203Y年2月16日 台北
203Y年2月16日 午後4時
中華民国/台湾 台北市中正区 忠孝東路
爆心地からわずかに離れた歩道の縁石に、祐希と雨婷は力なく座り込んでいた。二人の肩には、駆けつけた台北市政府消防局の救急隊員によって銀色のエマージェンシー・ブランケットが掛けられている。 周囲は、現実感を喪失したモノクロームの世界だった。降り注いだ灰が雪のように積もり、ひっくり返ったスクーターから漏れ出たガソリンが、アスファルトの上で虹色の不気味な模様を描いている。
「……お名前と、国籍を。それから、ここで何を見ていたか教えてください」
顔を煤で汚した台北市政府警察局の若い巡査が、震える手でメモ帳を握り、二人に問いかけた。祐希は、泥と血に汚れた日本のパスポートを提示し、掠れた声で答えた。
「……何も。ただ、光が見えて、次の瞬間には地面に倒れていました」
雨婷は、ブランケットの下で自分の体を抱きしめるようにして震えていた。彼女の視線の先では、担架に乗せられた「動かない塊」が次々と救急車――あるいはただのトラックの荷台へと運び込まれていく。
「……ご協力ありがとうございます。今は、あまり遠くへ行かないでください。……いや、行く場所なんて、もうどこにもないかもしれないが」
警察官は自嘲気味に呟き、再び爆煙が立ち昇る善導寺駅の入り口へと走り去った。そこでは、瓦礫を素手で退けようとする消防隊員たちの怒号が、冷たい空気をつんざいていた。
午後6時 総統府
地上の地獄絵図とは対照的に、総統府の地下指揮センターは、死を宣告された病室のような静寂に包まれていた。郭文耀総統は、両手をテーブルにつき、モニターに映し出される断片的な被害報告を、血走った眼で見つめていた。
「報告しろ。被害の全容は」
郭総統の問いに、国家安全局の蔡局長が、紙の報告書を震える指でめくった。
「台北車站、西門町、信義商圏、そして善導寺周辺。計六箇所での同時爆破を確認しました。使用されたのは軍用の高エネルギー爆薬と推測されます。死傷者は……」
蔡は一度言葉を詰まらせ、絞り出すように続けた。
「……確認できただけで死者八百名を超えました。瓦礫の下に閉じ込められた者、および重傷者を含めれば、数千人に上るのは確実です。台北の医療機関は既に飽和状態にあり、断水と停電が救命活動を絶望的にしています」
その時、国家安全局の若い事務官が血相を変えて室内に飛び込んできた。
「局長!複数のSNS上に犯行声明がアップロードされました。発信元は……『台湾独立戦線』を名乗る組織です」
モニターに映し出されたのは、顔を隠した黒ずくめの男たちが、狩猟用の散弾銃と思しきものを掲げた動画だった。合成された歪んだ声が、静まり返った室内で不気味に響く。
『我々は、郭文耀政権の救いようのない軟弱さを糾弾する。北京の封鎖に怯え、開戦の決断すら下せず、国民を飢えと闇の中に放置する無能な指導者に、もはやこの島を導く資格はない。我々の目的は、この沈黙を破り、真の独立戦争を誘発することにある。総統が直ちに北京への反撃を開始しないのであれば、次は総統府そのものを灰にするだろう』
「……独立派だと?」
厳国防部長が吐き捨てるように言った。
「馬鹿げている。これは大陸の工作員による『偽旗作戦』だ。我々を内側から分裂させ、武力行使の口実を作るための……」
「わかっている!」
郭総統が激昂したように机を叩いた。
「だが、飢えと恐怖で正気を失いかけている国民に、これが偽物だと誰が証明できる? 」
窓のない地下室に、無力感という名の毒が広がっていく。 台北の街に立ち昇る黒煙は、物理的な破壊の跡であると同時に、台湾人が積み上げてきた「民主主義への信頼」が燃え尽きていく葬火でもあった。
203Y年2月16日 午後8時
台北市中正区
爆発の劫火が消えた後の台北は、完全な情報の闇と、疑心暗鬼の霧に覆われていた。街灯が死んだ通りでは、市民が持つ懐中電灯の光だけが、深海魚の眼光のように不気味に揺れている。
忠孝東路から一本入った暗い路地で、破滅的な怒りが沸点を超えた。
「待て! そのバッグの中身を見せろ!」
配給の列に並んでいたはずの群衆が、一人の男を取り囲んでいた。男は怯えた表情で後ずさりし、必死に首を振る。
「何もない、ただの着替えだ! 放してくれ!」
「嘘をつけ! さっきから無線機のようなものをいじっていただろう。お前、大陸の工作員か? それとも、さっきのテロを起こした独立派の狂信者か!」
誰かが男の襟首を掴み、地面に叩きつけた。数時間前の同時多発爆破テロで家族や友人を失い、あるいは「次は自分が死ぬ」という極限の恐怖に晒された人々に、もはや理性は残っていなかった。
