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超美人ギャルに転生した藤原真夏、弱者男性を口説いたら朝廷ができた

掲載日:2026/09/05

 男を口説くとき、同じ文面の恋文を使い回してはいけない。


 私はそこを心得ていた。


 文面はすべて変えた。褒めるところも変えた。送る時刻まで、相手の生活に合わせた。


 結果、三人が本気になった。


 手を抜くべきだった。


     ◆


 私の名は藤原真夏。


 二十三歳。アパレル勤務。髪はミルクティーベージュ。爪は長め。顔は、自分で言うのもなんだが、かなりよい。


 道を歩けばスカウトに声をかけられ、写真を上げれば加工を疑われる。ところが動画を上げると「動いてるほうがやばい」と言われるので、どうやら静止画が私に追いついていない。


 そして、前世は男の公卿だった。


 情報の出し方としては失敗したと思う。


 同じことを親友の莉子に説明したときも、彼女は五秒ほど黙ったあと、


「ああ、だから字が異様にうまいの?」


 と言った。


 そこから納得する者があるか。


 思い出したのは先月だった。


 何気なく自分の名前を検索したら、見知らぬ古代の男が出てきた。


 いや、知っていた。


 私だった。


 父の顔。宮中の廊下の冷たさ。宴の音。自分を呼ぶ声が、出世の前後で微妙に変わる、あの感じ。


 二十三年分の私の中へ、昔の一生がどっと流れ込んできた。


 家に帰っても、母はいつもの母だった。クローゼットには自分で買った服があり、スマホの中には高校の修学旅行で変顔をする私がいた。


 誰かと入れ替わったわけではない。


 今の私に、やたら古い実家が増えたのである。


 ちなみに、現代の母に名付けの理由を聞くと、


「八月に生まれたから」


 だった。


 偶然の仕事が雑すぎる。


 私、藤原真夏は、奈良の時代に生まれ、平安の世で宮廷に仕えた。平城の上皇に近く、政争に巻き込まれ、備中へ左遷もされた。


 弟は冬嗣。


 そう。歴史の教科書に出てくるほうである。


 昔から、あいつは要領がよかった。


 千年以上たって検索しても、まだ私より目立っている。執念深い弟だ。本人の意思ではないのが、なお腹立たしい。


「で、その前世の記憶、何か役に立つの?」


 莉子が言った。


 彼女は二十五歳で、叔母から継いだ小さなボードゲームカフェ『双六』を切り盛りしている。私は休日、ここでよく遊ぶ。


「立つよ。誰が話したがってるか、誰がへそ曲げてるか、だいたいわかる」

「接客に便利」

「あと、褒めてほしいところを外さない」

「恋愛にも便利じゃん」


 私はストローをくわえたまま、止まった。


 恋愛。


 今世でも言い寄られることは多かった。しかし会話の半分が私の顔の話で、残りの半分が相手の自慢、ということも多かった。


 前世で、出世した者の自慢は一生分聞いている。


 今世までおかわりしたくない。


「莉子。かわいい男の子、知ってる?」

「顔?」

「いや。褒めたら、ちゃんと喜ぶやつ」


 莉子は奥の卓を見た。


 男が三人、世界を救うボードゲームをしていた。


 いま世界は、かなり滅びかけていた。


     ◆


「うちらも入れて」


 私が声をかけると、三人とも顔を上げた。


 一人はカードを落とした。


 一人は椅子を引こうとして自分が立った。


 最後の一人は私と目が合い、なぜか壁の時計を確認した。


 よい。


 大変、よい反応である。


 佐伯航、二十八歳。システムの保守をしている。細身で、声が小さい。ゲームの駒に自分で色を塗るのが趣味。


 宮田修平、三十一歳。物流倉庫勤務。体が大きく、声も大きいが、私への挨拶だけ蚊ほどになった。菓子作りが得意らしい。


 長谷川篤、二十六歳。書店員。眼鏡。古代史が好きで、私の名前を聞いた途端、


「冬嗣のお兄さんと同じですね」


 と言った。


 初対面でそこを突くか。


「その人も、わりと頑張ったんだけどね」

