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T-DAY:台湾戦争  作者: 中央国家安全委員会主席


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9/11

203Y年1月 台北



台北市大安区

地下街のコンクリート壁に反響していた、あの心臓を直接掴まれるような波状音が止んだ。 代わりに、長く引き伸ばされた単音の解除信号が台北の街に流れる。それは安堵というよりも、張り詰めた糸が辛うじて切れずに済んだという、ひどく心許ない静寂を伴っていた。

地上へ通じる階段には、避難していた人々がまるで深海から浮上する潜水員のように、慎重な、それでいてどこか虚脱した足取りで溢れ出していた。 桜木祐希は、湿り気を帯びたコートの襟を立て、冬の台北特有の、骨まで染み通るような冷気に身を震わせた。 熱帯の面影を失ったグレーの空からは、雨とも霧ともつかない微細な水滴が降り注ぎ、街全体をどんよりとした薄幕で包み込んでいる。


「……祐希! こっちよ!」


椰子並木道の入り口、国立台湾大学の赤レンガの正門脇で、激しい人波に抗うように立っている雨婷の姿を見つけた。 彼女のポニーテールは少し乱れ、その白い頬は寒さと興奮で赤らんでいる。祐希は駆け寄り、無意識に彼女の肩を掴もうとして、寸前で手を止めた。


「雨婷、無事だったか? 地下にいたから、全然連絡がつかなくて」

「大丈夫。私は図書館の地階にいたの。マークも一緒だったけど、彼は今、さっきのスクランブルの映像をアップロードするって言って、メディアセンターの方へ走っていったわ」


雨婷は努めて明るい声を出し、無理に口角を上げた。しかし、彼女の細い指先が、握りしめたスマートフォンのケースを白くなるほど強く圧迫しているのを、祐希は見逃さなかった。 周囲の学生たちも、一見すれば日常の講義へと戻るかのように動いているが、その足取りはどこか危うく、視線は絶えず上空の雲の切れ間を彷徨っている。

二人は並んで、重苦しい空気が停滞するキャンパスの奥へと歩き出した。図書館前の広場に設置された大型ビジョンには、先ほどまでの「防空警報」の赤い文字が消え、いつものニュース番組が再開されていた。ニュースキャスターが、冷徹な、しかしどこか焦燥を隠しきれない声で報じている。


『……国防部は、空軍は定められた手順に従って迅速に対応しており、今回の接近により地上に危険が及ぶ恐れはほぼなかったと発表しました。なお――』

『続いて速報です。上海で貿易会社を経営する台湾人ビジネスマン、林氏が、国家安全部によって拘束されました。容疑は「反間諜法」に違反し、国家安全危害罪に該当するスパイ活動とされています。当局の発表によれば、林氏は長年にわたり大陸の軍事施設周辺で情報収集を行い、台湾当局へ提供していた疑いがあるとのことですが、家族は「不当な拘束だ」と強く訴えています』


雨婷が歩みを止め、モニターを凝視した。彼女の瞳に、深い不信と、そして幾度となく繰り返されてきた絶望の影が差す。


「また『台商』が人質に取られた……。これで今月に入って三人目よ。お父さんの知り合いにも、大陸との取引を急に打ち切られて、行方が分からなくなっている人がいるの」


モニター画面が瞬時に切り替わり、今度は台湾南部の高雄港、灰色の軍艦が並ぶ左営海軍基地の空撮映像が映し出された。


『さらに国内でも事件です。高雄市の左営海軍基地に勤務する現役の海軍少佐が、大陸の国家安全部工作員と接触し、艦艇部隊のパトロール計画に関する軍事機密を漏洩した国家安全法違反及び外患罪容疑で、憲兵隊と法務部調査局により逮捕されました。この少佐は多額の借金を抱えていたと見られ、数年前からSNSを通じて大陸側の工作員に「飼い慣らされていた」可能性があるとのことです。国防部は、全軍に対して緊急の機密保持調査を命じました』


アングルの変わった画面の中では、うつむいて手錠をかけられた中年の男が、屈強な憲兵たちに両脇を抱えられ、黒塗りの車両に押し込まれている。 背景に見える高雄の海は、冬の陽光を跳ね返して冷たく輝いていたが、その光の裏側にどれほどの「裏切り」が潜んでいるのか。想像するだけで背筋が凍るような感覚が祐希を襲った。

雨婷は、力なく自嘲気味な笑いを漏らした。


「見て、祐希。外からはドローンや軍艦やミサイルで脅され、内側からはスパイと裏切り、ハッカーの破壊工作で崩されていく。これが私たちの『日常』なのよ。さっきの警報で、みんな『死ぬかもしれない』って思った。でも、警報が止まった後に流れてくるのは、『隣人が敵かもしれない』っていう疑心暗鬼。どっちが残酷だと思う?」


祐希は答えることができなかった。キャンパスのガジュマルの巨木が、湿った風に吹かれて、まるで巨大な生き物が喘いでいるような低い音を立てている。

学生たちの間では、すでにSNSを通じてこれらのニュースが拡散され、スマートフォンを見つめる顔、顔、顔に、隠しきれない動揺が広がっていた。誰かが「あいつも怪しいんじゃないか」と囁き、誰かが「もう終わりだ」と吐き捨てる。 目に見える爆発や破壊はない。しかし、信頼という名の目に見えない糸が、一本また一本と鋭利な刃物で断ち切られていく。


「ねえ、祐希。日本にいた頃のあなたは、こんなこと想像もしていなかったでしょう?」


雨婷が、歩道の縁に座り込んで、遠くの校舎を見つめた。その横顔は二十一歳の大学生というより、はるか先の破滅を見据える預言者のような、痛々しいまでの静謐さを湛えていた。


「……ああ。平和っていうのは、もっと空気みたいに当たり前にあるものだと思ってた。でも、ここでは平和っていうのは、誰かが必死に繋ぎ止めていないと、すぐに融けて消えてしまう、脆い氷みたいなものなんだって、ようやく分かってきたよ」


祐希は彼女の隣に腰を下ろし、湿った地面の感触をジーンズ越しに感じた。一月の台北の風は、二人の間に漂う沈黙を冷たく撫でていく。 図書館の壁面には、依然として「防空避難訓練」の赤いポスターが、剥がれかかったまま虚しく揺れている。ニュースのキャスターは、今度は台北市場の株価が、ドローン事件を受けて過去最大級の下げ幅を記録したと、絶叫に近い声で伝えていた。

社会が、制度が、そして人々の心が、音を立てずに崩壊していく。


「……行こう。次の講義、遅れちゃうわ」


雨婷が先に立ち上がり、服についた埃を払った。その仕草は、どんなに世界が歪んでも、明日が来ることを信じようとする、切実な抵抗のようにも見えた。

祐希は頷き、彼女の背中を追った。 頭上では、また別のミラージュ戦闘機が、空気を引き裂くような爆音を響かせて、灰色の雲の彼方へと消えていった。


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