11 黄金色の時間のなかで、シンジは決断した!
本屋のある交差点は、いまや、この世でもっとも呪われた場所と化した。
公園の生垣が途切れて最初に見えたのは、スターバックス・コーヒーの入り口に立っている、ピエロのオレンジ色のポンポンだった。シンジは「チクショウ!」と心のなかで叫んだ。
「あのピエロめっ! また、いやがるぞっ!」
ピエロは、耳まで裂けた赤い大きな口で笑っている。手には風船をひとつ、たったひとつだけ持っている……そこがくせものだとシンジはおもった。ピエロが風船をひとつだけもっている…なんてことは有り得ない。ピエロは風船をたくさんもっていなくちゃいけない。なぜなら、こどもがつぎからつぎへと風船をもらいにくるから。たくさん用意した風船の最後のひとつとも考えられるが、午後4時という時間は、幼稚園や学校から帰ったこどもをつれて、夕食の準備のために、お母さんが買い物にでようかと考えるはじめる時間だ。だから、あの風船は、最後のひとつなんかじゃない。もともとひとつしかもっていないんだ。ピエロがもっている風船は、もつところがヒモでできていて、なかにヘリウムガスの入った、ふわふわ浮かぶ風船だった。色はピエロがきている服のポンポンと同じ、動脈血のようなオレンジ色だった。
シンジはその色を見て、背筋が凍った。
あのピエロ、不吉な感じがする。何かをじっと待っているような感じがする。やはり、ヤツの仲間だろうか?
シンジは、トモミのまえにすわっているヤツを見た。
ヤツを見て、思いっきりブレーキをかけたくなった。
ヤツも笑っていた───ピエロと同じ顔で…
いつものニタニタ笑いではなく、耳まで裂けた、スイカにかぶりついたような、赤い三日月のような口で、まっすぐにこっちを見て笑っている。
『やあ、待ってたぞ。今回で最後だろ?彼女、助けられるかい?』
ヤツはなにもかも知っているのだろうか。知っていて、楽しんでいるのだろうか。
「おい、ぼくを甘く見るなよ」
シンジは、ある決意をしていた。その決意が滲みでたような口調でだった。
信号が『青』に変わり、シンジは交差点に突っ込んだ。そして、周りの迷惑を顧みずにフル・ブレーキをかけて、道路を渡りきったところで自転車を飛び降りた。自転車は倒れたまま歩道を滑り、停めてあったほかの自転車を弾き飛ばして、本屋の前の駐輪スペースにピタリと収まった。
シンジは飛び降りたままの勢いで、本屋の横の路地に飛び込み、突きあたりのコウスケのところまで、全速力で走った。コウスケはいつもと同じかっこうで(コウちゃんは、あまり〈カオス理論〉の影響を受けないタイプらしいな)、子犬をいじくりまわしていた。
「コウちゃんっ! 犬はそのままでいいっ! 犬はほっといて、ぼくといっしょに来てっ!」
「シンジ!なんだよっ! 藪から棒にっ!」
いかにも不良らしいかっこうで、犬小屋のまえにしゃがみこんでいたコウスケは、ビクッとふりむいた。コウスケの口から『藪から棒』なんていう単語が飛び出し、シンジにはそれがおかしかった。
「いいからっ!」
シンジはコウスケの腕を引っ張った。その拍子に、抱いていた子犬がコウスケの腕からするりと飛び出し、表の通りのほうにむかってチョコチョコ走りだした。
「あぁっ!犬はマズイィィッー!」
シンジはバレーボールのリベロの選手のように、子犬めがけてあたまから飛び込んで、なんとかとりおさえた。
(まえの時はまだ鎖がついていたのに、今回はすでにはずれていた。先が思いやられるぞ!)あらためて、シンジは気を引き締めた。
「犬をちゃんと鎖につないだら、通りまで来て欲しい。助けが必要になるかもっ!コウちゃんには、ぼくのそばで待機していてもらいたいんだっ!」
シンジは子犬をコウスケに手渡すと、くるりと回れ右をして、通りの方にむかって駆けだした。
「だってよぉ、シンジ。この犬コロであの野郎を…」
「そんなことしちゃ駄目だっ!」シンジは走りながら叫んだ。「犬はちゃんと鎖につなぐんだっ!」
シンジは通りに飛び出すと、90度左に急ターンして、スターバックス・コーヒーのオープンカフェにむかった。途中、カフェの入り口に突っ立っているピエロをチラリと見てみた。赤いおおきな口は確かに笑っているが、そのなかの本物の口は、無愛想なへの字口だった。トランプのダイヤみたいな形のまん中にある目は、怒っているようにさえ見える。
(だから、ピエロは嫌いなんだ。でも、どこかがへんだ。ちかくで見るとピエロはへんなものだけど、来る途中に見たときと、なにかがちがってるような気がする。いったいどこがちがうんだろう……でも、いまは、間違いさがしなどやっている場合じゃない!)
