超美人ギャルに転生した藤原真夏、弱者男性を口説いたら朝廷ができた
男を口説くとき、同じ文面の恋文を使い回してはいけない。
私はそこを心得ていた。
文面はすべて変えた。褒めるところも変えた。送る時刻まで、相手の生活に合わせた。
結果、三人が本気になった。
手を抜くべきだった。
◆
私の名は藤原真夏。
二十三歳。アパレル勤務。髪はミルクティーベージュ。爪は長め。顔は、自分で言うのもなんだが、かなりよい。
道を歩けばスカウトに声をかけられ、写真を上げれば加工を疑われる。ところが動画を上げると「動いてるほうがやばい」と言われるので、どうやら静止画が私に追いついていない。
そして、前世は男の公卿だった。
情報の出し方としては失敗したと思う。
同じことを親友の莉子に説明したときも、彼女は五秒ほど黙ったあと、
「ああ、だから字が異様にうまいの?」
と言った。
そこから納得する者があるか。
思い出したのは先月だった。
何気なく自分の名前を検索したら、見知らぬ古代の男が出てきた。
いや、知っていた。
私だった。
父の顔。宮中の廊下の冷たさ。宴の音。自分を呼ぶ声が、出世の前後で微妙に変わる、あの感じ。
二十三年分の私の中へ、昔の一生がどっと流れ込んできた。
家に帰っても、母はいつもの母だった。クローゼットには自分で買った服があり、スマホの中には高校の修学旅行で変顔をする私がいた。
誰かと入れ替わったわけではない。
今の私に、やたら古い実家が増えたのである。
ちなみに、現代の母に名付けの理由を聞くと、
「八月に生まれたから」
だった。
偶然の仕事が雑すぎる。
私、藤原真夏は、奈良の時代に生まれ、平安の世で宮廷に仕えた。平城の上皇に近く、政争に巻き込まれ、備中へ左遷もされた。
弟は冬嗣。
そう。歴史の教科書に出てくるほうである。
昔から、あいつは要領がよかった。
千年以上たって検索しても、まだ私より目立っている。執念深い弟だ。本人の意思ではないのが、なお腹立たしい。
「で、その前世の記憶、何か役に立つの?」
莉子が言った。
彼女は二十五歳で、叔母から継いだ小さなボードゲームカフェ『双六』を切り盛りしている。私は休日、ここでよく遊ぶ。
「立つよ。誰が話したがってるか、誰がへそ曲げてるか、だいたいわかる」
「接客に便利」
「あと、褒めてほしいところを外さない」
「恋愛にも便利じゃん」
私はストローをくわえたまま、止まった。
恋愛。
今世でも言い寄られることは多かった。しかし会話の半分が私の顔の話で、残りの半分が相手の自慢、ということも多かった。
前世で、出世した者の自慢は一生分聞いている。
今世までおかわりしたくない。
「莉子。かわいい男の子、知ってる?」
「顔?」
「いや。褒めたら、ちゃんと喜ぶやつ」
莉子は奥の卓を見た。
男が三人、世界を救うボードゲームをしていた。
いま世界は、かなり滅びかけていた。
◆
「うちらも入れて」
私が声をかけると、三人とも顔を上げた。
一人はカードを落とした。
一人は椅子を引こうとして自分が立った。
最後の一人は私と目が合い、なぜか壁の時計を確認した。
よい。
大変、よい反応である。
佐伯航、二十八歳。システムの保守をしている。細身で、声が小さい。ゲームの駒に自分で色を塗るのが趣味。
宮田修平、三十一歳。物流倉庫勤務。体が大きく、声も大きいが、私への挨拶だけ蚊ほどになった。菓子作りが得意らしい。
長谷川篤、二十六歳。書店員。眼鏡。古代史が好きで、私の名前を聞いた途端、
「冬嗣のお兄さんと同じですね」
と言った。
初対面でそこを突くか。
「その人も、わりと頑張ったんだけどね」