「あ、はい。真夏流も、後世に続きますし」


 よし。許す。


 三人はこの店で知り合った友人で、恋愛経験はそろってゼロだった。


 篤が冗談めかして言う。


「俺たち、弱者男性の定例会みたいなものなんで」


 私は盤面に目を落とした。


「弱者男性、ドラゴン倒せそう?」

「あと二ターンで、全員死にます」

「じゃ、先にそっちどうにかしよ」


 私は航の隣に座った。


 彼は私から少し離れようとして、壁にぶつかった。


「退路、ないね」

「すみません」

「謝らなくていいのに。教えて、このゲーム」


 航はうつむいたまま説明を始めた。


 慣れない者が何かを説明するとき、最初の一言を取り上げてはいけない。


 私は相槌だけ打ち、彼が少し滑らかに話せるようになるまで待った。


「つまり、この人が囮になるんだ?」

「そうです。でも、ここで回復を使うと、次の攻撃で――」

「待って。それ、航くんだけ損してない?」


 彼の指が止まった。


「……俺が死んでも、全員で勝てればいいので」


 私は自分の駒を、彼の駒の隣に置いた。


「やだ。初デートで未亡人になりたくない」


 航が説明書を閉じた。


「……ちょっと、ルールを確認します」

「今、閉じたけど」


 その晩、我々は世界を救った。


 航だけは、救われたような顔をしていなかった。


     ◆


 昔、宴の席で学んだことがある。


 人は、皆の前で褒められると喜ぶ。


 だが、皆が見過ごしたところを自分だけに褒められると、その声を長く覚えている。


 翌日、私は航にメッセージを送った。


『昨日の青い騎士、自分で塗ったって言ってたじゃん。マントの裾だけ泥の色なの、旅してきた感じで好き』


 すぐ既読がついた。


 返信は七分後だった。


『ありがとうございます』


 その十文字を整えるために七分。


 なんとかわいい。


 続いて、写真が来た。


 机に並ぶ騎士たち。小さな筆。塗料の瓶。写真の端には、慌てて片づけたらしい紙くずが少し写っている。


『まだ途中なんですが』


 私は画面を拡大した。


『白い騎士、うちの爪と色おそろだ』


 自分の指先を撮って送る。


『今度、実物並べて写真撮ろ』


 次の休日、カフェの窓際で、航は本当に白い騎士を出した。


 私はその横に手を置く。白いネイルには金の小さな星がついている。


「あ。盾にも星ついてる」

「……追加しました」


 その返事で、少しだけ胸がくすぐったくなった。


 だが、こちらは公卿である。


 顔には出さない。


「うちに合わせて?」


 航は筆箱を開けたり閉めたりした。


「そうです」

「やば。うれし」


 私は騎士に顔を近づけた。


「ね。写真撮って。うちも一緒に」


 航の構えるスマホが、わずかに震えた。


 彼の世界に、私が一人、増える。


 昔の私は、自分の席を宴の上座に増やしたかった。


 これは、それよりずっと簡単で、ずっと楽しかった。


 撮り終えたあと、航がぽつりと言った。


「まぶしくないですか」

「ん?」

「そこ、さっきから日が当たってるので」


 私の写真ばかり撮っていたくせに、そんなことは見ている。


 私は席を移った。


 隣に座ると、今度は航も逃げなかった。


     ◆


 修平には、別の手を使った。


 彼は自分で焼いた菓子を、ときどき店へ持ってくる。人に食べてもらうのは好きだが、自分がどう見られるかを妙に気にする。


「こんな顔で、お菓子って変ですよね」


 マドレーヌの包みを配りながら言うので、私は彼の顔と菓子を交互に見た。


「なんで? でっかい人が小さいお菓子焼くの、かわいくない?」


 修平が包みを二つ落とした。


 私はひとつ拾って、食べた。


 表面は香ばしく、内側はしっとりしていた。後からレモンの香りが来る。


 思わずもう一口食べた。


「……これ、好き」


 仕掛ける前に、本音が出た。


「バターが強すぎないの、いいね」

「あ、それ、皮を少し多めに入れてて」

