14 シンジ、ERに担ぎこまれる!
救急車の観音開きのドアがひらくと、メガネをかけて薄いみどりいろの半袖の服を着た男の医者と、薄いピンク色の服を着た看護婦が立っていた。車内にいた救命士が、ぼくがねているベットを押し出すと、医者と看護婦が外にひっぱりだした。
ベットだとおもっていたものは、じつはそうではなく、ストレッチャーとかいう病人やけが人を運ぶ担架の一種で、救急車から出た瞬間に、たたんであった脚がX字型にひろがった。脚のさきにはくるくるまわるタイヤがついている。そのタイヤをキュルキュルキュルゥゥゥーと盛大に鳴り響かせて、岸和田のだんじり祭りのように、猛烈な勢いで廊下を突進した。
「なにがあった?」と医者が訊くと、救命士は「16歳の少年。本屋のあるの交差点で、80キロのスピードで突っ込んできた、マヌケづらの男が運転するBMWにはねられたっ!」とこたえた。
「頭部、腹部、両脚に外傷っ! 大腿カフで止血しました。両脚とも複雑骨折! 頚椎、脊椎も骨折の疑い! 頭部打撲の程度は不明!意識は朦朧としてますが、あります。両目とも瞳孔は反応あり!」
「これはひどいな。骨が飛び出してる。バイタルは?」
「血圧50と80。生食2リットルを点滴。脈拍120。酸素600ミリ。出血がひどく〈送管〉できませんでした」
「よし、外傷の2号へ運ぼう。急いで、急いで、おい、そこどいてくれっ!」
「処置は?」とピンク色の服を着た看護婦が訊くと、その医者は「Oマイナスを6単位、血算、生化学、モルヒネ4ミリ、頭部、胸部、レントゲン、整形外科医にも来てもらってくれっ」と答えた。
「なまえは?なまえは言えるかい?」と医者がぼくに訊いたが、こんな状態の…えーと、ミスター・サタンのやつはなんて言ったけ。おもしろいこと言ったんだけど…そうだ!難破した海賊船だ!そいつの旗のようにズタボロだって言ったんだ。そんなぼくにこたえられるわけがないじゃないか。
でも、なぜか医者はぼくの名前を知っていた。
「シンジ君、きこえるかい?ぼくはグリーンだ。すぐ治してあげるからね」
グリーン先生?ERの?シカゴ・カウンティー総合病院の?
そうだ、確かにそうだ。シカゴ・カウンティー総合病院のER・スタッフドクター、マーク・グリーン先生だっ!
ああ、そうさ。そういうことにしておいてやる。ほんとはそうじゃないがね。しかしだ。グリーン先生の役はやってやるが、おれはミスター・サタンじゃないぞ!難破した海賊船なんてことも言ってない!まったく。いいかげんなやつだ。おれが言ったのは、カリブ海をごひゃ……
…まてよ。クリストファー・コロンブスがカリブ海のイスパニョーラ島に上陸したのが1492年、いまから518年前。おれがイメージしているような大型帆走船が難破して、500年間さまようなんてことがありえるのか?カリブ海はハリケーンが発生して海がよく荒れる。とうぜん難破する船もたくさんある。もんだいなのは、発見されたのが518年前で、おれが言ったのが500年、そのあいだの18年間に大型船が難破したかどうかってことだ。たったの18年…くそう、なんてことだ。もし、その期間に難破した船がただの一隻もなかったら?もしそれが事実だったら、おれは口からでまかせを言っちまったことになる。…発見直後の海を、ヨーロッパの船がそう頻繁に行き来したとは思えん。小船ならあるだろう。原住民が魚をとるのにつかう、丸太をくりぬいただけのカヌーのようなちっぽけな船なら確実に何隻も難破しているにちがいない。だが、大西洋を横断してきた船となると、まったく自信がない。勉強不足だ。チクショウ!おれとしたことが…。やつは気づくだろうか…おれのミスに気づいただろうか?〈指摘〉されるかもしれん。〈指摘〉されれば、おれはすくなからずダメージをうける。いわゆる精神的ダメージってやつだ。…400年間ということにしておけばよかった。この件を追求するのはマズイ!
「先生?どうしたのきゅうに黙り込んじゃってさ」
「え?」…気づいたのか?こいつ、おれのミスに気づいたのか?
「まるで、難破船みたいに静かになっちゃってさ」
なんだ、このわざとらしいたとえは!静かな状態をあらわすには「難破船」という比喩表現などつかわない。いまだかつて聞いたことがないくらい不適格な単語の選択だ。やはり、気づいてるな!こいつめ、気づきやがった!…はっ!いまのおれの状態!いまの…おれの…この…じょ・う・た・い・ぅわぁぁぁ……ど、動揺だ!。すっかり〈動揺〉しちまってる。〈動揺〉とはすなわち精神のダメージ。くそう、先手を取られたってことか。やつがほんとうに気づいているのかどうかも、まだわからないっていうのに、すっかりおれは〈動揺〉しちまってる…。あなどれん。ますますあなどれんぞ。
「はやく治してよ、先生」
こいつ、すっとぼけやがって!知っていてわざと間違えやがったんだ!おれのミスを知っていて、わざと間違えやがった!ああ、やってやる!グリーン先生でも、ブルー先生でも、なんだってやってやるとも!
だが、おれだって、本当はやりたくない。なぜかというと、ココはこいつの領域だから。おれはココのことはなにも知らない。テレビなんて見ないからな。だが、こいつの弱点をさぐるためにはココで戦うしかない。こいつの恐れているものはどうやらココにあるらしい。こいつは助かりたい一心で、救急車を心待ちにしている反面、そのさきに待ち受けているなにかに、心底おびえていた。救急車で運ばれるのは病院だ。だから、あのゴミ溜めのような〈倉庫〉から、〈病院〉のファイルをひっぱりだしたらこいつがでてきた。へたくそな字でこう書いてある。〈シカゴカウンティー総合病院〉…中途半端な翻訳をしやがって、バカめ!正確には〈シカゴ郡総合病院〉だろうに!もしくは、〈シカゴカウンティー・ジェネラル・ホスピタル〉と全部カタカナにするかのどっちかだ!しかもだ。シカゴ郡などない。シカゴは〈市〉だ。イリノイ州クック郡シカゴ市というのが正式な住所。だから、クック郡総合病院ならいい。
「そんなことどうでもいいじゃないか!まったくいちいちこまかいんだから。それより、早く治してよ。グリーン先生なんだろ?」
なんだ?こいつのこの余裕ぶっこいた態度は……。ちがうのか?ココじゃないのか?こいつが怖れているものは、ココにはないのか?
「あるよ。ちゃんとココにある」
『うそつけ!あるもんか!そこまで言い張るならどこにあるか言ってみろ!』
「・・・・・・」
さすがに、この程度の誘導尋問にはひっかからんな。なんといってもこいつは〈黄金の精神を受けつぐ厄介な代物〉だからな。
「ぼくを〈屈服〉させたいんだろ?だったら自分でさがせば」
くっそう!こいつの態度は余裕があるばかりか、挑発的ですらある。しかし、こいつの膨大な知識の糞溜めのなかから〈弱点〉をさがすことなど不可能。こいつの恐怖心だけがたよりだ。こいつはたしかに病院を怖れている。正確には、このなかのなにかをだ。このバカのくだらん妄想につきあうしかないのか?
「とっとと治せ!死なれちゃこまるんだろ?」