203Y年2月22日 与那国
日本 沖縄県八重山郡与那国町
断崖に打ち付ける荒波の音に紛れ、四つの影が岩陰から音もなく立ち上がった。 彼ら、陸上自衛隊特殊作戦団の一小隊が、海上自衛隊の潜水艦「はくげい」からスクーバ潜水でこの島に降り立ったのは、今日ではない。高城総理が「防衛出動」を発令する五日前――日本全土が極限の混乱状態となり、自衛隊が創設以来初の治安出動の任に当たっていたとき、彼らはすでに日本最西端の土を踏んでいた。
わずか百十キロ先には台湾を望み、国境の緊張が沸点に達していたこの島で、彼らの潜入は徹底的に秘匿された。この隠密行動を知るのは、閣僚でも総理と防衛大臣の二人のみ。防衛省内でも、作戦立案に関わった極少数の幹部――統合幕僚長、統合作戦司令官、特殊作戦団と海上自衛隊潜水艦隊の司令官及び作戦主任幕僚たち――だけに限定された。万が一の機密漏洩を防ぐための徹底した保全措置であり、彼らは「存在しない部隊」として、情報のブラックホールへと飛び込んだのだ。
「……五日間、長かったな」
小隊長、コールサイン『ウルフ』が、サプレッサー付きのHK416自動小銃を胸に抱え直し、低く呟いた。 この五日間、彼らは電波妨害によって本土との一切の連絡を絶たれたまま、亜熱帯特有の湿った密林に身を潜めてきた。草木を食み、夜露を凌ぎ、幽霊のように島内を徘徊し続ける過酷な偵察行。その背中のリュックには、最新鋭の核物質探知センサーが収められている。彼らの任務は、奪還作戦の露払い。そして「琉球共和国」が盾にしているという「小型核兵器」が実在するのか、その正体を暴き、無力化することにある。
「ウルフ、感度があった地点をマークした。……やはり、あの山だ」
副隊長『オーク』が、防塵仕様のタブレットを遮光布の下で開いた。画面には、島内を数日かけて精密にスキャンした結果、不自然な放射線のピークを示す地点が赤く灯っていた。 その時、背後の茂みが微かに揺れた。 『ウルフ』たちが銃口を向けるよりも早く、特定のパターンで点滅するライトの合図が届く。
「……沿岸監視隊か?」
『ウルフ』が小声で問うと、闇の中から泥にまみれた数名の男女が姿を現した。 沖縄県警外事課の藤沢巡査部長、そして数名の沿岸監視隊員たち。スターネットの復旧により、本土を経由してようやくコンタクトに成功した、島内の「生き残り」たちだった。
「……陸上自衛隊の方々ですね。待っていました。沖縄県警察本部、警備部外事課の藤沢巡査部長です。こちらは、与那国沿岸監視隊警備小隊の三枝2曹です」
藤沢巡査部長は自らの拳銃をホルスターに収め、安堵と緊張が混ざり合った表情で彼らを見つめた。 特戦団の隊員たちは実名を一切明かさず、偽名のコールサインのみで会話を続ける。
「状況を整理しよう」
『ウルフ』は、藤沢たちが潜伏していた祖納地区の民家跡へ移動すると、スキャンデータと彼らの目撃情報を照らし合わせた。
「我々のセンサーは、島の中央――宇良部岳の山頂付近で微弱な中性子反応を捉えた。通常ではあり得ない数値だ。奴らは、あの標高二百メートル超の頂付近に、核兵器を設置した可能性がある」
「宇良部岳……爆破された携帯電波塔がある場所ですね。残骸しかないと思ってノーマークでした」
沿岸監視隊員が、悔しげに地図を指さした。島内最高峰であり、祖納の街からも仰ぎ見えるその山頂は、かつては島民の憩いの場であったが、今は死の影を宿している。
「核が本物であれ、ハッタリであれ、奪還作戦が本格化する前にあれを叩かなければ、主力部隊は動けない」
『ウルフ』の瞳に、鋭いプロの光が宿る。
「よし。我々特殊作戦団が山頂へ向かう。島内に潜伏している残りの十名も合流させる。藤沢さん、あなた方はふもとの祖納地区の動向を。本隊が来るまで、決して奴らに気づかれるな」