「あ、はい。真夏流も、後世に続きますし」
よし。許す。
三人はこの店で知り合った友人で、恋愛経験はそろってゼロだった。
篤が冗談めかして言う。
「俺たち、弱者男性の定例会みたいなものなんで」
私は盤面に目を落とした。
「弱者男性、ドラゴン倒せそう?」
「あと二ターンで、全員死にます」
「じゃ、先にそっちどうにかしよ」
私は航の隣に座った。
彼は私から少し離れようとして、壁にぶつかった。
「退路、ないね」
「すみません」
「謝らなくていいのに。教えて、このゲーム」
航はうつむいたまま説明を始めた。
慣れない者が何かを説明するとき、最初の一言を取り上げてはいけない。
私は相槌だけ打ち、彼が少し滑らかに話せるようになるまで待った。
「つまり、この人が囮になるんだ?」
「そうです。でも、ここで回復を使うと、次の攻撃で――」
「待って。それ、航くんだけ損してない?」
彼の指が止まった。
「……俺が死んでも、全員で勝てればいいので」
私は自分の駒を、彼の駒の隣に置いた。
「やだ。初デートで未亡人になりたくない」
航が説明書を閉じた。
「……ちょっと、ルールを確認します」
「今、閉じたけど」
その晩、我々は世界を救った。
航だけは、救われたような顔をしていなかった。
◆
昔、宴の席で学んだことがある。
人は、皆の前で褒められると喜ぶ。
だが、皆が見過ごしたところを自分だけに褒められると、その声を長く覚えている。
翌日、私は航にメッセージを送った。
『昨日の青い騎士、自分で塗ったって言ってたじゃん。マントの裾だけ泥の色なの、旅してきた感じで好き』
すぐ既読がついた。
返信は七分後だった。
『ありがとうございます』
その十文字を整えるために七分。
なんとかわいい。
続いて、写真が来た。
机に並ぶ騎士たち。小さな筆。塗料の瓶。写真の端には、慌てて片づけたらしい紙くずが少し写っている。
『まだ途中なんですが』
私は画面を拡大した。
『白い騎士、うちの爪と色おそろだ』
自分の指先を撮って送る。
『今度、実物並べて写真撮ろ』
次の休日、カフェの窓際で、航は本当に白い騎士を出した。
私はその横に手を置く。白いネイルには金の小さな星がついている。
「あ。盾にも星ついてる」
「……追加しました」
その返事で、少しだけ胸がくすぐったくなった。
だが、こちらは公卿である。
顔には出さない。
「うちに合わせて?」
航は筆箱を開けたり閉めたりした。
「そうです」
「やば。うれし」
私は騎士に顔を近づけた。
「ね。写真撮って。うちも一緒に」
航の構えるスマホが、わずかに震えた。
彼の世界に、私が一人、増える。
昔の私は、自分の席を宴の上座に増やしたかった。
これは、それよりずっと簡単で、ずっと楽しかった。
撮り終えたあと、航がぽつりと言った。
「まぶしくないですか」
「ん?」
「そこ、さっきから日が当たってるので」
私の写真ばかり撮っていたくせに、そんなことは見ている。
私は席を移った。
隣に座ると、今度は航も逃げなかった。
◆
修平には、別の手を使った。
彼は自分で焼いた菓子を、ときどき店へ持ってくる。人に食べてもらうのは好きだが、自分がどう見られるかを妙に気にする。
「こんな顔で、お菓子って変ですよね」
マドレーヌの包みを配りながら言うので、私は彼の顔と菓子を交互に見た。
「なんで? でっかい人が小さいお菓子焼くの、かわいくない?」
修平が包みを二つ落とした。
私はひとつ拾って、食べた。
表面は香ばしく、内側はしっとりしていた。後からレモンの香りが来る。
思わずもう一口食べた。
「……これ、好き」
仕掛ける前に、本音が出た。
「バターが強すぎないの、いいね」