「うん。それが好き。来週も食べたい」

「来週?」

「うちのために焼いてよ」


 修平は頷いた。


 あまりに力強く頷くので、私は来週、倉庫いっぱいのマドレーヌが届く可能性を考えた。


「四個くらいでいいからね」


 案の定、翌週は十二個だった。


 彼の休日に合わせて、二人で製菓用品の店へ行った。私は白い短丈のニットにデニム、修平は襟つきのシャツ。襟に、アイロンの折り目がくっきりついていた。


「そのシャツ、似合う」

「昨日、買いました」


 素直か。


 売り場で型を選んでいると、店員が私たちに声をかけた。


「彼女さんのお好みはこちらですか?」


 修平の肩が跳ねた。


「いや、彼女じゃ――」

「まだね」


 私は彼を見上げた。


 店員はすべてを察した顔で去っていった。


 修平はシリコンの型を握りしめていた。


「潰れるよ、それ」

「柔らかくて助かりました」


 帰りに寄ったカフェで、彼はミルクをこぼした。


 私は紙ナプキンを渡しながら、笑った。


「そんな緊張する?」

「しますよ。こんな、綺麗な人と二人なんで」

「褒めるの、ちゃんと言えるじゃん」


 彼は首まで赤くなった。


 ああ、楽しい。


 反応を取り繕わない男というのは、こんなにも見飽きないものだったか。


 私は頬杖をついた。


「修平くん、もっと口説いて」


 彼は紙ナプキンを、きれいな四角に折り始めた。


 どうやら処理が追いつくまで、手を動かす必要があるらしい。


     ◆


 篤には、こちらから本を頼んだ。


『昔の都が出てくるやつ、読みたい。難しすぎないの選んで』


 返ってきたのは、六冊の候補と、それぞれの紹介だった。


 最後に、


『すみません。長くなりました』


 とあった。


 宮中には、何も言っていないのに長い者がいた。


 彼は、言いたいことが多くて長い。


 まったく別の長さである。


 私は一冊を選び、買って、読んだ。


 面白かった。途中、昔の道の描写でしばらくページがめくれなくなったが、それも含めて、いい読書だった。


 日曜、篤と博物館へ出かけた。


 館内で彼は、展示の説明をしては「喋りすぎました」と口を閉じる。


 そのたびに私は、


「そこからじゃん。続きは?」


 と促した。


 篤は、好きな話をするときだけ少し早口になる。


 その顔を見るのが好きになった。


 都の復元模型の前で、彼が言った。


「ここに立ってた人たちも、仕事に行きたくない日とかあったんでしょうね」

「あったと思うよ。めちゃくちゃ」


 私など、とくにそうだった。


 昔の門の位置を指し示そうとすると、篤の指も同じところへ伸びた。


 指先が触れた。


 彼が引っ込めかけた手の、小指だけをつかむ。


「迷子になったら困るし」

「館内、広くないですけど」

「そこは迷ってよ」


 篤は黙った。


 耳が赤い。


 夕方、駅まで歩きながら、私は読んだ本の話をした。


「あの、最後に手紙を燃やすところ。うちは燃やさないと思った」

「どうしてですか」

「好きな人の字って、とっておきたくない?」


 篤の歩幅が乱れた。


「……字、練習します」

「いまの、そういうお願いじゃないけど」


 私は笑って、彼の袖を少し引いた。


「書いてくれたら、うれしいよ」


 その夜、莉子に三人とのことを話すと、彼女はカウンターに肘をついた。


「真夏さ。わりとちゃんとデートしてるね」

「そりゃ、好きにさせたいんだし」

「自分も楽しそうだけど」

「……楽しいよ?」

「じゃあ、ちゃんと考えなよ。付き合うつもりあるのか」


 私は少し考えた。


 三人には、自分に彼氏はいないと伝えているし、誰とも付き合う約束はしていない。


 それでも、そろそろ何かが変わる気はしていた。


「前世は、そのへんどうしてたの」

「家同士の話が大きかったし。今とは、だいぶ違う」

「今回は、自分で選ぶしかないよ」


 そう言われると、私は急に、ストローの先が気になった。


 軽く噛んで、やめた。


