203Y年2月17日 台北
203Y年2月17日 中華民国/台湾 基隆市 基隆港
北部の玄関口、基隆を包み込むのは、この季節特有の冷たく湿った海霧だった。かつて豪華客船が接岸し、色とりどりのコンテナが活発に行き交った岸壁は、今や鈍色の静寂に支配されている。港の入り口では、海軍の機雷敷設艦が静かに波を切り、海中には「目に見えない壁」が築かれていた。かつて観光客で賑わった「基隆廟口夜市」へと続く路地は、鉄条網が張り巡らされたバリケードによって寸断されている。軒を連ねる屋台には、色褪せたビニールシートがかけられたまま、冷たい雨に打たれていた。そこに立つのは、迷彩服の背中に「憲兵」の文字を刻んだ男たちだ。彼らの手元では、最新の暗視装置を備えたT91小銃の銃口が、霧の向こう側――「防疫」と称して港を包囲し続ける中国海軍の艦影を睨みつけていた。民主化から数十年、台湾人が「自由な呼吸」と共に築き上げてきた港町の喧騒は、軍事要塞へとその姿を変貌させていた。
台中市 中区 台中駅前広場
かつての日本統治時代の面影を残す赤レンガの旧駅舎。その前に広がる近代的な広場は、今や「集会禁止」という冷徹な法理を体現する空白地帯となっていた。
広場の中央には、二日前まで「反戦・平和統一」を叫ぶ親中派と、「主権死守」を掲げる独立派が激しく衝突した瓦礫の跡が残っている。しかし、戒厳令の布告と共に、それら一切の「声」は消え失せた。広場を監視する装甲車のハッチからは、重機関銃の黒い銃身が突き出し、五人以上の集会を禁じる布告令を文字通り実力で担保していた。 駅の時計台の下、数人の若者が小声で話し込もうとした瞬間、拡声器から耳を刺すような警告音が響き渡る。
「……直ちに解散しなさい。集会禁止命令に違反すれば、軍法会議に付されることになる」
上空を旋回する軍用ドローンのプロペラ音が、市民の頭上に「監視」という名の不透明な天井を形成していた。1987年7月15日、1949年から続いていた「台湾省戒厳令」が解除されて以来、歴史の闇へ消えたはずの、あの「言葉を飲み込む時代」の記憶が、若者たちの凍りついた吐息と共に、再び街の空気に溶け込んでいった 。
高雄市 前鎮区 高雄港コンテナターミナル
台湾経済の心臓部、高雄。バシー海峡の荒波を臨む巨大なガントリークレーン群は、電源を落とされ、まるで立ち往生した巨人の骨格のように、赤く染まった夕闇の中に佇んでいた。エネルギー供給の統制により、港湾の灯火は必要最小限まで絞られている。かつて不夜城のように輝いたターミナルは、今や影と鉄の迷宮だ。重要防護施設に指定された変電所や給水タンクの周囲には、土嚢が積み上げられ、招集されたばかりの予備役兵たちが、震える手で銃剣を握りしめている。
「……これは、本当に俺たちの街なのか」
兵士の一人が、かつて通勤で通ったハイテク工場の、明かりの消えた窓を見上げて呟いた。バシー海峡の彼方からは、中国空母「山東」を中核とする空母打撃群の、不気味な沈黙の重圧が押し寄せてきている。封鎖によって「窒息」を待つこの島にとって、戒厳令は自由な社会の安全を守るための盾であると同時に、自らの身体を縛り上げる鋼鉄の拘束衣でもあった 。
台北市大安区 国立台湾大学
「……昔の白色テロの時代。ひいおじいちゃんがよく話してくれたわ。あの頃は、誰がどこで自分を告発しているかわからない、ある日突然隣人が敵になったって」
雨婷が、路地裏のコンクリート壁に貼られた「軍法会議」の文字を見つめながら、独り言のように呟いた。その声は、湿った夜風に吹き消されそうなほど細かった。 彼女の脳裏には、数日前までこのキャンパスで語り合っていた「未来」の断片が、粉々に砕け散ったガラスのように散乱していた。世界がパニックに陥り、情報が偽りと憎悪で塗り潰されていく中で、最後に残された「自由」という名の聖域すらも、生存のために返上せざるを得なかったのだ。
