203X年12月 台北
203X年12月
中華民国/台湾 台北市大安区 国立台湾大学
台北の十二月は、湿った冷気が皮膚にまとわりつくような、独特の重苦しさを伴っていた。 鉛色の雲が低く垂れ込め、熱帯の植生が濡れたアスファルトにどろりとした黒い影を落としている。社会科学院棟の吹き抜けラウンジで、祐希は手元のスマートフォンに釘付けになっていた。
短文投稿型SNSを開くと、そこには見慣れたはずの故郷とは似ても似つかない、地獄のような光景が「真実」として氾濫していた。
画面の中で再生されたのは、沖縄の米軍嘉手納飛行場周辺とされる動画だ。画質はあえて粗く落とされ、生々しい手ブレが臨場感を煽っている。 そこには、中東紛争のニュースで見覚えのある砂漠戦用迷彩服に身を包み、タトゥーの刻まれた太い腕を覗かせた数名の白人兵士が、路上で泣き叫ぶ地元の若い女性を強引に軍用車両へ引きずり込む姿が映っていた。女性の衣服は無残に引き裂かれ、アスファルトには彼女が抵抗した際に剥がれた爪の跡のような、鮮血の筋が引かれている。
「……っ、なんだよこれ、ありえないだろ」
祐希の指が震える。次に表示されたのは、陸上自衛隊宮古駐屯地正門前とされる静止画だった。 黒光りする最新鋭の20式小銃を肩に掛けた自衛隊員たちが、抗議する高齢者たちを容赦なく特殊警棒で殴りつけ、頭から血を流す老女を泥濘の中に突き伏せている。隊員の強化ガラス製バイザー越しに見える瞳は、まるで感情を去勢された機械のように無機質で、その足元には踏み潰された「琉球独立」の旗が虚しく転がっていた。
これらの画像や動画には、扇情的な多言語のハッシュタグが躍っている。
『日米軍による琉球市民大虐殺』
『沈黙する国際社会、今こそ琉球に自由を』
『#FreeRyukyu』 『#RyukyuNotJapan』 『#OkinawaGenocide』 『解救琉球人民』
「祐希、それを見たか。今、あらゆるSNSが沖縄関連のハッシュタグで飽和状態だ」
隣に座るマークが、苦り切った表情で自分のノートPCをこちらに向けた。彼の画面に映し出された英語圏のタイムラインも、同様の地獄絵図だった。
「これ、全部デマだよ。日本でこんなことが起きてたら、今頃国中がひっくり返ってる。自衛隊が国民に銃を向けるなんて、今の日本では考えられない」
「わかってる。だが、このディープフェイクは巧妙だ。米兵の装備の傷、自衛隊の階級章の細部、天候による光の反射まで完璧にシミュレートされてる。これじゃ専門家でも一瞬で見抜くのは難しいぜ」
マークの声には、いつもの余裕がなかった。彼はサイバーセキュリティを専攻する者として、この情報の濁流が持つ「殺傷能力」を誰よりも理解していた。
「見て、この風刺画も……」
雨婷が声を潜めて指差したのは、中国語のタイムラインに流れてきたイラストだった。 星条旗と日の丸を背景に、巨大な黒い軍靴が小さな沖縄の島々を粉砕し、そこから溢れ出す血が台湾まで流れ着くという、おどろおどろしい構図だ。
「日本政府は沖縄を、台湾有事の際の『捨て石』にしようとしている。そしてアメリカはそれを利用するだけ利用して、最後には見捨てる。……いま中華圏のSNS空間では、このロジックが恐ろしいスピードで浸透し始めているの」
その時だった。 ラウンジの壁に設置された巨大なマルチモニターから、突然、耳を刺すような緊急報道のアナウンスが響き渡った。 ざわついていた学生たちが一斉に顔を上げ、モニターを凝視する。
映し出されたのは、ホワイトハウスの記者会見場だ。壇上に立つのは、予測不能な言動で世界を翻弄し続けるロナルド・ポーカー大統領だった。
『……我が国は、他国の領土問題に無限のリソースを割くつもりはない。アメリカ第一主義とは、アメリカ人の血を無駄に流さないということだ』
大統領は、分厚い唇を歪めて冷笑のような笑みを浮かべ、言葉を続けた。
『日本や台湾が自らの防衛に消極的なのであれば、我々だけがリスクを負う理由はない。沖縄で起きている混乱も、元を正せば同盟国の統治能力の問題だ。我々は、中国との決定的な破局を望んでいるわけではないのだから』
会場から飛ぶ記者たちの質問を遮り、大統領は背を向けた。
解説者の冷静な声が続く。
『ポーカー大統領の今回の発言は、かねてよりアメリカが曖昧政策をとってきた台湾防衛のみならず、条約上の義務がある日本の防衛すら履行しない可能性を示唆するもので――』
その瞬間、ラウンジは水を打ったような静寂に包まれた。 数秒の沈黙の後、爆発的なざわめきが沸き起こる。学生たちの顔には、困惑と、そして深い不信感が張り付いていた。
「アメリカは……やっぱり、私たちを助けてくれないの?」
雨婷の呟きは、周囲の喧騒に飲み込まれて消えた。しかし、彼女の瞳に宿った絶望的な色を、祐希は見逃さなかった。
窓の外では、細かな雨が台北の街を濡らし続けている。 多言語で流布される凄惨な嘘と、同盟国のトップが放つ不透明な本音。それらが複雑に絡み合い、目に見えない「不穏な影」となって、この平和なキャンパスの輪郭を刻一刻と歪めていた。




