203Y年2月14日 台北
203Y年2月14日 中華民国/台湾 台北市大安区
偽りの放射能パニックが引き起こした南部の大混乱はようやく鎮静化に向かい始めていたが、都市を締め上げる物理的な「窒息」は解決の兆しを見せなかった。台北の街では依然として蛇口から水が出ることはなく、空気は埃と、風呂に入れない数百万人の体臭、そして焦燥感で濁っていた。
「……あと、五十人くらいかな。指の感覚がもうないよ」
大安森林公園の北側、建国南路に面した歩道。桜木祐希は、二十リットルの重いポリタンクを抱えて赤く腫れた指先をさすった。隣では雨婷が空のペットボトルを数本詰め込んだリュックを背負い、マークは泥水のような色をしたバケツを両手で提げて、一歩進んでは止まる、泥のように遅い行列の中にいた。
「二人とも、せっかく私たちの国に来てくれたのに、こんな目に遭わせて……。台湾人として、本当に申し訳ないわ」
雨婷が、ひび割れた唇を噛み締めながら呟く。行列の先には、深緑のデジタル迷彩が施された国軍の大型給水タンク車が鎮座していた。傍らに立つのは、緑の防弾チョッキを着込み、雨に濡れたT91小銃を背負った陸軍兵士だ。彼は無機質な動作で一人一人の「物資購入証」を確認し、太いホースから貴重な水を注ぎ込んでいた。その目は、市民を守る自負よりも、終わりの見えない疲労に塗り潰されていた。
「放射能のデマが消えても、喉が渇くのは変わらない。……それどころか、もっと悪い連中が街に溢れ出した」
マークが、忌々しげに顎で大通りを指した。大安森林公園に面した信義路。そこでは、真っ赤な旗を翻した「中華保衛党」の大規模なデモ隊が、車道の半分を占拠して行進していた。
「戦争反対! 無意味な抗戦を即刻中止せよ!」
「北京と和平協定を結べ! 一国二制度こそが台湾を救う唯一の道だ!」
「台湾の世論は和平を求めている!中華の同胞と殺し合うな!」
拡声器から流れる大音量のスローガンが、窓ガラスの割れたビルの谷間に反響する。デモ隊の中には、欠乏に疲れ果てた高齢者や、大陸に資産を持つビジネスマンだけでなく、明らかに組織立って動いている、剃り込みを入れた屈強な男たちが混じっていた。
「ふざけるな! 共産党の回し者め!」
歩道側から、独立派の若者たちが激しい怒声を浴びせる。彼らは青い「自由台湾」の旗を掲げ、封鎖によって未来を奪われた怒りをデモ隊にぶつけた。
「売国奴! 恥を知れ!」
一人の若者が、路上の瓦礫をデモ隊に向かって投げつけた。それを合図に、均衡は一瞬で崩れた。
「……始まった。二人とも、俺の後ろに隠れろ!」
祐希が叫ぶのと同時に、デモ隊の「防衛部隊」を自称する男たちが、鉄パイプを仕込んだ旗竿を振り回して若者たちに殴りかかった。その混乱の中心へ、台北市政府警察局のパトカーと、内政部警政署・保安警察第1総隊の大型輸送バスが甲高いサイレンを鳴らしながら突っ込んでくる。バスから飛び出したのは、黒いプロテクターに身を包んだ機動隊員たちだ。
「双方、離れろ! 直ちに解散せよ!」
隊員たちは、透明なポリカーボネート製の「抗暴盾牌」(防護盾)を隙間なく並べてスクラムを組み、乱闘を演じる両グループを物理的に引き剥がそうとする。隊員の腰には特殊警棒と、万が一の暴動に備えたオレンジ色の「FN 303非致死性ランチャー」が装備されていたが、降り注ぐ石や罵声の中で、その防壁はあまりにも脆く見えた。
「警察も限界だわ……。敵は海にいるだけじゃない。この街の、私たちの心の中に潜り込んでる」
雨婷が、盾に石が当たる硬い音を聞きながら、震える声で呟いた。給水車の列は騒乱で中断され、水を求めていた老婆が地面に這いつくばり、零れたわずかな水がアスファルトに黒いシミを作っていた。
混乱は、太陽が沈んだ後の夜、さらに深刻な形態へと変貌した。街灯が消え、静寂と闇に包まれた台北の路地裏。そこでは、中国大陸側から密かに資金援助を受けていると噂される暴力団組織「竹聯幇」系末端の犯罪組織が活動を活発化させていた。彼らは混乱に乗じ、商店への恐喝や、物資を隠し持っているとされる一般家庭への強盗を繰り返していた。
「……おい、止まれ! 警察だ!」
深夜、信義区の食料品店近く。パトロール中の二人の警察官が、バールを手にした数人の男たちを発見した。男たちは、安価な中国「ノリンコ」社製と思われる拳銃を躊躇なく引き抜いた。
乾いた銃声が夜の台北に響き渡る。警察官も反射的に、S&W M&P拳銃をホルスターから抜いて応射。闇の中、オレンジ色のマズルフラッシュが何度も明滅し、跳弾がシャッターに当たって火花を散らす。
「応援を呼べ! 相手は完全武装だ!」
無線機から悲鳴のような要請が流れるが、市内の至る所で発生する「暴動」と「犯罪」の対応に追われ、応援の到着は絶望的に遅かった。結局、犯人グループは闇に消え、路上には血を流して倒れる警察官一人と、懸命に応急止血処置を行う相方、それに奪われた食料の空き箱だけが残された。
デモの叫び声、警察車両のサイレン、そして路地裏の銃声。台湾の法と秩序は、本格的な軍事侵攻が始まる前に、内側からボロボロに引き裂かれようとしていた。祐希たちは、大学のラボの硬い床で、遠くから聞こえる不気味な震動を感じながら、一睡もできない夜を過ごしていた。




