第一章 千歳屋
千歳屋に着いたのは、一月十七日、土曜日の午後四時を少し過ぎたころだった。
雪は峠を越えたあたりから本降りになり、タクシーは最後の坂を二度登りなおした。助手席の一条誠はそのあいだ一度も窓の外を見ていない。膝の上の文庫本に指を挟んだまま、眠っているようにも見えた。
一条と旅に出ると、たいてい誰かが死ぬ。このときの僕はまだ、それを冗談だと思っていた。
僕、佐伯透は一条が解いた事件を本にして暮らしている。『一条誠の事件簿』は四冊目まで出て、どれもそこそこ売れた。売れた理由の半分は一条の顔と、テレビの生放送で彼が口にするあの決まり文句にある。残りの半分は僕の文章だと思いたいが、編集者に確かめたことはない。
今回の旅は事件簿と関係がない。ある雑誌で山あいの古い宿を訪ねる紀行の連載をもらった。その一回目に選んだのが千歳屋で、一条は頼んでもいないのについてきた。
「退屈なんです」
駅のホームで、一条はそう言った。彼が退屈だと言うのは、事件がないという意味だ。
タクシーが止まる。一条は文庫本を閉じて黒いコートの襟を立てた。細い鼻筋に、よく眠ったあとのような目。二十九歳になっても、学生に間違えられることがあるらしい。テレビ映えのする顔と週刊誌に書かれたことを、本人は気にしていない。
雪をかぶった門の奥に、二階建ての木造の宿が灯りを点けて沈んでいる。三代続く、部屋数十二の旅館。紀行文にはそう書くつもりで、手帳にももう書いてある。
玄関で迎えてくれたのは、若女将の千歳澄江と年配の仲居だった。澄江は四十代の後半に見えた。帯の締め方にも、頭の下げ方にも迷いがない。
「遠いところを、ようこそお越しくださいました。雪で難儀なさいましたでしょう」
仲居は小柄で、白髪をきつくまとめている。僕の鞄を受け取る手が思いのほか力強い。
「杉田でございます。キヨとお呼びくださいまし」
キヨは一条の顔を見て、少しだけ目を見開いた。テレビで見たことがあるのだろう。何も言わずに、もう一度頭を下げた。
キヨの案内で長い廊下を奥へ歩いた。右手の中庭に雪をのせた石灯籠が三つ並んでいる。突き当たりで廊下は二つに分かれる。左へ行けば母屋、まっすぐ進めば渡り廊下の先に離れの露天風呂がある、とキヨが教えてくれた。渡り廊下の手前の二間続きが、大旦那の住まいだという。
僕たちの部屋は分かれ道のすぐ手前にある。
「お客様の露天は、夜の十一時まででございます」
襖を開けながら、キヨが言う。
「そのあとは、大旦那様がお入りになります。毎晩、十一時四十分ごろに。廊下で足音がいたしましても、どうぞお気になさらず」
「長くお勤めなんですか」
僕が聞くと、キヨは座卓の茶器を並べ直しながら少し笑った。
「十九でこちらに上がりまして、五十年になります。お客様のお布団も、大旦那様のお布団も、五十年、私が敷いております」
一条は窓際で雪の中庭を見ている。キヨが下がると、振り返らずに言った。
「いい宿ですね、佐伯くん」
「まだ何も見てないだろう」
「廊下が鳴りませんでした。毎日、誰かが磨いているんです」
*
夕食の前に取材の挨拶をしておこうと、帳場へ行った。
帳場の奥では、眼鏡をかけた男が帳簿を広げている。澄江の夫で、宿の経理を見ている千歳博之だと、あとで知った。向かいの長椅子では、背広の男が携帯電話に低い声で話している。
「ですから、明日の十時です。……ええ、判は大旦那が。……はい、条件はそのままで」
僕に気づくと、男は軽く会釈して電話を続けた。四十代の半ばだろうか。磨いた靴の先が雪で白く濡れている。
博之が帳簿を閉じて立ち上がった。
「取材の方ですね。家内から聞いています。……ああ、あちらは黒川さん。東京の、開発会社の方です」
それ以上の説明はなかった。博之は帳簿の上に手を置いたまま、黒川の電話が終わるのを待っている。帳簿に何が書いてあるのか、僕には見えなかった。
*
夕食は母屋の座敷に呼ばれた。テレビで一条を見ていた大旦那が、ぜひ家の者と一緒に、と言っているのだという。断る理由はなかった。
床の間を背に、大旦那の千歳源蔵。七十八だと聞いていたが、背筋はまっすぐで、白い眉が長い。右に澄江と博之、左に高校生くらいの少女がいる。娘の葵です、と澄江が紹介した。源蔵の孫にあたる。肩までの黒髪をひとつに結んだ少女は、小さく頭を下げただけで顔を上げなかった。
料理は大皿で出た。山菜の煮しめと、川魚の甘露煮と、猪肉の味噌焼き。銘々が自分で取り分けて食べるのが、この家のやり方らしい。
源蔵はほとんど箸をつけず、一条に事件の話をせがんだ。一条は話してかまわないものだけを選んで、ていねいに話した。テレビで見るとおりの礼儀正しい青年だった。源蔵は何度か声を立てて笑い、そのたびに澄江がちらりと父の顔を見る。