シンジはふたりのテーブルのところまでやってくると、トモミが自分のすぐまえに、きちんとたたんでんで置いてあるハンカチを鷲づかみにした。そうするあいだじゅうずっと、シンジの目は、むかいがわにすわるヤツをにらみつづけていた。
『そんなことで防げると思ってるのかい?』ヤツの顔にうすら笑いがうかんだ。
「シンジ君! ハンカチ、どうするの?」
とつぜんあらわれたシンジに、ビックリしたような声でトモミが訊いた。
「いいからっ! トモミさんはぼくといっしょに来て!」
われながら、ずいぶん大胆になったなとおもいながら、トモミの二の腕をつかむ(なにせ経験ずみだから…)と、強引に立ちあがらせた。
「ちょっと、痛いわよっ! シンジ君」
そんなトモミの抗議を断腸の思いで無視して、腕をグイッとひいて、なかば引きずるようにして、本屋とコーヒーショップのあいだのせまい路地の入り口のまえにやってきた。ここへ来る途中、もう一度ピエロを見てみたが、どこに違和感を感じたのかはまだよくわからなかった。
「ハンカチは君がしっかり持ってろ!」
そう言って、鷲づかみにしたハンカチをトモミに手渡した。自分のポケットに入れてもよかったが、そうなると、トモミとひと悶ちゃくおきるのはさけられそうにない。なししろ時間的な余裕がまったくないので、いま彼女とひと悶ちゃくおこすのは得策ではない…と判断したのだ。心情的には、時間に余裕があれば、ひと悶ちゃくどころか、ふた悶ちゃくも、なんだったら三悶ちゃくもおこしたいところではある。
「ポケットに入れたりするな!手でしっかり持ってるんだ。もうすぐコウちゃんがここに来る。彼といっしょにココにいるんだっ!」
(コウちゃんなら、守ってくれるはずだ。コウちゃんなら、きっと!)
シンジはくるりと向きを変え、交差点に向かって、ひたいが地面にくっつきそうなくらいの前傾姿勢でダッシュした。
そのときだった。おとこの子の声が聞こえた。
「おにいちゃん、それ、ふわふわ浮かぶの?」
シンジはその場所に凍りついた。「おにいちゃん…?」あの子はたしかにそう言った。
「しまったっ! 風船だっ!」
(ピエロは風船を持っていなかった!だから、違和感を感じたんだ!最初に見たときは、オレンジ色の風船をちゃんと持っていた!)
