203Y年2月12日 屏東
203Y年2月12日
中華民国/台湾 屏東県 恒春鎮 台湾電力第三核能発電所(第三原発)
台湾南端、南湾の真っ青な海を抱くようにそびえる馬鞍山。その麓に位置する第三核能発電所は、背後に迫る猫鼻頭の荒々しい隆起サンゴ礁と、エメラルドグリーンの海という絶景の中に、不釣り合いな二基の巨大なコンクリート製ドームを突き出していた。三月初旬、この地特有の強烈な下ろし風「落山風」が、原発の頑強な防潮堤に叩きつけられ、不気味な咆哮を上げている。
海上封鎖によってLNGと石油の新規供給が途絶し、全島のエネルギー供給が風前の灯火となる中、折よくも数ヶ月前に再稼働を果たしたばかりの米国製加圧水型原子炉である2号機は、島南部の電力を支える最後の「心臓」として、ウラン二百三十五の核分裂連鎖反応が生み出す膨大な熱量を、毎時九十五万キロワットの電気へと変え続けていた。
午前十時十四分。平穏を保っていた中央制御室の空気が突如として裂けた。
「二号機、給水ポンプA・Bが共にトリップ! 蒸気発生器水位、急激に低下しています!」
若手運転員の叫び声に、当直長が計器板へ飛びつく。本来、給水が止まれば原子炉緊急停止が自動でかかり、制御棒が重力で落下して核反応を止めるはずだった。
「バカな、インターロックが作動していないぞ! 制御棒の全挿入を確認しろ!」
「ダメです、中性子束が下がらない……インターロックが無効化されています! 手動での補助給水系起動も、コンピュータ制御系がコマンドを拒否! 制御不能です!」
計器板に並ぶ無数のデジタル・インジケーターが、まるで血を流すように、禍々しい赤色に染まっていく。数年前から「台電」の基幹ネットワークの深淵に潜伏していた標的型マルウェアが、海峡の向こう側からの秘密の信号を受けて一斉に起動したのだ。そのコードは、冷却システムの|プログラマブルロジックコントローラ《P L C》のファームウェアを奥深くから侵食し、破滅への歩みを進めていた。
冷却システムの一部が逆作動を起こし、炉心を冷却すべき水が、本来閉じるべきバルブから凄まじい圧力で排出されていく。モニターに映る「炉心水位」のグラフは、まるで断崖絶壁を転げ落ちるように、危険水域へと向かって下降し始めた。
「……冗談じゃない! このままじゃ、早ければあと二時間で水位が有効燃料頂部到達……燃料が露出し、その数時間後には炉心溶融が始まるぞ!」
当直長は、喉の奥から絞り出すような声で呟いた。脳裏には、溶け落ちた核燃料が格納容器の底を食い破り、美しい南湾の海を死の海に変え、死の灰が「落山風」に乗って高雄、そして台北へと北上する地獄絵図が浮かんでいた。
その時、台北松山空軍基地を飛び立った中華民国空軍の中型輸送ヘリコプターUH-60M「ブラックホーク」が、中国海軍艦の対空レーダーを避けるため、屏東の複雑な海岸線をなめるような超低空飛行で駆け抜けていた。機内に詰め込まれていたのは、台湾が誇る精鋭サイバー戦部隊、国防部参謀本部|資通電軍指揮部《I C E F C O M》の技術要員たちだ。
「いいか、相手は数年かけてパッチを回避し、システムの中核階層から書き換えている。まるで神経系に張り付いた寄生虫だ」
ICEFCOMの陳《チェン》海軍少校が、耳を打つ激しいローター音の中でタフブックを操作しながら怒鳴る。
「論理的に削除する時間はない! ネットワークを物理的に遮断した上で、クリーンなバックアップ・ファームウェアでシステムを強制上書きする。一秒でも遅れれば、この島は八十年かけて築いたすべてを失い、居住不可能な死の地と化すぞ!」
ヘリから飛び降り、そのまま制御室へと雪崩れ込んだICEFCOMと、絶望の淵にいた原発運転員たちの戦いは熾烈を極めた。陳たちは、ジャミングの影響を受けない光ファイバーケーブルを端末に直接接続し、マルウェアに侵食されたネットワークへの「外科手術」を開始した。
「マルウェアがバックアップの挿入を検知、自己増殖を開始! ……くそっ、認証プロセスが無限ループに陥っている!」
「論理爆弾が仕掛けられているぞ、デッドマンズ・スイッチを解除しろ! 」
「特権アクセスコード」を強制挿入しろ、台電本社の緊急用の『鍵』を使うんだ!」
キーボードを叩く指先が、極限の緊張による汗で滑る。モニターには、炉心温度が千度を超えたことを示す警告サインが激しく点滅している。水位は既に燃料棒の上端を舐める位置まで低下し、燃料被覆管のジルコニウムが水蒸気と反応し、爆発性の水素を生成し始める寸前だった。
「……今だ! パッチ適用、全系再起動!」
瞬間、制御室のすべてのモニターが一度暗転し、直後に眩い緑色のシステム正常値が蘇った。
「冷却系、再起動を確認! 補助給水ポンプ、回り始めました! 水位、上昇を開始!」
地響きのような歓喜の声が上がる中、陳だけは顔色を失ったままだった。
「……遅かったか」
彼の視線の先にあるモニターの片隅で、通信パケットのログが不気味に流れていた。システムが復旧する直前のコンマ数秒、僅かな「隙間」を縫って、炉心の損傷状態とシステムの脆弱性を示す機密データが、暗号化されて外部へ発信されていたのだ。




