17 これは攻撃!こいつの攻撃にちがいない!
このチビスケめ、おれをなめてやがる。敵を舐めてかかったら、痛い目にあうのはそっちのほうだぞ。
『人類の歴史上、敵を舐めてかかって戦いにのぞみ、勝利した軍隊などない!』
──ぜったいに?
『ああ、ぜったいにない!』
──ぜったいに、ぜったい?ほんとのほんとのぜったいのぜったい?
くそう。こどもがあいてを小ばかにするみたいな言い方しやがって!だが、この態度こそ、こいつがおれをなめている決定的な証拠。つまり、この瞬間にこいつの敗北は〈確定〉した。だが、ぜったいに?と訊かれると、正直にいうと自信がない。歴史はたしかに勉強した。おれは歴史が好きだからな。いってみれば得意科目だ。しかし、過去の歴史をすべて知っているってわけじゃない。子ども同士のけんかやお隣さん同士の土地の境界線をめぐる小競り合いなんて、本にでていないからなぁ。
はっ!もしかしてこれはっ!罠…、これは……罠じゃないのか?
そうだ、罠だ。このチビスケは、おれの知らないなにかを知っているにちがいない。攻撃だ。攻撃をしかけてきやがったんだ!
──どうしたの?きゅうに〈幽霊船〉みたいに静かになっちゃってさ?
なんだと?幽霊船?……もしかして、難破船?…あの件……あの件を蒸し返すつもりなのか?ま、まずい!ダメージをうける。いや、すでに受けている……動揺しちまったからな。どうする?ジャブは顔面にヒットしちまった。どうする?
──あのねぇ、いいことおしえてあげる。
くるぞ!こいつのフィニッシング・ブローがくる!耐えられるかっ!
──あの例えのことだけど…
きた!やっぱりこいつは気づいてやがったんだっ!どうする?……ここは、ひとつ…すっとぼけるしかない。
『たとえ?なんのことだ』
──ほら、あのたとえだよ。…難破船の
ああ!とうとうでちまった。こいつのくちから!ごまかすしかないっ!
『難破船?なんのことやら、さっぱりわからんな』
──忘れちゃったの?ほら、ぼくのからだの状態をみてさぁ…
くっそぉぉ……こいつは何がなんでも何でもあの件を蒸し返すつもりだ。しかも、このもったいぶった態度は、おれに言わせようとしている──もういちど過ちを繰り返させたうえで、強烈な右ストレートを叩き込もうってはらだ。…そ、そうだ!いい作戦がある!書き換えちまえばいいんだ!上書きしちまえばいい。いいぞ!こいつは海賊船の旗みたい…って言っただけだ。そのまえのカリブ海のくだりはもしかすると……いけるぞ!これならいける!
『ああ、あれね。カリブ海を400年間さまよった難破船…』
──あれ?そうだっけ?たしか、ごひゃ……
い、いかんっ!こいつは、おぼえてやがる!もうだめだ。これいじょうは回避不能……かくなるうえは、サタンはサタンらしく、尊敬すべき敵の攻撃を真っ向から受けるのが、相手への礼儀というもの!
『カリブ海を500年間さまよった難破船の旗のようにズタボロ……と言った。それがどうかしたのか?』
さあ、こい!おまえのいちばんの攻撃をみせてみろ!
──幽霊船だよ
なに?幽霊船?なに言ってるんだ?いったいなんのことだ?
──難破船じゃなくて幽霊船──カリブ海を500年間さまよった幽霊船の旗…と言ったほうがしっくりくる。そうはおもわない?
えっ?こいつ、気づいてないのか?気づいてなかったのか?……ふぅー、やれやれだ。たすかった。
しかし、たすかったと喜んでいる場合じゃない。すくなからずダメージをうけたのはたしかだ。じつは、正直に言うと、ダウンするほどじゃないが、相当なダメージをうけちまった。まさに一方的!やられっぱなし…。みたところ、こいつはまだピンピンしている。からだはズタボロのくせに、精神にダメージはまったくない。さすがだな。さすがおまえは〈黄金の精神をもつくそったれ〉だ。お?この名前もけっこういいな。でも、まてよ。よくかんがえてみろ。こいつはおれのミスに気づいていなかった……ということは、おれの受けたダメージというのは……もしかして、…自爆?──オウンゴールってやつか!それとも、おまえがおれのオウンゴールをさそったのか?…そうだとしたら、たいしたやつだ!ますます、あなどれん。いよいよもって、あなどれんぞ!
『たしかにおまえのいうとおりだ。そのほうがいい。採用してやる』
──やったー!はじめてほめられた!バカだの、まぬけだのさんざんひどいことを言われたけど、はじめてほめてくれた!