食事が終わると、源蔵が言った。
「葵。お客さんに、玉露を」
葵は黙って立ち、茶道具を盆に揃えて戻ってきた。鉄瓶の湯をまず人数ぶんの湯呑に注いでいく。その手元を源蔵が顎で示す。
「玉露は、熱い湯では死ぬ。こうして湯呑で冷ます。湯呑も温まる。その湯を急須に移して、葉を起こす。二分待つ。それだけのことだが、それだけのことを、わしは五十年、毎晩やってきた」
葵が湯呑の湯を急須に戻していく。手つきに迷いがない。蓋をして待つあいだ、誰も口をきかなかった。
注がれた玉露は薄い緑色だ。含むと、出汁のような甘さが舌の上に広がる。
「おいしいです」
一条は葵のほうを見て、もう一度。
「とてもおいしいです、葵さん」
葵は小さくうなずいた。夕食のあいだに彼女が見せた反応は、それだけだった。
「わしが淹れるより、旨くなった」
源蔵が誰にともなく言う。葵は黙っていた。
源蔵の前にだけ、色の違う湯呑がひとつ。白っぽい釉の表に髪の毛ほどのひびが網の目に走り、そのひびがところどころ茶色く染まっている。
「萩だ」
源蔵は湯呑を手のひらにのせて、一条のほうへ傾けた。
「このひびを貫入という。焼くときに入る。そこに茶が染みて、色が変わる。使うほど顔が変わるから、萩の七化けと言う。こいつは五十年かけて、ここまで育った」
「湯呑が、育つんですか」
僕が聞くと、源蔵はうれしそうに顎を引いた。
「育つ。人が使えばな」
襖の脇に控えていたキヨが、そこで口を添える。
「大旦那様の湯呑だけは、洗剤を使いません。茶が育たなくなりますので」
「キヨに叱られる」
源蔵がそう返すと、座敷に小さな笑いが起きた。
湯呑を置いて、源蔵は一条に向き直った。
「明日の十時に、この宿を人に渡す」
座敷の空気が少しだけ固くなる。博之が眼鏡を押し上げ、澄江は膝の上で手を重ねた。葵は動かない。
「黒川という男が、東京から来ておる。判をつけば、それで終わりだ。客に聞かせる話ではないが、あんたはどうせ気づくだろう」
「お売りになるんですか」
「年寄りが決めたことだ」
源蔵はそれ以上言わなかった。一条もそれ以上は聞かなかった。
座敷を出がけに、源蔵が葵の肩に手を置く。
「九時に、いつもの」
葵はやはりうなずいただけだった。
*
八時を少し回ったころ、大浴場へ行こうとして帳場の前を通った。
奥の小部屋から、男の声が二つ漏れてくる。
「話が違うじゃありませんか、大旦那」
黒川の声だった。電話のときよりずっと早口だ。
「違わん。働いておる者は、全員そのまま雇う。それが呑めんなら、判はつかん」
「それは、前の晩に言い出す話じゃないでしょう」
僕は足を速めてそこを離れた。他人の家の帳場の話を立ち聞きする趣味はない。
大浴場から戻ったのは、九時の少し前だった。
部屋の手前の分かれ道で、母屋のほうから葵が歩いてくる。両手で盆を持っている。後ろに、湯たんぽを抱えたキヨ。
二人は僕に会釈して、まっすぐ渡り廊下のほうへ進んでいった。源蔵の部屋の障子の前で、葵が膝をつく。
「入ります」
小さな声だった。
部屋に戻ると、一条は座卓で文庫本の続きを読んでいた。僕は手帳を開いて夕食の席の話を書き留める。湯呑で湯を冷ます。葉を起こす。二分待つ。五十年、毎晩。
書き終えて、手帳を閉じた。
「客に聞かせる話じゃなかったな」
売却のことだ。一条は文庫本から顔を上げなかった。
「源蔵さんは、聞かせるつもりで話していました」
「それでも、あの子の前で言うことはないだろう。知らないほうがいいこともある」
一条が頁をめくる手を止める。
「佐伯くんは、そう思いますか」
「思うこともある」
「僕は、ないと考えています」
一条は文庫本を伏せて、こちらを向いた。
「知らないままでいると、人はそこから動けません。知るのがつらくても、知れば、そこから始められます。僕はそのために、この仕事をしています」
テレビの一条は、こういうことを言わない。言えば嘘くさく聞こえるからだろう。座卓の向こうで聞くと、少しも嘘くさくなかった。
それだけ言うと、一条はまた文庫本を開いた。
九時半ごろ、喉が渇いて廊下の自動販売機まで出た。
戻りがけに、また葵とすれ違った。今度は一人で、奥から母屋のほうへ歩いてくる。廊下の灯りが彼女の白い靴下と、盆の縁を照らしている。盆の上で、湯呑がひとつ小さく鳴る。
「おやすみなさい」
葵は小さく言って、台所のほうへ曲がっていった。僕に向けられた彼女の声は、それが最初だった。
*
十一時を過ぎると、宿は静かになった。一条はとうに寝ている。僕は窓の外の雪を少し眺めてから、灯りを消した。
その夜、一度だけ目を覚ました。
枕元の時計は見なかった。渡り廊下の先から、湯の流れる音が聞こえていた気がする。雪が音を吸うせいか、ひどく遠い音だった。
僕はまた眠りに落ちた。