「雨婷、行こう。もうすぐ午後八時になる。通行禁止の時間だ」
祐希は、彼女の冷たくなった肩をそっと抱き寄せた。遠くで、夜間通行禁止を告げるサイレンが鳴り始めた。それは、何十年もの時間をかけて台湾人が積み上げてきた「日常」の、最終的な閉幕を告げる弔鐘のように響いた。路地を曲がった先、検問所のサーチライトが二人の影を長く、不気味にアスファルトの上に伸ばす。かつての「白色テロ」を知る世代が恐れ、若い世代が想像すらしていなかった、安全を代償にした「鉄の沈黙」。その沈黙の中で、台湾全土は、迫りくる巨大な嵐の前の、息の詰まるような「窒息」の予感に包まれていた。
しかし、この息苦しい沈黙の裏側で、戒厳軍はもう一つの「戦争」を冷徹に遂行していた。それは、長年この島に潜伏し、侵攻のXデーに向けて社会混乱やインフラ破壊を画策していた「内部の敵」の排除であった。
台北市内の高級マンションの一室。雨に煙る深夜の静寂を、重厚な破壊音が引き裂いた。
「目標、三階三〇二号室。抵抗すれば射殺を許可する。……突入!」
憲兵特勤隊《M P S S C》の指揮官の低く鋭い号令と共に、特殊爆薬によってドアが粉砕された。閃光弾の残光が網膜を焼く中、黒い装備に身を包んだ隊員たちが流れるような動きで室内に雪崩れ込む。
「動くな! 憲兵隊だ! 床に伏せろ!」
「令状はどうした! 弁護士を呼べ!」
かつて親中派ビジネスマンとして社交界に名を馳せ、地下では北京への情報提供を統括していた男が、パジャマ姿で叫ぶ。だが、隊員は男の腕を冷酷に捻り上げ、暗号化通信端末を破壊する間もなく、冷たい大理石の床に押し付けた。
「令状だと? 寝ぼけるな。今は戒厳下だ。裁判官の署名など待つ時間は我々にはないし、その必要もない。君の身柄は軍の管轄下に入る」
指揮官は冷たく言い放ち、抵抗する男の口に猿ぐつわを嵌めさせた。
かつては警察ですら手を出しかねていた裏社会を牛耳る犯罪組織「竹聯幫」や「天道盟」の拠点にも、重武装の陸軍特戦部隊が踏み込んでいた。これらの組織は、中国側から莫大な資金援助を受け、封鎖による準戦時下の台湾で多数の凶悪事件を起こして社会秩序を混乱させ、本格的交戦に突入すれば重要インフラを破壊する準備など、明白な利敵行為を行なっている。
「ドアブリーチング! 二番隊、裏口を固めろ。ネズミ一匹逃がすな!」
新北市郊外のスクラップ工場。偽装された入り口が装甲車によって突き破られ、逃げ惑う暴力団員たちが次々と地面に組み伏せられていく。彼らが隠し持っていたのは、大陸製の銃器だけではない。重要施設への侵入ルートを記した詳細な地図や、ジャミング装置の数々が次々と押収されていく。
「……要抑留者リストの八割を検挙。残る逃亡犯は検問所で網にかける」
「治安を乱す癌細胞を一つ残らず摘出しろ。これは国家の生存がかかった掃除だ」
「隊長、地下室から大量の衛星通信機とプラスチック爆弾を発見しました」
「よし、証拠品として確保しろ。これを使われる前に摘み取れたのは大きい」
指揮官は、拘束された男たちの憎悪に満ちた視線を一蹴し、次の目標へと無線を入れた。憲兵隊のブーツが鳴らす規則正しい足音だけが、かつて欲望が渦巻いた裏通りを冷たく支配していった。
かつての「白色テロ」の記憶を持つ世代が震え上がるようなこの光景は、現代の台湾人にとって、自由を奪う「鎖」であると同時に、内側から崩壊しようとする社会を繋ぎ止めるための「外科手術」でもあった。平時には司法の壁や人権保護という盾に守られていたスパイや犯罪者たちにとって、戒厳令という超法規的な「剣」は、逃げ場のない死神の鎌として機能していた。




