進しろとは言ったが、どんな障害物があっても!とは言っとらん!そらみろ、ドアが凹んじまったじゃないか!もっとも、まえの部分はそれどころじゃないがな)
道路のうえに、急ブレーキをかけたときについたタイヤマークが黒々とのこっていた。タイヤマークは20メートルほどはまっすぐだが、ある地点まで来ると急激にくの字に曲がっていた。2本あったタイヤマークは、曲がり始めのところで外側の1本だけになっている。過重が左前輪1本だけにかかった証拠だ。
そこにシンジが立っていた。
タイヤマークの曲がったところに、ぼーぜんとまえをみつめてつっ立っている。
「おい!シンジ!だいじょうぶか?」
サタン=コースケは、痛いおもいをさせたBMWのドアにバコン!と蹴りをいれた。そのとき、見事にプックリ膨らんだエアバッグに顔を押しつぶされていた運転手が音に驚いてギャッと叫んだ。
(ふう、やれやれ、こいつもだいじょうぶそうだ)
「シンジ!けがはないのか?」
なんど呼びかけても返事がない。返事どころか振り返りもしない。
「おい!」といって背中をバシッとどやしつけてやると、その背中がビクッと大きく波打った。そして、やっとシンジは振り向いた。
「コウちゃん…だめだった。失敗だった」
「なんのことだ?なにが失敗なんだ?」
「死んじゃった!ぼくのかわりに…、ぼくのかわりにあの運転手……、生け贄になった…」
「あいつならだいじょうぶだ。死んでない。それどころかピンピンしてやがる」
「えっ?ほんとうに?」
「ああ、さっきちらっと見たんだ。エアバッグのなかでわめき散らしながらもがいてやがった。何ヶ所か絆創膏貼ったり、縫ったり、ギブスはめたりしなくちゃならないだろうが元気そうだ。でも、救急車は呼んでやったほうがいいかもな。なにしろあいつの電話はさっき叩き壊してやったから、自分じゃ電話できない。…ところで、おまえのほうはなんともないのか?」
トモミが走ってこっちにむかってくるのがみえた。そのときBMWのドアがあいて──こいつはびっくりだ。あんな状態でドアがひらくなんて!さすがBMW!さすがはドイツ工業製品!頑丈に作ることへの執念すら感じる!おそるべしゲルマン魂──運転手がなかから這いずりたしてきた。
「おい!おまえ!動いてだいじょうぶなのか?」とコースケが訊くと、へらへら笑いながらグイッと親指を立てた。
(信じられんな。愚か者と酔っ払いに神は寛大だなどと言われてるがほんとうなんだな。もちろんココでいう神は、おれの知ってるやつとは別の…という意味だが。もっとも、ただ単にドイツ人の執念が奇跡を産んだだけなのかもしれんが…)
「救急車はよんだわ!」と駆け寄っていたトモミが言い、しまりのない顔でつっ立っているBMWの運転手に「だめよ!寝てなきゃ!あたまを打ってるかもしれない。急に動くと血圧があがって切れかかっている血管があたまのなかで切れちゃうかもしれないのよ!」と脅した。
それを聞いた運転手はあわててその場にしゃがみこんだが、「そういう急な動きもダメ!」とさらにトモミに叱られた。
「わたし、ERでみてよく知ってるんだから!」
落ち込んでいるシンジにとってその言葉はまさに特効薬!しかも即効性とくれば…
シンジの顔が、ぶっ叩けば直る古いカラーテレビのように、とつぜん総天然色の輝きをとりもどした。
「えっ?トモミさんもERよくみるの?」
このわたしにそれを問うの?と言いたげな不敵な笑みをうかべてトモミが言った。
「見るなんてもんじゃない。どっぷり浸かってる」
やれやれ、シンジが元気になったのはうれしいが、ERの会話で盛り上がるのにこんなにふさわしくない場所はほかにないぞ!みろ!あの運転手、ますます落ち込んじまってるじゃないか!しかも、ここは道路の真ん中だ!
「おふたりさん、警察が来ちまってからじゃ現場検証だのなんだの足止めをくらっちまう。とっととずらかったほうがいいとおれはおもうがどうだ?」
「でも、わたしたちは目撃者だから、証言する義務があるとおもう」
「そんな義務なんぞドブに捨てちまえ!だいいちおれとこいつは目撃者なんかじゃない。こいつはなんで道路のうえをふらついていたのかってしつこく訊かれるだろう。しかもこいつはそれが説明できない…」
シンジに顔を近づけて、耳元でトモミがそっと囁いた。
「なんだかきょうのコウちゃんいつもとちがわない?目端が利くっていうか、あたまに油が差されたっていうか…」
「そうかな、いつもとおなじだよ。コウちゃんはずっとこうだよ。とってもたよりになるんだ」
「ふーん、そうなの。ちっとも知らなかった。ところでシンちゃん?」
(シンちゃん?ぼくのこと、いまシンちゃんって呼んだの?)
「シンちゃんの耳たぶ、まっ赤よ。さっきからずっと」
「えっ?ほんと?」
「キスしたらジュッて音がしそうなくらいにまっ赤だわ!ためしてみる?」
(やれやれ、シンジよ。おまえ、苦労させられるぞ。その女は小悪魔だ。まちがいない!いまのシンジには、まわりのものがなにもかも黄金色にキラキラ光って見えていることだろうぜ。おい、そこの女!おまえもそれ以上シンジをからかうんじゃない!そらみろ、すっかり腑抜けになっちまったじゃねえか!)
なあ、シンジ。おれたちはたしかに時間をとりもどした。だが、とりもどした時間をたっぷりとつかって、おまえに話さなくちゃならないことがやまほどある。おまえはいま、このまま時間が止まってくれないかな!っていうようなしあわせいっぱいの顔をしているが、まだまだおれたちにはやることがいっぱい残ってるんだぞ。わかってるのか?
いや、いまのシンジにはわかっていない。いまおれの目のまえで、女とERのはなしでもりあがってるシンジには、おれはまだなんにも話していない。だから、シンジにはわからない。ちょっと面倒くさいが、もう一度最初からこいつに話してやらなきゃならない。だから、もたもたしてるひまなどない!
「とっととずらかろうぜ!」