「……わかってる」


     ◆


 わかっていなかった。


 少なくとも、彼らがすでに水面下で会議を開いていることは。


 後から聞いた話では、発端は航だったという。


「女性と出かけたあとって、また誘ってもいいんですか」


 いつもの卓で、彼が二人に聞いた。


「俺もそれ聞きたかった」


 修平が言った。


「実は俺も」


 篤が言った。


 三人は互いを見た。


「……真夏さん?」


 三人とも頷いた。


 そこから恋愛相談会は、外交交渉になった。


 誰がどこへ行った。


 何と言われた。


 返信にハートはついていたか。


「白いハートなんですけど」

「俺、赤いです」

「俺は、手で作ってるやつです」


「それに上下はないから」


 通りかかった莉子が言ったそうだ。


「叙位じゃないから」


 私は聞いていて、腹を抱えて笑った。


 だが、その交渉の結果が、今、目の前に並んでいる。


 閉店後の『双六』。


 修平の前には、白い菓子箱。


 篤の前には、封筒。


 航の前には、何もない。


 カウンターには、帰る気のない莉子。


「……何これ」


 私が尋ねると、篤が眼鏡を直した。


「三人とも、真夏さんに好きだと伝えたい、という話になりました」

「うん」

「先に言った人が、ほかの二人を出し抜いたことになるのも嫌で」

「うん?」

「同じ日に、ちゃんと言おうと」


 私は三人を見た。


 たいへん仲がよい。


 この団結力を、もう少し違うところに使えなかったのか。


「順番は、くじで決めました」


 篤が紙切れを出した。


 徹底している。


 前世、宮廷が二つに分かれたとき、私はひどい目に遭った。


 今度は三つある。


 なぜ増やした。


 しかも、増やしたのは私である。


 逃げられない。


「……わかった。聞く」


 私は椅子に座った。


 莉子が小声で、


「即位式みたい」


 と言った。


 黙っていてほしい。


 最初は修平だった。


 彼は箱を開けた。小さなレモンケーキが、四つ並んでいる。


「今日は、四個にしました」


 私は笑った。


「うん」

「真夏さんにおいしいって言われたの、ずっと覚えてます。でも、そのときだけじゃなくて」


 彼は一度、膝の上で手を握った。


「店で型を選んでたとき、これなら俺も洗いやすそうって、真夏さんが言ってくれたでしょう」


 言った。


 複雑な形のものは、彼の大きな手では洗いにくそうだった。


「食べるだけのことじゃなくて、俺が家で焼いてるところも想像してくれたんだなって。それが、すごくうれしくて」


 私は返事を忘れた。


 あのとき仕掛けた「まだね」より、そんなことを覚えていたのか。


「好きです。付き合ってください」


 大きな声だった。


 最初の挨拶とは、まるで違った。


 次に、篤が封筒を差し出した。


「好きな人の字をとっておきたいって言ってたので、書きました」


 表に、私の名前があった。


 一画ずつ、迷いながら書いた字だった。


「中身、今読みますか?」

「帰ってからでもいい?」

「はい。ただ、結論は言います」


 篤は、私を見た。


「真夏さんが好きです。次に面白い本を読んだら、いちばんに話したい。その次も、その次も、真夏さんがいいです」


 うまいではないか。


 誰だ、この者に言葉を与えたのは。


 私だった。


 最後に航が、背筋を伸ばした。


「俺も、真夏さんが好きです」


 声は小さいままだった。


 私は少しだけ身を乗り出した。


「うん」

「騎士の塗装を褒めてもらったのもうれしかったし、一緒にいるのも楽しいです。でも」


 航が口を閉じた。


 私は待った。


「何かうまいことを言わないと、選んでもらえない気がして。ずっと考えてきたんですけど、全部、俺の言いそうにないことになって」


 そこで彼は、少し笑った。


 あの、写真を撮るときよりも、小さな笑いだった。


「だから、これだけです。二人で、もっと会いたいです」


