203Y年3月5日 北京
203Y年3月5日
中華人民共和国・北京市 中南海 執務室
北京の空は、厚く重いスモッグに覆われ、太陽の光を完全に拒絶していた。最高指導部が集う中南海の深奥、周華平主席の執務室には、暖房の熱気さえも凍りつかせるような、刺すような殺気が充満していた。
「……我が国の誇る東海艦隊と南海艦隊が、たかだか数時間の戦闘で海の藻屑に消えた!あんなに『ゲームチェンジャー』と豪語していた対艦弾道ミサイルも全く利かなかっただと!」
周の怒号が、防弾仕様の重厚な壁に反響し、室内の空気を物理的に震わせた。机の上にあった高価な玉座風のペン立てがなぎ払われ、大理石の床で乾いた音を立てて砕け散った。
彼の目の前で、直立不動のまま冷や汗を流しているのは、東部戦区司令員の張遠平上将と、中央軍事委員会の陳副主席であった。二人とも、人民解放軍の頂点に立つ将星でありながら、今はただ、死刑執行を待つ罪人のように肩を震わせている。
「『山東』も『福建』も沈み、駆逐艦の大半を失った。これだけの巨額を投じ、国民の血を絞り取って築き上げた無敵艦隊を、貴様らは一晩でドブに捨てたのだ!ミサイルも利かず、A2ADも崩壊したも同然!この無能、恥知らず、党への裏切り者め!」
周は机を何度も叩きつけ、張上将の鼻先に指を突きつけた。
「中央軍事委員会のボケナスどもが!『一滴の血も流さずに台北を制圧し、日米を局外に置く』と言ったじゃないか!蓋を開けてみればどうだ。与那国は奪い返され、釣魚島(尖閣諸島)では一方的に狩られ、今やわが国の沿岸部まで台湾の泥棒猫どもに砲撃されているではないか!何が新型戦争だ!」
「し、主席……。作戦計画は、国家安全部と連合参謀部がそれぞれの専門家を集め合同で作成したものでありまして……そして日米、そして英豪までもがこれほど迅速に参戦することは、予測を上回る規模で……」
張上将が掠れた声で弁明しようとした。
(ふざけるな!国家安全部のくだらないグレーゾーン戦略などにこだわらず、釣魚島も与那国と同時にさっさと奇襲して取れば良かったものを!李建国の口車に乗ってタイミングを逃したのはあんただろうがよ!)
(ポーカーや高城が生意気な演説をした時点で、日本とグアムの基地をロケット軍に先制攻撃させるべきだったんだ!ポーカーの報復宣言などに怖気づきよって!戦争になればこちらにも被害が出るのは当たり前だろう!)
(プロの軍人の正攻法に任せず、回りくどい策略を重ねすぎて好機を逸するとは!!)
憤懣やる方ない張の本心がもし一言でも口から漏れていたら命はなかっただろう。
とにかく煮え切らない張に、周は手元にあった分厚い戦況報告書を彼の顔面に投げつけた。
「黙れ! 言い訳など聞きたくない! 予測を誤ったのは、貴様の脳が腐っているからだ。中央軍事委員会も同罪だ。貴様らのような腰抜けに軍を預けたのが、わが人生最大の過ちであったわ!」
周の罵倒は留まるところを知らなかった。かつては皇帝のような冷静さを装っていた男の仮面は剥がれ落ち、そこには追い詰められた独裁者の剥き出しの狂気だけが残っていた。
ひとしきり罵声を浴びせ終えた周は、肩を大きく上下させながら、窓の外に広がる灰色の風景を見つめた。
「……このままでは終わらせん。いや、終わらせるわけにはいかんのだ。この屈辱を雪がねば、『中華民族の偉大なる復興』は歴史の笑い草になる」
周は振り返り、鋭い眼光を副主席に向けた。
「金門島だ。あそこはまだ我々の封鎖下にある。台湾本島との路を断たれ、補給が途絶えたあそこだけは、今度こそ確実に、物理的に掌握しろ。与那国や尖閣での失態を、金門の『完全解放』という看板で塗り潰すのだ」
「しかし主席、金門・馬祖からの反撃により、沿岸の港湾インフラは甚大な被害を受けております。再侵攻の準備を整えるには、数週間の再建期間が必要に……」
副主席の慎重な言葉を、周は冷酷な一言で切り捨てた。
「数週間など待てるか。昼夜を問わず、全工員、全軍を投入しろ。壊れた埠頭は埋め、焼けた物資は直ちに内陸から補充しろ。一週間だ。一週間以内に、金門への強行着上陸を可能にする態勢を整えろ」
そして周は、机の奥から一枚の白紙を取り出し、広報担当の秘書官を呼びつけた。
「……それから、世界に向けて、わが国の決意を示す『声明』を起草せよ。日米英豪の暴挙を断じて許さず、わが国が最後の、そして決定的な一線を越える用意があることを匂わせる内容だ。平和を求めるなどという軟弱なレトリックは不要だ。……奴らが二度とわが国に刃を向けようと思わなくなるような、恐怖を刻み込む言葉を選べ」
秘書官が震える手でメモを取る中、周主席は再び窓の外を睨みつけた。
奈落の底へと滑り落ちるような絶望的な戦況。しかし、この独裁者の脳内では、さらなる惨劇を伴う破滅的なエスカレーションのシナリオが、完成へと向かっていた。
「次で、全てをひっくり返してやる……」
低く、地を這うような周の呟きは、北京の冷たい空気に溶け、消えていった。