ばかいえ!おれはいつだっておまえのことをほめてる。たいしたやつだとほめてる。あなどれんやつというのもれっきとした褒め言葉だ。ただ、口にはださんがな。サタンは相手を侮辱するだけで、けっしてほめたりはしないもんなんだ……。
──ところで、さっきの話の続きだけど……
い、いかん!まだ、そっちがかたずいてなかった!敵をあなどった軍隊が…というやつのことだろ?どうする?すっとぼけるか?ごまかすか?どうする?……そうだ!おれは、「…そんな軍隊が…」と言ったはずだ。軍隊は個人とはちがう。だから、こどものけんかや酒場での酔っ払い同士のけんかなんていうのは、その範疇には含まれないはずだ。だから、その件を〈指摘〉されてもなんとかきりぬけられる。だが、本物の軍隊同士の戦いでも、ぜったいになかったかと〈追求〉されたらどうする?げんにこいつはしつこいほど〈絶対に?〉って訊いてきている。
世の中に〈絶対〉なものなどなにもない。ぜったいにないか?と訊かれたらぜったいにないとはいいきれない。それが〈絶対〉という言葉の重み──軽々しく扱える単語ではない。〈絶対〉にはその事実を証明する〈証拠〉が必要になるのだ。証明できない事柄は絶対ではない。おなじように〈無限〉という単語も扱いがむずかしい。宇宙は無限にひろがっている…などというようなことを軽々しく口にだすバカがいるが、なぜ知ってる?宇宙が無限だとなぜわかる?宇宙のいちばんはしっこをさがすためにロケットにのり、どこまでいってもはしっこにたどりつけないから〈無限〉なのか?冗談じゃない!はしっこにたどりついてはじめて、宇宙は無限ではない!と証明できるだけで、たどりつかない場合は、はしっこがないのか、あるけどたどりつけないだけなのか、だれにも判断できない。証明が必要なのが〈絶対〉で〈絶対〉に証明できなのが〈無限〉──いずれの言葉も軽々に扱えるようなものではない。
だから、ぜったいにない!とはいいきれない!どんな条件をつけてもだ!そもそも、おれは〈絶対〉に…なんていっとらんじゃないか!ん?もしかすると、やけっぱちで一回ぐらいはいったかもしれんが…
──敵を舐めてかかった軍隊が勝ったことはないの?ぜったいに?
こいつ、〈絶対〉〈絶対〉と軽々しく口にだしやがって!そうだ。コレで反撃してみるか。〈絶対〉という言葉の重みをあじわわせてやるっていうのはどうだろう?……だめだ、たぶんこいつには効かない。おそらく理解不能だからだ。理解できなければダメージもない。
さて、どうしたものか……そうだ!敵を侮って負けた例ならいっぱいある。それをひきあいにだして、納得させてしまえばいいんだ。
『おまえだって、桶狭間の戦いのことは知ってるだろ?』
──もちろん。今川義元は織田信長をなめてかかってまけた……コンスコンみたいに。
コンスコン?だれだ、そいつはきいたことがないな。日本人ではないようだが、そんな妙ななまえの皇帝やら将軍なんてきいたことがない。まけたというからには、なんらかの軍事指導者のはずだが、わからん。だれだ?コンスコンっていったいだれだ?歴史とくに戦史にかんしては知識を相当に吸収したはずだが、まだ勉強がたりなかったか!ちくしょう。知らないから教えろっていうのもしゃくだな。歴史マニアのプライドがゆるさん。べつの話題に切り替えるか?そうだ、そうしよう…
──コンスコン知らないの?
くそっ!そうきたか!「知ってる?」じゃなく「知らないの?」ときたか。「知らないの?」ときくときは、あいてが知らないとほぼ確信しているときだけだ!知っている可能性が非常に高いが、ひょっとして知らないかもしれんないときや、だれでも知ってそうなことをきくときは「知ってる?」ときく。そのほうが、あいてが知らなかった場合、あいてのうけるダメージが少ないからだ。
だが、やっこさんは「知らないの?」ときやがった──これは一種の〈挑戦状〉だ。当然「知らない」というこたえを期待しているにきまってる。がしかし、サタンのおれさまは
『知ってるに決まってるじゃないか!』と答える。
そして、答えたあとで…後悔する
「どうやら。急患みたいだ。シンジくん、ちょっと待っててくれ!」
グリーン先生はドアをいきおいよく開けて、外傷2号をとびだし、廊下でうろうろしていた患者や警官や掃除係を蹴散らしながら、どこかへ走っていった。
「グリーン先生どこいったのかしら?急患なんていないのに…」と太った黒人の看護婦が言い、「さあ、家庭にいろいろ問題抱えてるから」とまったくよけいなお世話だといいたくなるようなことを、ハサウェイ婦長はそこにいる全員にきこえるような大きな声でバラしていた。