沈黙を武器とする精鋭たちは、再び夜霧の森へと溶け込んでいった。与那国島の最高峰、宇良部岳。その頂に眠る「死神」の鎌を折るために、彼らの静かなる行軍が始まった。
宇良部岳の頂は、濃い夜霧と湿った原生林に飲み込まれ、下界の祖納や久部良の喧騒から切り離された絶対的な静寂の中にある。 その急峻な斜面を、四つの影が音もなく這い上がっていく。『ウルフ』を先頭に、彼らは一歩踏み出すごとに周囲の音に耳を澄ませ、微かな空気の震えさえも逃さぬよう神経を研ぎ澄ませていた。
「……まもなく山頂だ」
『ウルフ』がハンドサインを送り、班員が岩陰に身を沈める。 暗視ゴーグル越しに見る山頂広場は、風に揺れるススキと通信施設の残骸があるだけの、無人の荒れ地にしか見えない。しかし、彼らが手にする多機能型双眼鏡は、不自然な熱源を捉えていた。ススキの群生に見える場所のいくつかは、周囲の植生に同化させた最新の擬装網であり、その下にはマットブラックに塗装された重機関銃の銃口が、登山道を正確に狙っている。
「擬装された監視ポスト、四つ確認」
『ウルフ』が小声で無線に囁く。さらに、彼らのバックパックにあるセンサーが、狂ったように針を振っていた。
「ビンゴだ」 副隊長の『オーク』が、タブレットの数値を指し示す。
「中性子の放出を確認。コンクリート掩体の奥に、間違いなく『アレ』がある。奴らは本物を持ち込んでやがる」
一言も発さず、レーザー照射による合図だけで連携を取り合う敵部隊。これほどの精鋭を山頂に割いている事実が、ここに「切り札」があることの動かぬ証拠だった。
「残りの小隊員を呼び寄せる。……スターネット、バースト送信開始」
極小のパケットが、待機する残りの隊員たちへと放たれた。特殊作戦団の全戦力が、この宇良部岳の山頂へと集束していく。闇の中で、静かに、しかし着実に包囲網が狭まり始めていた。
山頂を包む霧が、かすかな火薬の匂いを吸い込んでいく。 後続の小隊員が合流し、完全な包囲網が完成した。『ウルフ』のハンドサイン一つで、静寂の中の処刑が始まった。
「ターゲット、確認。……シュート」
サプレッサーを装着したHK416が、乾いた音を立てる。 NVGの緑色の視界の中で、擬装網から露出していた中国兵の頭部が弾けた。声も上げず、崩れ落ちる影。異変に気づいた別の兵士が銃口を向けようとした瞬間、『オーク』の放った正確無比な一弾がその眉間を貫いた。
「前進」
特殊作戦団の面々は、互いの死角をカバーしながら、山頂中央にある古い通信施設跡――現在は「核の盾」の保管庫と化した場所――へと肉薄していく。 扉の前に立ちはだかった最後の守衛兵が、侵入者の気配を察知した。兵士は胸元の無線機へ必死に手を伸ばす。一瞬でも通信が通じれば、祖納の工作員たちに「核の爆破」という最悪の選択肢を与えてしまう。
「させるか!」
『ウルフ』が跳躍した。 銃を撃つ時間さえない至近距離。中国兵の指がスイッチに触れる直前、『ウルフ』の剛腕がその手首を掴み、強引にねじ上げる。泥を噛むような音とともに始まった、凄まじい徒手格闘。中国兵は必死に叫ぼうと口を開くが、『ウルフ』は容赦なくその頸動脈を圧迫し、声を封じ込めた。そのまま壁に叩きつけ、急所に掌底を叩き込む。
中国兵の身体から力が抜け、無線機に触れることなく地面に沈んだ。
「……クリア」
『ウルフ』の合図で、施設の扉が音もなく破砕された。 内部に突入した彼らが目にしたのは、無機質なコンクリートの床に置かれた、重厚なチタン合金製の金属ケースだった。
放射線測定器のLEDが、激しく警告の赤色を点滅させている。
「ウルフ、これだ。間違いなく中性子反応が出ている。推定核種は……プルトニウム239」
『オーク』がケースの感触を確かめながら報告した。 日本を、そしてこの美しい国境の島を沈黙させてきた悪魔の牙。中国人民解放軍が特殊作戦用に製造した小型のプルトニウム原子爆弾が、ついに自衛隊の手に落ちた瞬間だった。