シンジは振り返った。ヤツが、ふわふわ浮かぶオレンジ色の風船のヒモをもって、シンジのほうを見ていた。
そして、ヤツは笑った
『どうだい、おれの勝ちだろ?』
シンジの握られた両方の拳に、グッと力がこもった。
路地からコウスケが飛び出してきた。
「おーい、シンジ! どうしちまったんだ? いったい」
「コウちゃん!彼女をたのむっ!」
学生服にオレンジ色の風船という、まずめったにお目にかかれない組み合わせに見とれているかのように、シンジはヤツから目をそらさずに言った。
「この女を?どういうことだ、シンジ!いったいなにがあった?」
それにはこたえずに、シンジは交差点のほうに向き直った。道路の遥かさきに、走ってくるBMWが見えた。ひょっとすると、このままなにもしなければ、彼女は助かるかもしれない。彼女はいま、歩道のうえだ。しかも、コウちゃんがぴったりと寄り添うようにして立っている。
『じゃあ、床屋のオヤジはどうなる? その女の代わりに生け贄にするつもりなんだな?』
そう言って笑うヤツの声がきこえたような気がした。
本屋のガラス越しに、自転車に乗った床屋のオヤジが見えた。まえのカゴには茶色い紙袋、そのなかにはセブンスター2カートンと、ここからは見えないが、チョコレートが1つ入っているはずだ。本屋の直角の建物の端から、床屋のオヤジの自転車の前輪が、ゆっくりと顔をだした。
考えたり、悩んだりはしなかった。からだが勝手に動いた。
シンジは自転車に向かって突進し、床屋のオヤジに跳び蹴りを食らわせた。前と同じように、跳び蹴りは見事に決まり、オヤジはその場に、自転車にまたがったままのかっこうで歩道のうえにぶっ倒れた。そして、驚いたような、ひょっとこ顔でシンジを見つめた。
そのとき、また、おとこの子の声が聞こえた。
「おにいちゃん、それ、ふわふわ浮かぶの?」
その声を聞いて、ドロップキックをオヤジに食らわせたあと腹ばいになっていたシンジは、さっと立ち上がり、声のしたほうを、うす笑いををうかべたヤツのほうを、暴走族から若い警官を守りきったあの日の父親とおなじ目でにらみつけた。
「ああ、そうさ、こいつはふわふわ浮かぶよ」
ヤツはゆっくりと手をひらいて風船のヒモをはなした。ヘリウムの入った風船は、本来なら、ヤツの手を離れると同時に、上空にむかってどんどんのぼっていくはずだ。しかし、不思議なことにその風船は、やつの手から開放されても、空にはのぼっていかずに、スゥゥーッと真横に、ヒモのさきがちょうど男の子の手が届くか届かないかの高さで、水平に、地面と平行に、風が吹いていないにもかかわらず、まるで意思をもっているかのように、ゆっくりとうごきはじめた。いまはまだクルマは走っていないが、何秒かのちにはそうではなくなる道路のほうにむかって…。男の子はその風船を、バンザイしたようなかっこうで、ちょこまかと小走りで追いかけはじめた。
にたにた笑いながら、ヤツはじっとシンジを見ていた。
『生け贄はたしかにいただいた。おれの勝ちだ』
遠くで鳴っているカミナリのようなヤツの声が、シンジには聞こえた。
「だめだ、間にあわない!」シンジの立っているところから、おとこの子のところまで、30メートルはゆうに離れている…「ぼくの負けだ」
BMWがものすごい勢いで迫ってくる。こんどもマヌケづらは携帯電話をかけている。制限速度も軽く20キロはオーバーしている。おとこの子の母親が、なにか叫びながら、なにかを求めているかのように両手をまえ突きだして、スターバックコーヒーのドアから飛び出してきた。
すぐに、コウちゃんもトモミさんも、風船を追いかけて歩道から道路に飛びだそうとしているおとこの子に気づくだろう。気づいたら、誰かが助けにいくだろう。そのことにすでに気づいているおとこの子の母親か、あるいはいちばん頼りになるコウちゃんか、ヤツがもっとも欲しがっているトモミさんか、もしかするとピエロかもしれない…いかないのはヤツだけ。ヤツだけは唯一の例外。ヤツいがいのだれかが助けにいって……
そして、生け贄になる…
でも、まだほかにひとつだけ方法がある。ヤツの思いどおりにさせてたまるものか!断じておまえの好きにはさせない!
