203Y年3月1日 台北
203Y年3月1日
中華民国/台湾 台北市中正区 総統府前広場
三月に入った台北の空は、泣き出しそうなほどに厚く低い雲に覆われていた。二月初頭の封鎖開始から一カ月近く。大陸側の不安定化工作を跳ね除け一向に降伏しない郭総統、与那国での挫折、尖閣海域での艦隊壊滅、そして金門島の「鉄クズの山」――。中国が目論んだ電撃的な「新型戦争」は、日米同盟軍と台湾人の不屈の抵抗の前に、出口のない消耗戦へと変貌していた。
「……雨婷、あまり前に行き過ぎないほうがいい。憲兵たちが殺気立ってる」
桜木祐希は、人波を縫うようにして歩く廖雨婷の腕を軽く掴んだ。総統府前の重慶南路。そこには、数日前に流布された「郭総統逃亡説」を打ち消し、日米軍による航路啓開を控えてあと少しの辛抱だと国民を鼓舞するために今日行われる、総統の直接演説を一目見ようと、数千人の市民が詰めかけていた。市民たちの顔には、飢えと停滞による疲労が色濃く滲んでいたが、その奥には、自分たちの国家がまだ存続していることを確かめたいという、切実な期待が灯っている。
「大丈夫よ。お父さんも『今日は警備を最高レベルに上げている』って言ってたわ。……でも、あの中にいるはずのお父さんに、顔だけでも見せておきたいの」
雨婷は、国家安全局長である父・蔡隆元への不安を打ち消すように、無理に微笑んで見せた。その背後では、マークが最新の、しかしボロボロになったジンバル付きカメラを頭上に掲げ、ライブ配信のセッティングに余念がない。
「見てくれ、接続数が十万を突破した。世界中がこの広場で何が起きるかを見守ってる。民主主義がまだ生きているかどうかの、決定的な瞬間だ」
マークが興奮気味に囁く。広場を囲むように、T91自動小銃を胸に抱えた憲兵第二〇二指揮部の隊員たちが、数メートルおきに壁を築いていた。彼らの視線は、群衆の隙間に潜む「何か」を、獲物を追う猛禽のように射抜こうとしている。
重厚なバロック様式の総統府。その正面玄関から現れた郭文耀総統の足取りは、一カ月前とは打って変わって力強く、まるで自らの肉体を台湾不屈の象徴へと昇華させたかのようだった。陽光を反射する防弾ガラスの演壇へと続く赤い絨毯は、かつての栄光を物語るが、その下にはすでに死の陥穽が口を開けていた。
一階の薄暗い監視室。モニターに映る郭総統の顔を、一人の警備担当職員が血走った目で見つめていた。彼の耳の奥には、国民党内の親中派組織から提示された「大陸でのバラ色の余生」という甘い囁きがこびりついている。
「……これが僕の選んだ『平和』なんだ」
震える声で独りごちると、彼はタブレットの深紅の実行ボタンをなぞった。瞬間、広場北東の通用門。鉄壁を誇るはずの顔認証ゲートと赤外線センサーがわずか五秒の間、機能を停止した。死神が通り抜けるには、それで十分だった。
「ターゲット視認。距離百五十。三時方向のベンチ横、障害なし」
市民の歓声に紛れ、パーカーの男が喉元の無線に低く応じた。懐に忍ばせた中国人民解放軍制式の〇五式衝鋒槍(消音機関拳銃)が、体温を吸って冷たく光る。
「了解。バックアップ、射線確保済みだ。掃射開始と共に制圧する」
清掃員を装った別の工作員が、消火器ボックスの影で九五式自動歩槍のボルトを静かに引いた。
郭総統が演壇に立ち、群衆に向けて両手を広げる。
「わが国民諸君。大陸の独裁者は、我々の自由を、この魂を屈服させられると信じている。だが――」
その確信に満ちた言葉が、引き裂かれた。
プシュッ、プシュッ
乾いた、それでいて重い排気音が二度。総統の左脇に立っていた若き憲兵の喉元が、赤いザクロのように弾け飛んだ。鮮血が郭総統の白いシャツに点々と飛び散る。
「総統! 伏せてください!」
最前列のSPが叫びながら郭総統に飛びつこうとしたが、その背中を五・八ミリの高速弾が容赦なく貫いた。
「敵襲! 三時方向! 撃ち返せ!」
「市民を下がらせろ! 防衛線を維持しろ!」
指揮官の絶叫が広場を切り裂いた。北東角から飛び出した工作員たちが、遮蔽物を利用しながらT91小銃を構える憲兵たちへ火を噴く。
「きゃあああ!」
「助けて! 撃たないで!」
逃げ惑う市民を盾にする工作員たちの冷酷な戦術に、憲兵たちは反撃を躊躇し、その隙を縫って無慈悲な弾丸が次々と治安維持の要を排除していく。
「雨婷! 伏せろッ! 地面に張り付いてろ!」
祐希は喉が潰れるほどの声で叫び、雨婷の細い肩を抱きかかえてコンクリートの地面へと押し倒した。
「祐希、これ……何が起きてるの……!?」
「いいから黙ってろ! マーク、お前もだ!」
「分かってる! だが、これは撮らなきゃならねえ……歴史だ!」
マークは街路樹の根元にうずくまりながら、震える手でカメラを演壇へと向け続けた。ファインダー越しに、憲兵たちが次々と倒れ、広場が血の海に沈んでいく様が映し出される。
その時、逃げ惑う市民の叫び声さえもかき消す、異様な高周波のモーター音が頭上から降り注いだ。
「……自爆ドローンだ! 上だ、上を見ろッ!」
マークの絶叫が空を指した。鳥のような影が三つ、四つ。市販のレース用ドローンにC4爆薬と鋼鉄の破片を括り付けた「空飛ぶ手榴弾」が、猛烈な速度で演壇へと急降下してくる。
「総統を隠せ! 防護板を――!」
SPたちの必死の抵抗も虚しく、先頭の一機が演壇の防弾ガラスに接触した。
ドォォォォン!!
内臓を揺さぶるような爆轟音が台北の空を劈き、凄まじい衝撃波が広場の空気を一瞬にして奪い去った。演壇を囲んでいた強固な防弾ガラスは粉々に粉砕され、オレンジ色の劫火が郭総統の姿を完全に飲み込む。黒煙が龍のように巻き上がり、数秒前まで希望の演説が行われていた場所は、鉄と肉が混じり合う瓦礫の山へと変貌した。
「総統! 郭総統!」
血まみれのSPたちが、爆炎の中に飛び込む。煙の中から引きずり出されたのは、服が焼け焦げ、顔半分を鮮血で染めた郭総統の無残な姿だった。
「意識はあるか! 総統! 応答してください!」
「こちら護衛班! 総統負傷、至急医療チームを! ヘリを出せ! 急げ!」
無線の絶叫に重なるように、激しい電子ノイズが広場を支配した。強力なジャミングが通信網を遮断し、救助を求める声は虚しくかき消される。
「そんな……嘘でしょ、郭総統が……」
雨婷が泥と灰にまみれた地面を拳で叩き、声を殺して泣き崩れた。
ふと見上げれば、総統府の屋上で誇り高くたなびいていたはずの青天白日満地紅旗が、爆風で千切れ、黒い煤を纏って力なく垂れ下がっていた。