 卓の下で、私の指がスカートをつかんだ。


 この男は、困る。


 私が褒めたところとは別の場所から、返してくる。


 私は喉を整えた。


 こういうときの言葉なら、いくらでもある。


 三人の心を傷つけすぎず、希望を持たせ、結論を先へ延ばす。前世の私が何度も扱った、柔らかな言い回し。


 いったん預かる。


 よく考える。


 時節を待つ。


 私は唇を開きかけた。


 だが、その口から「みんな大切」と言ったら、三人とも信じてしまうだろう。


 それも、もうわかっていた。


「……ごめん」


 声が、思ったより細くなった。


「好きにさせる自信は、あったんだけど」


 莉子が目を閉じた。正直すぎる、と顔に書いてあった。


 しかし、言い直すほうが、もっと嫌だった。


「誰と付き合いたいか、うち、ちゃんと決めてから来てない。明日の夜まで、待ってもらっていい?」


 篤が頷いた。


 修平も頷いた。


 航は私の顔を見て、それから言った。


「そのケーキ、先に食べませんか」


 三人が彼を見た。


「……夕方から、何も食べてないって言ってたので」


 私は笑った。


 笑ったつもりだった。


 どういうわけか、少し、泣きそうになった。


     ◆


 家へ帰って、篤の手紙を読んだ。


 修平のケーキを、もうひとつ食べた。


 航と撮った写真を見た。


 三人とも好きだった。


 修平といれば、次は何を食べようかと思う。


 篤といれば、次は何を話そうかと思う。


 航といると。


 私はスマホを伏せた。


 あのとき、写真を撮ったあと、日陰の席へ移った。


 隣に座って、しばらく騎士を眺めた。


 会話は途切れていた。


 私は何も言わなかった。


 あの沈黙を、気まずいと思わなかった。


 むしろ、もう少しそこにいたかった。


 ――あ。


 私は枕に顔を埋めた。


 それは、だいぶ駄目だった。


 人を喜ばせることなら、私は得意だ。


 喜んだ顔を見れば、次に何を言えばいいかもわかる。


 しかし、あの静かな隣の席では、自分が何をすればよいか考えてすらいなかった。


 翌日、私は修平と篤に、それぞれ会って返事をした。


 修平は唇をきゅっと結び、それから、


「……了解です。ちょっと、今日は帰ってから落ち込みます」


 と言った。


 私は頷いた。


「うん。ごめん」

「でも、一緒に出かけたの、楽しかったです」

「うちも」


 そのあとで、彼は困ったように笑った。


「来週、店に行くかは、ちょっとわかんないです」

「わかった」


 篤は私の返事を聞き、眼鏡を外して、しばらく手の中で回した。


「手紙は、捨ててください」


 私は一瞬、息を止めた。


 だが彼は、すぐに首を振った。


「いや。……やっぱり、持っててください。せっかく頑張って書いたので」

「持ってる」

「はい」


 そこでようやく、彼は私を見た。


「航さん、いい人ですよね」

「うん」

「でも、今日、俺に同意しなくてよくないですか」


 私は頭を下げた。


「それは、ほんとにそう」


 篤が小さく吹き出した。


 少ししてから、私も笑った。


     ◆


 さて。


 問題は、最後の一人である。


 私は航との待ち合わせに、二十分早く着いた。


 駅前のガラスで、髪を確認した。


 リップを塗り直した。


 塗りすぎた気がして少し落とした。


 この顔の仕上げ方は、毎朝、完璧に知っていたはずなのに。


 航が来たとき、私はスマホの画面を見つめていた。


 昨夜から考えた言葉が、メモに並んでいる。


『うちと付き合えたら、毎日楽しいよ?』


 違う。


『航くんを特別にしてあげる』


 何様だ。


 公卿様だが、それは今、邪魔なのだ。


「真夏さん」


 声をかけられ、私はスマホを裏返した。


「お、おつ」


 前世と今世を通じて、最も雑な挨拶だった。


 航は私を見た。


 それから、手元を見た。