「あ、それ、皮を少し多めに入れてて」
「うん。それが好き。来週も食べたい」
「来週?」
「うちのために焼いてよ」
修平は頷いた。
あまりに力強く頷くので、私は来週、倉庫いっぱいのマドレーヌが届く可能性を考えた。
「四個くらいでいいからね」
案の定、翌週は十二個だった。
彼の休日に合わせて、二人で製菓用品の店へ行った。私は白い短丈のニットにデニム、修平は襟つきのシャツ。襟に、アイロンの折り目がくっきりついていた。
「そのシャツ、似合う」
「昨日、買いました」
素直か。
売り場で型を選んでいると、店員が私たちに声をかけた。
「彼女さんのお好みはこちらですか?」
修平の肩が跳ねた。
「いや、彼女じゃ――」
「まだね」
私は彼を見上げた。
店員はすべてを察した顔で去っていった。
修平はシリコンの型を握りしめていた。
「潰れるよ、それ」
「柔らかくて助かりました」
帰りに寄ったカフェで、彼はミルクをこぼした。
私は紙ナプキンを渡しながら、笑った。
「そんな緊張する?」
「しますよ。こんな、綺麗な人と二人なんで」
「褒めるの、ちゃんと言えるじゃん」
彼は首まで赤くなった。
ああ、楽しい。
反応を取り繕わない男というのは、こんなにも見飽きないものだったか。
私は頬杖をついた。
「修平くん、もっと口説いて」
彼は紙ナプキンを、きれいな四角に折り始めた。
どうやら処理が追いつくまで、手を動かす必要があるらしい。
◆
篤には、こちらから本を頼んだ。
『昔の都が出てくるやつ、読みたい。難しすぎないの選んで』
返ってきたのは、六冊の候補と、それぞれの紹介だった。
最後に、
『すみません。長くなりました』
とあった。
宮中には、何も言っていないのに長い者がいた。
彼は、言いたいことが多くて長い。
まったく別の長さである。
私は一冊を選び、買って、読んだ。
面白かった。途中、昔の道の描写でしばらくページがめくれなくなったが、それも含めて、いい読書だった。
日曜、篤と博物館へ出かけた。
館内で彼は、展示の説明をしては「喋りすぎました」と口を閉じる。
そのたびに私は、
「そこからじゃん。続きは?」
と促した。
篤は、好きな話をするときだけ少し早口になる。
その顔を見るのが好きになった。
都の復元模型の前で、彼が言った。
「ここに立ってた人たちも、仕事に行きたくない日とかあったんでしょうね」
「あったと思うよ。めちゃくちゃ」
私など、とくにそうだった。
昔の門の位置を指し示そうとすると、篤の指も同じところへ伸びた。
指先が触れた。
彼が引っ込めかけた手の、小指だけをつかむ。
「迷子になったら困るし」
「館内、広くないですけど」
「そこは迷ってよ」
篤は黙った。
耳が赤い。
夕方、駅まで歩きながら、私は読んだ本の話をした。
「あの、最後に手紙を燃やすところ。うちは燃やさないと思った」
「どうしてですか」
「好きな人の字って、とっておきたくない?」
篤の歩幅が乱れた。
「……字、練習します」
「いまの、そういうお願いじゃないけど」
私は笑って、彼の袖を少し引いた。
「書いてくれたら、うれしいよ」
その夜、莉子に三人とのことを話すと、彼女はカウンターに肘をついた。
「真夏さ。わりとちゃんとデートしてるね」
「そりゃ、好きにさせたいんだし」
「自分も楽しそうだけど」
「……楽しいよ?」
「じゃあ、ちゃんと考えなよ。付き合うつもりあるのか」
私は少し考えた。
三人には、自分に彼氏はいないと伝えているし、誰とも付き合う約束はしていない。
それでも、そろそろ何かが変わる気はしていた。
「前世は、そのへんどうしてたの」