「おい、ゲス野郎、ぼくを甘く見るなよ」
シンジは一段高くなった歩道から、黒いアスファルトの道路の上に、ダンッ!と力強く足を踏み出した。あふれんばかりの決意のみなぎった一歩だった。
コウスケよりさきに、トモミがおとこの子に気づいた。すばやい動きで母親を追い越して、おとこの子に駆けよると、その子をボストンバックみたいに脇に抱え、あっというまに、飛ぶような速さで歩道に駆け戻った。
やっぱりだっ! 彼女がいちばんさきに気づくのを、ヤツは知ってたにちがいない。でも、彼女の素早さは計算外だったのかもしれない……いや、そうじゃない。彼女が無事に歩道にもどれたのは、かわりにぼくがここに立っているからだ。ヤツには生け贄はひとりでじゅうぶんなのだ。だから、トモミさんは無事にもどれた。かわりにぼくがココにいるから…。だから、トモミさんはもう大丈夫のはずだ。
おとこの子が泣きはじめた。風船が飛んでいってしまったからだろう。
奇妙なことにその風船は、トモミさんがおとこの子を連れ帰ると同時に、まるで自分の役割はおわったと言わんばかりに、なにかがプツンと切れたように、オリンピックの開会式で箱から飛び出した鳩のように、いっきに空へと駆け上っていった。
おとこの子のまえで、しゃがんで顔の高さがちょうどおなじくらいになったトモミが、ハンカチで、つさっきシンジが「しっかり持っていろ」と渡したハンカチで、泣きじゃくるおとこの子の顔をやさしく拭いてあげていた。
そんなトモミの姿を見て、シンジはハッとした。
この光景、どこかで見たことがある事があるっ!
シンジの視界からトモミとおとこの子が消えた。
いまシンジに見えているのは、片側だけ補助輪のついた16インチの青い自転車にまたがった5・6歳のおとこの子だった。おとこの子は、公園の生垣のよこをふらふらと、今にも転ぶんじゃないかと心配になるほどふらふらと走っている。やがて、そのおとこの子は公園の入り口のところへやってきて、そこで止まった。
公園のなかのジャングルジムのところで、おとこの子とおなじくらいの歳のおんなの子が、小学校3年生くらいの男の子3人に、ぐるりと周りを取り囲まれて泣いていた。おんなの子は、白いフリフリのついたワンピースを着ている。そのワンピースが、あちこち泥で汚れていた。
片側に補助輪のついた自転車にまたがったまま、おとこの子は、公園の入り口のところで、しばらくのあいだ、その様子をじっと見ていた。
(あっ! 思い出したぞ! あれは、ぼくだ!)…本当はそんな遠くへは行ってはいけないと言われていたのに、片側の補助輪が取れたのが嬉しくて、ついつい遠くまで来てしまったあの日だ。
おとこの子は、カウボーイみたいに颯爽と自転車から飛び降り、おんなの子のところへ駆けよった。そして、口をぎゅっと固く結び、おんなの子を自分の背中にかくすようにして、おもいっきり両手をひろげて大の字のようなかっこうで、3人組のまえに仁王立ちになった。
3人のうちのリーダー格の男の子が「なんだ? おまえ、ちびのくせに」と言い、仁王立ちのおとこの子は「ちびだけど、ぼくはちびだけど、おんなの子をいじめるようなワルじゃないっ!」と答えた。でも、所詮は5歳のチビスケが、倍も歳のちがう3人にかなうわけがない。さんざん小突きまわされ、拳骨で頭をなん発もなん発も殴られた。殴られるたびに、その子は地面に倒されるのだが、決してへこたれなかった。倒されても、倒されても、そのおとこの子は立ち上がり、口をへの字にまげ、手を大の字に広げて、そのおんなの子を守った。
おとこの子の姿が、白いヘルメットをかぶったおとなの姿とダブって見えた。
(あれは…、父さんだ!)
その足もとに、おなじようなかっこうをしたひとが横たわっている。いきなり突き飛ばされ、地面で頭を打って気を失った若い警官だ。その人のまえに、手を横に大きくひろげた父さんが、口をへの字にまげ、目をカッと見ひらいて立っている。
取り囲んだ若者が、手にした鉄パイプやバットで情け容赦なく殴りかかっても、父さんは決して目をつぶらない。ヘルメットが割れ、ひたいから血がダラダラと流れて、その血で顔が真っ赤になっても、父さんの目だけは真っ白で、殴り続ける若者たちを、ギロリとにらみつけていた。
(あのとき父さんは、手はぜったいに出さなかったけど、目で、カッと見ひらいた真っ白な目で、若者たちと戦っていたんだ。)
「さあ、来るなら来てみろ! おれは絶対に倒れんぞ!」父さんの目がそう言っていた。
あの日のぼくも、父さんと同じ目をしていた。本当は怖かった。すごく怖かった。今にも泣き出しそうだった。知らん顔して通り過ぎることもできた。でも、そうしなかったのは、父さんがそうしないからだ。途中で逃げ出すこともできた。でも、そうしなかったのは、父さんがそうしないからだ。ドロドロに汚れて家に帰って、父さんにわけを話したときに「そうか、えらいな、シンジ」と髪の毛をクシャクシャにしてもらいたかったからだ。
3人組みが行ってしまったあとで、ぼくは泣いている女の子に、いつもポケットに入れっぱなしの皺くちゃのハンカチを渡した。
「おまえがおんなの子で、かわいそうだったから助けたんじゃないぞ。ぼくがおとこだったから、おとこはああしなくちゃいけなかったから……」
そこまで言うと我慢していた涙がどんどんあふれてきて、泥まみれの手でゴシゴシやったもんだから、顔じゅうがまっ黒になった。おんなの子は自分の顔もまっ黒なくせに、ぼくの顔をみて笑い、皺くちゃのぼくのハンカチでやさしく拭いてくれた。おんなの子に泣いているのを見られるのが嫌で、そのハンカチを手ではらいのけて、ぼくは走って公園を出て行った…
(あぁっ! もしかすると、あのハンカチ…、あのおんなの子は、トモミさんじゃないのか?)