「殺せ! こいつが仲間を呼んでいるんだ!」
「自白しろ! 爆弾はどこにある!」
殴打の音が暗闇に響き、男の悲鳴が夜の空気に溶けていく。一人が手を出せば、それは「正義」の名を借りた凄惨なリンチへと発展した。石が投げられ、誰かが持ち出した鉄パイプが男の肢体を打ち据える。 彼らにとって、目の前の男が「大陸の回し者」なのか「急進的な独立派」なのかはどうでもよかった。ただ、自分たちの日常を破壊した「悪」に実体を与え、それを物理的に排除することでしか、この窒息しそうな恐怖を処理できなかったのだ。
「……やめて! 警察を呼んで!」
通りかかった雨婷が悲鳴を上げるが、祐希は彼女の肩を強く抱き寄せ、路地から引き離した。
「ダメだ、雨婷! 今の彼らは人間じゃない、ただの暴力の塊だ。近づけば僕たちまで『協力者』にされる!」
その時、アスファルトを震わせる重厚なディーゼル音が響き、路地の入り口を強烈なサーチライトが照射した。
「中華民国憲兵(ROC MP)」の腕章を巻いた兵士たちが、CM-32「雲豹」装輪装甲車から飛び出してきた。
「全員離れろ! 武器を捨てろ!」
兵士たちはT91小銃を構えて怒号を上げる。催涙弾の白い煙が路地に広がり、狂乱した群衆を物理的に引き剥がしていく。
「離せ! 俺たちはテロリストを捕まえたんだぞ!」
抗議する市民を、若い憲兵が震える手で押し戻す。
「命令だ! 直ちに帰宅しろ! さもなければ拘束する!」
路面に転がされた男は、もはやピクリとも動かなかった。救急車は来ない。憲兵たちは動かない遺体を無造作にトラックへと放り込み、夜の闇へと消えていった。
午後9時
台北市中正区 総統府
午後九時。台北のすべての送電されている家庭のテレビ、そして電池の残ったスマートフォンの画面が、ある一つの映像を映し出し、あるいは携帯ラジオからその音声が流れ出た。
郭文耀総統は、数時間前までの困惑を脱ぎ捨てたかのような、死人のように冷徹な表情でカメラを見つめていた。その背後には、沈痛な面持ちの国防部長、内政部長、そして国家安全局長が並んでいた。
『国民諸君。本日、わが首都台北を襲った卑劣なテロ、そして各地で発生している不法な暴力行為により、わが国の法秩序は重大な危機に瀕している。敵の狙いは、わが国民を互いに疑わせ、内側から崩壊させることにある』
郭総統は一度、深く息を吐き、机上の書類に目を落とした。それは、民主国家の指導者が最も避けるべき、しかし生存のために残された唯一の劇薬だった。
『……私は中華民国総統として行政院の要請を受け、憲法第三十九条、および戒厳法第一条第二項に基づいて戒厳を宣布し、本日ただいま午後九時をもって、中華民国自由地区全土を『警戒地域』に指定する』
その瞬間、台湾の歴史は、民主化以来の数十年を遡り、再び「鉄の時代」へと突入した。
『この戒厳に基づき、警察または軍の許可なき五人以上の一切の集会・結社を禁止し、報道機関は国防部の管理下に置く。夜間外出禁止令を施行し、これに違反する者、あるいは社午後九時。台北のすべての送電されている家庭のテレビ、そして電池の残ったスマートフォンの画面が、ある一つの映像を映し出し、あるいは携帯ラジオからその音声が流れ出た。
郭文耀総統は、数時間前までの困惑を脱ぎ捨てたかのような、死人のように冷徹な表情でカメラを見つめていた。その背後には、沈痛な面持ちの国防部長、内政部長、そして国家安全局長が並んでいた。
『国民諸君。本日、わが首都台北を襲った卑劣なテロ、そして各地で発生している不法な暴力行為により、わが国の法秩序は重大な危機に瀕している。敵の狙いは、わが国民を互いに疑わせ、内側から崩壊させることにある』
郭総統は一度、深く息を吐き、机上の書類に目を落とした。それは、民主国家の指導者が最も避けるべき、しかし生存のために残された唯一の劇薬だった。
『……私は中華民国総統として行政院の要請を受け、憲法第三十九条、および戒厳法第一条第二項の規定に基づいて戒厳を宣布し、本日ただいま午後九時をもって、中華民国自由地区全土を『警戒地域』に指定する』
その瞬間、台湾の歴史は、民主化以来の数十年を遡り、再び「鉄の時代」へと突入した。
『戒厳法に基づき、警察または軍の許可なき五人以上の集会・結社を一切禁止し、報道機関は国防部の管理下に置く。夜間外出禁止令を施行し、これに違反する者、あるいは社会秩序を乱す者に対しては厳格に対処する。凶悪犯罪は、軍事裁判によって処断される。地方行政機関及び司法機関は、各地域の軍司令官の指揮下で業務を遂行する……同胞たちよ、今は耐えてほしい。この暗闇を突き抜けるために、私たちは法の名の下に、一つの鋼鉄とならねばならない』