「家同士の話が大きかったし。今とは、だいぶ違う」
「今回は、自分で選ぶしかないよ」
そう言われると、私は急に、ストローの先が気になった。
軽く噛んで、やめた。
「……わかってる」
◆
わかっていなかった。
少なくとも、彼らがすでに水面下で会議を開いていることは。
後から聞いた話では、発端は航だったという。
「女性と出かけたあとって、また誘ってもいいんですか」
いつもの卓で、彼が二人に聞いた。
「俺もそれ聞きたかった」
修平が言った。
「実は俺も」
篤が言った。
三人は互いを見た。
「……真夏さん?」
三人とも頷いた。
そこから恋愛相談会は、外交交渉になった。
誰がどこへ行った。
何と言われた。
返信にハートはついていたか。
「白いハートなんですけど」
「俺、赤いです」
「俺は、手で作ってるやつです」
「それに上下はないから」
通りかかった莉子が言ったそうだ。
「叙位じゃないから」
私は聞いていて、腹を抱えて笑った。
だが、その交渉の結果が、今、目の前に並んでいる。
閉店後の『双六』。
修平の前には、白い菓子箱。
篤の前には、封筒。
航の前には、何もない。
カウンターには、帰る気のない莉子。
「……何これ」
私が尋ねると、篤が眼鏡を直した。
「三人とも、真夏さんに好きだと伝えたい、という話になりました」
「うん」
「先に言った人が、ほかの二人を出し抜いたことになるのも嫌で」
「うん?」
「同じ日に、ちゃんと言おうと」
私は三人を見た。
たいへん仲がよい。
この団結力を、もう少し違うところに使えなかったのか。
「順番は、くじで決めました」
篤が紙切れを出した。
徹底している。
前世、宮廷が二つに分かれたとき、私はひどい目に遭った。
今度は三つある。
なぜ増やした。
しかも、増やしたのは私である。
逃げられない。
「……わかった。聞く」
私は椅子に座った。
莉子が小声で、
「即位式みたい」
と言った。
黙っていてほしい。
最初は修平だった。
彼は箱を開けた。小さなレモンケーキが、四つ並んでいる。
「今日は、四個にしました」
私は笑った。
「うん」
「真夏さんにおいしいって言われたの、ずっと覚えてます。でも、そのときだけじゃなくて」
彼は一度、膝の上で手を握った。
「店で型を選んでたとき、これなら俺も洗いやすそうって、真夏さんが言ってくれたでしょう」
言った。
複雑な形のものは、彼の大きな手では洗いにくそうだった。
「食べるだけのことじゃなくて、俺が家で焼いてるところも想像してくれたんだなって。それが、すごくうれしくて」
私は返事を忘れた。
あのとき仕掛けた「まだね」より、そんなことを覚えていたのか。
「好きです。付き合ってください」
大きな声だった。
最初の挨拶とは、まるで違った。
次に、篤が封筒を差し出した。
「好きな人の字をとっておきたいって言ってたので、書きました」
表に、私の名前があった。
一画ずつ、迷いながら書いた字だった。
「中身、今読みますか?」
「帰ってからでもいい?」
「はい。ただ、結論は言います」
篤は、私を見た。
「真夏さんが好きです。次に面白い本を読んだら、いちばんに話したい。その次も、その次も、真夏さんがいいです」
うまいではないか。
誰だ、この者に言葉を与えたのは。
私だった。
最後に航が、背筋を伸ばした。
「俺も、真夏さんが好きです」
声は小さいままだった。
私は少しだけ身を乗り出した。
「うん」
「騎士の塗装を褒めてもらったのもうれしかったし、一緒にいるのも楽しいです。でも」
航が口を閉じた。
私は待った。
「何かうまいことを言わないと、選んでもらえない気がして。ずっと考えてきたんですけど、全部、俺の言いそうにないことになって」