きっとそうだ。BMWに轢かれそうになってまでも、あのハンカチを拾おうとしたのは、大切な思い出のあるハンカチだったからだ。アイロンがきちんとかかっていて、まっ白に洗濯してあったけど、あのハンカチはぼくのハンカチだ、間違いない!いま、そのハンカチで、トモミさんは、泣きじゃくるおとこの子の顔をやさしく拭いてあげている。その姿が、ぼくがすっかり忘れていた遠い昔の記憶を呼び覚ましたにちがいない。トモミさんは、あのときのおとこの子がぼくだと知っているんだろうか?…たぶん、知らないだろう。ハンカチをいつも大切に持ち歩いているのは、いつかあのときのおとこの子に、もう一度逢えると信じているから。そして、いつ、そのおとこの子に逢ってもいいようにと、きちんと毎日アイロンをかけ、まっ白に洗濯している──「ありがとう」と言って、ハンカチを返せる日が来るのを信じている。
きっと、そうだ。彼女はそう信じているんだ。
コウちゃんが、道路の真ん中に突っ立っているぼくをみつけて、こっちに走ってこようとしている。なにか叫びながら、学ランのすそを大きくなびかせて、こっちにむかって走ってくる。いざというときは必ず助けてくれるコウちゃん……でも、もう、間に合わない。
コウちゃんはそこにいて!
ヤツからトモミさんをまもってあげて!
ぼくはもうまもれないから、今度はコウちゃんがまもってあげて!
BMWがすぐそこまで迫ってきているのがわかる。物凄い圧迫感を感じる。特徴あるフロントグリルが、すぐそこまで迫ってきている。
あのときのおとこの子はぼくだと伝える時間はなさそうだ…助けることができてよかった。
さようなら……
シンジはクルリとからだをまわし、目前に迫ったBMWをまっ正面からにらみつけた。
『よし、それでいい、それでいいんだ。シンジ』
(父さんの声だっ!)
『おまえはよくやった。立派だった。えらいぞ、シンジ』
シンジは手を大の字に拡げ、目をカッと見開いた。
マヌケづらの運転手は、世界ビックリ人間大賞という番組に出られるくらい、ポロリと落ちるんじゃないかと心配になるくらいに、まんまるな目でぼくを見た。ふしぎなことに、その顔はマヌケには見えなかった。彼なりに、なにかと必死に戦っている男の顔に見えた。
BMWのフロントバンパーがぼくの脚にそっと触れた瞬間、運転手の口が「すまん。ゆるしてくれ」と言ったように見えた。
『シンジ、ブライトリングは、もう、おまえのものだぞ!』
「父さん!」涙があふれ、なにも見えなくなった。
(絶対に目を閉じないぞ!父さんがそうだったように!)
次の瞬間、物凄い衝撃で気が遠くなった。
両方の脚に激痛が走り、骨が粉々に砕けたのがわかった。
足が地面を離れ、身体が宙を舞い、1回転したのがわかった。
最後に見た景色は、なにもかもが黄金色に輝いていた。
「ぼくがいちばん好きな時間……」
地面にたたきつけられたときは…
…もう、痛みを感じなかった。