「ネイル、変えたんですね」


 白と金だった爪を、青と銀に変えていた。


 彼が最初に見せてくれた、あの騎士の色だ。


「……わかるんだ」

「はい」


 私は手を下ろそうとして、やめた。


 ここで隠すほうが、よほど恥ずかしい。


「航くんのに、合わせた」


 彼の頬が赤くなった。


 いつもなら、それを見て、もうひと言足す。


 追い込む。


 笑わせる。


 相手の言葉を奪って、自分の言葉でいっぱいにする。


 今は、そのひと言が、喉につかえて出てこない。


「昨日の返事、なんだけど」

「はい」

「うちも、航くんに会いたい」


 彼が息を吸った。


「ゲームとか、写真とか、なくても」


 私の指が、肩にかけたバッグの紐をつかんだ。


「何も用がなくても会いたい。だから、付き合って」


 航は、しばらく何も言わなかった。


 私は耐えた。


 宮廷の返答待ちも、これほど長くは感じなかった。


「……はい」


 ようやく返ってきた声は、少し震えていた。


 私は息を吐いた。


「よかった」


 それ以外、何も出てこなかった。


 千年以上前に覚えた、あれほど豊かな言い回しが、ひとつも。


 航が、そっと手を差し出した。


「手、つないでもいいですか」

「うん」


 触れた手は、思っていたより大きかった。


 掌が温かい。


 私は前を向いた。


 航も前を向いた。


 二人とも、しばらく歩き出せなかった。


     ◆


 三週間後。


 私は『双六』のいつもの卓で、航の隣に座っていた。


 修平と篤も来ていた。二人とも一度ずつ休み、別々の日にまた顔を出し、そのうち、以前の卓に戻った。


「先に言っときますけど」


 修平がカードを配りながら言った。


「俺、まだ真夏さんの顔、かなり好きなんで」

「顔だけみたいに言うじゃん」

「中身も好きだから、困ってるんです」


 私はカードで口元を隠した。


「……口説くの、うまくなったね」

「先生がよかったので」


 隣で航が咳き込んだ。


 篤は平然と、自分の駒を進めている。


「航さん、そこ、嫉妬してていいんですか。負けますよ」

「してません」

「じゃあ、なんで真夏さんの椅子を寄せたんですか」


 航が黙った。


 私は自分の椅子を見た。


 少しだけ、彼の椅子に近づいていた。


 やめてほしい。


 こういう、黙ってされるやつには対処ができない。


「真夏さん、顔赤いですよ」


 篤が言った。


「暖房」

「冷房です」


 修平が声を上げて笑った。


 航まで笑った。


 私は、この卓をまとめて左遷する権限が今世にはないことを、少しだけ惜しんだ。


 その夜。


 ベッドの上で、航からのメッセージを見ていた。


『次の休みも、会いたいです』


 返信なら得意だ。


 相手の望む言葉を、望む長さに整えて渡す。それだけである。


 私は三十分かけて、何度も書き直した。


 甘すぎる。


 素っ気ない。


 これは明らかに、気合が入りすぎている。


 いったん画面を消そうとして、指が滑った。


 通話が始まった。


「あ」


 止めるより早く、つながった。


『もしもし。どうしました?』


 航の声が、耳元でした。


 私は息を止めた。


 間違えた、と言えばいい。


 そうすれば、何事もなかったことにできる。


 得意なはずだ。


 言葉を選んで、自分の立場を守るのは。


「……声、聞きたくなった」


 向こうで、何かが落ちた。


『すみません。ちょっと。今、座ります』


 私は、枕を抱えて笑った。


 やはり勝てる。


 勝てるのに、私の心臓まで、こんなにうるさい。


『俺もです』


 航が言った。


 私は枕に顔を押しつけた。


 さっきから、勝敗がまったく定まらない。


 まったく。


 冬嗣も、こんな難しい政は知らなかっただろう。


(了)

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