そこで彼は、少し笑った。
あの、写真を撮るときよりも、小さな笑いだった。
「だから、これだけです。二人で、もっと会いたいです」
卓の下で、私の指がスカートをつかんだ。
この男は、困る。
私が褒めたところとは別の場所から、返してくる。
私は喉を整えた。
こういうときの言葉なら、いくらでもある。
三人の心を傷つけすぎず、希望を持たせ、結論を先へ延ばす。前世の私が何度も扱った、柔らかな言い回し。
いったん預かる。
よく考える。
時節を待つ。
私は唇を開きかけた。
だが、その口から「みんな大切」と言ったら、三人とも信じてしまうだろう。
それも、もうわかっていた。
「……ごめん」
声が、思ったより細くなった。
「好きにさせる自信は、あったんだけど」
莉子が目を閉じた。正直すぎる、と顔に書いてあった。
しかし、言い直すほうが、もっと嫌だった。
「誰と付き合いたいか、うち、ちゃんと決めてから来てない。明日の夜まで、待ってもらっていい?」
篤が頷いた。
修平も頷いた。
航は私の顔を見て、それから言った。
「そのケーキ、先に食べませんか」
三人が彼を見た。
「……夕方から、何も食べてないって言ってたので」
私は笑った。
笑ったつもりだった。
どういうわけか、少し、泣きそうになった。
◆
家へ帰って、篤の手紙を読んだ。
修平のケーキを、もうひとつ食べた。
航と撮った写真を見た。
三人とも好きだった。
修平といれば、次は何を食べようかと思う。
篤といれば、次は何を話そうかと思う。
航といると。
私はスマホを伏せた。
あのとき、写真を撮ったあと、日陰の席へ移った。
隣に座って、しばらく騎士を眺めた。
会話は途切れていた。
私は何も言わなかった。
あの沈黙を、気まずいと思わなかった。
むしろ、もう少しそこにいたかった。
――あ。
私は枕に顔を埋めた。
それは、だいぶ駄目だった。
人を喜ばせることなら、私は得意だ。
喜んだ顔を見れば、次に何を言えばいいかもわかる。
しかし、あの静かな隣の席では、自分が何をすればよいか考えてすらいなかった。
翌日、私は修平と篤に、それぞれ会って返事をした。
修平は唇をきゅっと結び、それから、
「……了解です。ちょっと、今日は帰ってから落ち込みます」
と言った。
私は頷いた。
「うん。ごめん」
「でも、一緒に出かけたの、楽しかったです」
「うちも」
そのあとで、彼は困ったように笑った。
「来週、店に行くかは、ちょっとわかんないです」
「わかった」
篤は私の返事を聞き、眼鏡を外して、しばらく手の中で回した。
「手紙は、捨ててください」
私は一瞬、息を止めた。
だが彼は、すぐに首を振った。
「いや。……やっぱり、持っててください。せっかく頑張って書いたので」
「持ってる」
「はい」
そこでようやく、彼は私を見た。
「航さん、いい人ですよね」
「うん」
「でも、今日、俺に同意しなくてよくないですか」
私は頭を下げた。
「それは、ほんとにそう」
篤が小さく吹き出した。
少ししてから、私も笑った。
◆
さて。
問題は、最後の一人である。
私は航との待ち合わせに、二十分早く着いた。
駅前のガラスで、髪を確認した。
リップを塗り直した。
塗りすぎた気がして少し落とした。
この顔の仕上げ方は、毎朝、完璧に知っていたはずなのに。
航が来たとき、私はスマホの画面を見つめていた。
昨夜から考えた言葉が、メモに並んでいる。
『うちと付き合えたら、毎日楽しいよ?』
違う。
『航くんを特別にしてあげる』
何様だ。
公卿様だが、それは今、邪魔なのだ。
「真夏さん」
声をかけられ、私はスマホを裏返した。
