16 こいつの怖れているものはいったいなんだ?
ダッダッダッ……とだれかが廊下を走ってくる音がきこえた。その足音はキュキュキュゥゥゥーッとドアの前で急停止し、バンッといきおいよくドアが開いて、両脇になにやら本のようなものをいっぱいかかえた抱えたグリーン先生が、外傷の2号にやっともどってきた。
「よし、移すぞ!」グリーン先生が言った。やけにはりきっているようにみえる。
ERでの治療の第一歩は、〈移す〉ことからはじまる。予習したんだ。ココへ来る途中にな。
「移すぞ!」とグリーン先生はもういちど言った。
ちがう。こいつは動揺しない。こいつが怖れているのはコレじゃない……。
「よし、3でいくぞ!1・2・3!」
シンジはようやくストレッチャーから、治療台に移された。
移されて残ったこの台車はどうするんだ?もともと救急車のものだから、連中のところにもっていけばいいのか?借りたものはキチンと返すってのが筋ってもんだ。じゃあ、こいつの背中の下敷きになっている担架は?台車と担架は2つでワンセットのはず。台車だけ突っ返されても、救急車の連中、よけいに困るんじゃないのか?そうか!わかった!こいつの下から担架をひっぱりだすんだ?きっとそうだ。そうにちがいない。でも、いきおいよくひっぱってはだめだ!いっきにひっぱると、こいつはドラゴン・スクリューをくらったようにギュルルゥゥゥーッと回転しちまうだろう。
グリーン先生がごそごそとシンジの背中に下敷きになっている担架をひっぱりだそうとしたそのとき、マリクという名前の看護士が、ストレッチャーの台車のところにいき、ゴロゴロとうごかしはじめた。
「おい、おまえ!まだもっていっちゃいかん!まだ、これを……」
マリクはおかまいなしに、さっさとどこかへ台車を押していってしまった。
なんてやつだ!あいつめ!まだだといってるのに。看護士の分際でおれのいうことをきかんとは!こいつの下敷きになっているこの担架はいったいどうなる!不完全なままかえすつもりなのか?……くそ、いっちまいやがった。さて、この担架はどうすれば…、そんなことはどこにも書いてなかった。もっと時間があれば、勉強して完璧な準備ができたものを!勉強は大切だが、時間がなければ大切な勉強もできない…。つまり、時間も大切ってことか。いい、勉強になった。こんかいはいい勉強になった。いや、なったではない。まだおわっていないんだから…。まあ、いい。担架はこのままにしておこう。すこし、ひっぱりだしちまったが、また押し込んでおけばいい。
グリーン先生が、ごそごそとシンジの背中の下に、なにかを押し込んでいるとき、ハサウェイ婦長がハサミでシンジのズボンをジョキジョキ切りひらいた。
「両方とも完全に折れてるわ。右脚のほうは骨が飛び出している…」
「ひどいわねぇ」と大柄の黒人看護婦が言った。
オイ、コラァ!そんなもん見せるんじゃない!ひどいなんてもんじゃないぞ!おれなんか、まともに見ることもできん。おまえら、よくへいきだな。あのヘボ運転手め!これにくらべたら、おれのやったことなんて、子供のイタズラみたいなもんだ。ほんの出来心でやっちまった万引きのようなもの。おれがやったのは、おでこのポツポツだけだ。ちっぽけな穴ぼこ5つだけ!絆創膏貼っとけば3日ほどで勝手に治っちまうような、ちっぽけな穴ぼこ5つだけ!それにくらべて、こいつは……。見るに耐えんな。なんてひどいことを!あいつはきっと悪魔かなんかにちがいない!下っ端の悪魔の分際でおれよりも残忍なことを!…どうせやつは死んだあとでおれのとこにくるににきまってる。そのときは……
「ポータブルがきた!」とハサウェイ婦長が言い「ちょっとさがっていて!」とシンジのまわりに空間をつくった。そこへなにやら仰々しい大きな機械がはこばれきて、その機械が、シンジのうえから覆いかぶさるように設置された。
これが、〈ポータブル〉だと?このバカでっかい機械が?とてもじゃないが、ポケットに入れて持ち運びできるような代物じゃないじゃないか!が、しかし、たしかに人がこいつを押してここまでもってきた。つまり、持ち運びではなく運搬だ。〈ポータブル〉とは運搬可能という意味。大きさではない。いいぞ。いい勉強になったぞ。こいつが動揺しないところをみると、〈ポータブル〉もちがうようだ。
突然、機械が光った。そして、もういちど…
なんだ?ひょっとして、こいつはレントゲンとかいう、物騒な代物じゃないのか?だいじょうぶなのか?おれをふくめて、だれもあのクソ重たい鉛入りのチョッキをきていないが、放射線は大丈夫なのか?おや?こいつめ、いまちょっと動揺したぞ。なんだ?なにに動揺した?〈放射線〉か?……ちがう。どのみち、こいつが〈放射線被爆〉の心配をしたところで、死刑囚が肺がんの心配をして〈最後の一服〉をことわるみたいなもんだ。おや、こいつ、いまわらったな。おもしろかたのか?いまのおれのたとえが、おもしろかったんだな?ところで、このつぎはいったいなにをすれば…
