203X年12月 東京/台北
203X年12月
日本 東京都千代田区 経済産業省
冬の訪れを告げる木枯らしが、官庁街の重厚なコンクリートの建物の間を吹き抜けていた。夕闇に包まれ始めた霞が関の街灯が、帰路を急ぐ背広姿の群れを寒々しく照らしている。 しかし、経済産業省事務次官室には、外の冷気とはまた異質の、肌を刺すような緊張感が満ちていた。
重厚なマホガニーの長机を囲むのは、通商政策局、製造産業局、そして資源エネルギー庁の参事官級職員たちだ。彼らの前には、北京の日本大使館に駐在する経済アタッシェから届いたばかりの、機密報告書が置かれていた。
「西日本の電力会社に対するサイバー攻撃の急増についても、この動きと無関係ではないでしょう」
資源エネルギー庁の参事官が、沈痛な面持ちで口を開いた。
「中国政府が本日、国内資源保護を名目に、リチウム、チタン、バナジウム、クロム、マンガンといった戦略的貴金属の輸出制限を正式に発表しました。さらに、銅やニッケルなど、通常は市場取引が中心の汎用金属についても、国営企業に対して秘密裏に大規模な備蓄を命じているという確度の高い情報があります」
参事官の指先が指し示す資料には、ここ数カ月で着実に上昇を続けてきた国際金属価格のチャートが、まるで牙を剥く獣のように描かれている。
「リチウムは次世代バッテリーの心臓部、チタンは航空宇宙産業の骨格。そしてバナジウムやマンガンは特殊鋼の添加剤として、戦車の装甲や火砲の砲身には欠かせない。……これだけの種類を、このタイミングで同時に止めるというのは、単なる経済的な揺さぶりの域を超えています」
通商政策局の参事官が、眼鏡の奥の目を険しくして言葉を継いだ。
「それだけではありません。北京からの報告によれば、華北や華中の主要な軍需工場周辺で、電力供給の優先順位が露骨に変更され、民間向けのラインを止めてでも金属加工ラインをフル稼働させている兆候があるとのことです。これはもはや、平時の経済活動ではありません」
沈黙が室内を支配した。暖房の微かな作動音だけが、事態の深刻さを強調するように響く。 事務次官は、窓の外で明滅する、道路の反対側の財務省の灯りを凝視したまま、低く、重い声で言った。
「輸出制限という名の、物資の囲い込み。そして軍需生産の急拡大。……我々が目にしているのは、歴史が何度も繰り返してきた、国家総力戦への前触れか」
「はい。これは明白な『戦争準備』のフェーズに入ったと見るべきです。直ちに国家安全保障局《N S S》、および国家情報局と情報を共有し、政府全体での危機管理対応を要請すべきだと判断します」
事務次官の言葉に、参事官たちは一斉に頷いた。 経済という名の戦場では、すでに最初の砲声が上がっていた。
中華民国/台湾 台北市松山区 台北松山空港
台北市街地の北部に位置する台北松山空港は、逃げ場のない熱気と、沸騰寸前の不穏な空気に包まれていた。
出発ロビーの巨大な電光掲示板には、羽田、成田、ソウル金浦、上海虹橋といった国際路線の横に、血の滴るような赤い文字で「延誤(遅延)」あるいは「取消(欠航)」の二文字が並ぶ。
「なぜ飛ばないんだ!」
「重要な商談があるんだぞ!」
カウンターに詰め寄る乗客たちの怒号が、高い天井に反響する。しかし、空港の地上職員たちは顔面を蒼白にし、ただ「安全上の理由による滑走路の一時閉鎖」という定型文を繰り返すことしかできなかった。
「……消えただと? さっきまで確かに、10滑走路の末端、高度十メートル付近にホバリングしていたはずだ!」
中華民国交通部民用航空局・台北松山機場管制塔。ベテラン管制官は、手汗で滑る双眼鏡を必死に動かし、基隆河の対岸にそびえ立つ大直の軍事施設群や、陽明山の稜線を追った。
数分前、空港の航空管制レーダーには一切反応を見せない「ゴースト」が突如として現れたのだ。マットブラックの塗装を施された、鳥ほどの大きさの小型ドローン、おそらく市販のクアッドコプターかその改造型が、航空機の離着陸を物理的に阻害する滑走路の正中線上に居座り続けていた。
「基隆河沿いの『飛機巷(飛行機小路)』周辺を全域捜索中だが、操縦者らしき影は発見できない。ドローン本体も、低空を這うようにして河川敷の茂みに消えた。……視界から完全にロストした!」
無線から流れる警察官の声には、隠しきれない焦燥が滲んでいた。
松山空港は、台北の心臓部にある交通の要衝であると同時に、中華民国空軍松山基地指揮部が置かれ、総統専用機「空軍一号」も駐機する、国防上の聖域だ。
この「不審なドローン」一機による数時間の閉鎖は、単なる交通の混乱に留まらない。台北の防空網が、わずか数万円の機械一台によって、文字通り「鼻先で」嘲笑われたことを意味していた。
「……犯人も、機体も、跡形もなしか」
現場に急行した台北市政府警察局松山分局の巡査部長は、ドローンが消えたとされる基隆河の暗い水面を、強力なサーチライトで照らした。
しかし、光の輪が捉えるのは、湿った風に揺れる葦の群生と、その先に広がる不気味なほど黒々とした台北の街並みだけだった。
サーチライトの光を飲み込む夜の街は何も答えず、ただ遠くで台北101の冷たい灯火が明滅しているばかりだった。