「お、おつ」
前世と今世を通じて、最も雑な挨拶だった。
航は私を見た。
それから、手元を見た。
「ネイル、変えたんですね」
白と金だった爪を、青と銀に変えていた。
彼が最初に見せてくれた、あの騎士の色だ。
「……わかるんだ」
「はい」
私は手を下ろそうとして、やめた。
ここで隠すほうが、よほど恥ずかしい。
「航くんのに、合わせた」
彼の頬が赤くなった。
いつもなら、それを見て、もうひと言足す。
追い込む。
笑わせる。
相手の言葉を奪って、自分の言葉でいっぱいにする。
今は、そのひと言が、喉につかえて出てこない。
「昨日の返事、なんだけど」
「はい」
「うちも、航くんに会いたい」
彼が息を吸った。
「ゲームとか、写真とか、なくても」
私の指が、肩にかけたバッグの紐をつかんだ。
「何も用がなくても会いたい。だから、付き合って」
航は、しばらく何も言わなかった。
私は耐えた。
宮廷の返答待ちも、これほど長くは感じなかった。
「……はい」
ようやく返ってきた声は、少し震えていた。
私は息を吐いた。
「よかった」
それ以外、何も出てこなかった。
千年以上前に覚えた、あれほど豊かな言い回しが、ひとつも。
航が、そっと手を差し出した。
「手、つないでもいいですか」
「うん」
触れた手は、思っていたより大きかった。
掌が温かい。
私は前を向いた。
航も前を向いた。
二人とも、しばらく歩き出せなかった。
◆
三週間後。
私は『双六』のいつもの卓で、航の隣に座っていた。
修平と篤も来ていた。二人とも一度ずつ休み、別々の日にまた顔を出し、そのうち、以前の卓に戻った。
「先に言っときますけど」
修平がカードを配りながら言った。
「俺、まだ真夏さんの顔、かなり好きなんで」
「顔だけみたいに言うじゃん」
「中身も好きだから、困ってるんです」
私はカードで口元を隠した。
「……口説くの、うまくなったね」
「先生がよかったので」
隣で航が咳き込んだ。
篤は平然と、自分の駒を進めている。
「航さん、そこ、嫉妬してていいんですか。負けますよ」
「してません」
「じゃあ、なんで真夏さんの椅子を寄せたんですか」
航が黙った。
私は自分の椅子を見た。
少しだけ、彼の椅子に近づいていた。
やめてほしい。
こういう、黙ってされるやつには対処ができない。
「真夏さん、顔赤いですよ」
篤が言った。
「暖房」
「冷房です」
修平が声を上げて笑った。
航まで笑った。
私は、この卓をまとめて左遷する権限が今世にはないことを、少しだけ惜しんだ。
その夜。
ベッドの上で、航からのメッセージを見ていた。
『次の休みも、会いたいです』
返信なら得意だ。
相手の望む言葉を、望む長さに整えて渡す。それだけである。
私は三十分かけて、何度も書き直した。
甘すぎる。
素っ気ない。
これは明らかに、気合が入りすぎている。
いったん画面を消そうとして、指が滑った。
通話が始まった。
「あ」
止めるより早く、つながった。
『もしもし。どうしました?』
航の声が、耳元でした。
私は息を止めた。
間違えた、と言えばいい。
そうすれば、何事もなかったことにできる。
得意なはずだ。
言葉を選んで、自分の立場を守るのは。
「……声、聞きたくなった」
向こうで、何かが落ちた。
『すみません。ちょっと。今、座ります』
私は、枕を抱えて笑った。
やはり勝てる。
勝てるのに、私の心臓まで、こんなにうるさい。
『俺もです』
航が言った。
私は枕に顔を押しつけた。
さっきから、勝敗がまったく定まらない。
まったく。
冬嗣も、こんな難しい政は知らなかっただろう。
(了)