グリーン先生は、シンジの背中の下から、またなにやらひっぱりだしてそれをのぞき込み、「そうか、フムフム、なるほど…」などとしきりにうなづいたりしていた。その様子をみていた黒人の看護婦が、「きょうのグリーン先生、ちょっとへんね」とハサウェイ婦長にそっと耳うちし、ハサウェイ婦長は「最近、奥さんとうまくいってないみたいなの」と、まったくよけいなお世話だと言いたくなるようなことをバラしていた。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
サタンはグリーン先生になりきることに手一杯で、ときどき〈弱点〉を知るために、これだとおもった単語をただぶつけてくるだけで、精神的プレッシャーをあまりかけてこなくなった。
だから、シンジはちょっと暇をもてあましている。
「あの一件。例の一件。そう、難破船の一件からだ。あれいらい、グイグイまえにでてこなくなった」
たしかにあれは、わざとまちがえた。まちがえたというより、海賊船のほうがかっこいいとおもったからだ。でも、言った直後に後悔したんだ。しまった!幽霊船の旗といったほうがもっとよかったってね。最初にあいつからそのたとえを聞いたとき、あたまの中にでてきたイメージは、難破船や海賊船なんかではなく、幽霊船のものだった。それはたぶん、あいつのあたまのなかのイメージもおなじだったとぼくはおもう。だから、すぐにおしえてやろうとしたのに、なぜか、あいつはきゅうに黙り込んでしまった。
でも、ぼくのほうでも、あれはぜったいに幽霊船のほうがいい!とヤツに教えてやりたかったので、へんなたとえだとおもったけど、こう言ったんだ「難破船みたいに静かになっちゃって!」てね。でもほんとは「幽霊船」と言いたかったんだ。ヤツにもっといい言い方があるぞっておしるために。そうなんだ。言いまちがえた。バカなたとえだ!とぜったいヤツは反撃してくるとおもったのに、ヤツはしてこなかった。ふしぎなことに、あのとき、ヤツのこころにかすかな恐怖を感じた。へぇー、サタンにもこわいものがあるんだとへんに感心しちゃった。だって、この世でもっとも怖れられている存在なんだよ。その、サタンがこわいものっていったいなんだろう。訊いたって、ぜったい教えてくれないだろうけど…。
『呼吸音が微弱だ!』……ちがう
『すぐバッグして!』……『バッグ!』……ちがう。これじゃない
サタンの目的は、ぼくの弱点をさぐること。そして、その弱点をつかい、ぼくを屈服させるのが狙い。まったく、おかしなやつだな。だいじなことまで、ぜんぶぼくに喋っちゃうなんて。ほんとうのおれはこんなんじゃない!とかいって、ぜんぶぼくのせいにしてたけど、ぼくはただ質問しただけだ。うるさい!だまれ!とかいって、無視しちゃえばいいだけなのに、そうしないのは、あれがやつのほんらいの姿だっていう証拠じゃないかっておもえる。あいつはじぶんがサタンだといっているが、そんなものは所詮にんげんが都合のいいように捻じ曲げて、あいつの存在を利用しているだけなのかもしれない。
『酸素飽和度!』……ちがう。これもちがう
あいつは、神が自分を創ったといっていた。もちろん、神なんていう呼び方を考え出したのはにんげんだ。ということは、サタンという呼び名だって、にんげんが考え出したにちがいない。そして、じぶんのことが書いてある本で勉強し、そこに書いてあるサタンのように、ほんとうはぜんぜんちがうのに、じぶんはこうあるべきだと勝手に思い込んでいるだけなんじゃないだろうか。
呼びかたといえば、ぼくがいつもミスター・サタンってよぶのは、呼び捨てにできないからそう呼んでるだけで、べつにからかってるわけじゃない。サタンさんなんて、へんでしょ?
『おい、だれかピーターを…』おや、ちょっと動揺したな。『ピーター!』まただ。また動揺した。
これがこいつの弱点なのか?念のためにもう一度……『ピーター!』……こんどは反応がないな。これじゃないのか?しかし、動揺したのはたしかだ。調べる必要がある。どれどれ……ピーター・ベントンは優秀な外科医で…
絶対悪なんてものあるとはおもえない。あいつなら、じぶんがにんげんからそう呼ばれているにもかかわらず、世の中にぜったいなんてものはない!と宣言しぼくを延々と説教しつづけるだろう。
善と悪
善とはもちろん神。悪とはもちろんサタンのこと。ということは、まったくの正反対ではあるものの、〈格〉という一点においては、神と同格ということになる。だから、ぼくなんかの相手をしてくれているなんて、ほんとうは、とても光栄なことなのかもしれない。
『ピーターは切り刻みたがり屋だとルイス先生が…』おっ!反応があった!
『切り刻みたがり屋』……ちがう
『ルイス先生』……やった!これだ!針が振り切っちまうほどの反応!
あー、とうとうばれっちゃった!ぼくがルイス先生がだいすきってことがばれちゃった!
『こいつめ!おれを完全になめてやがるな』