203Y年2月11日 台北
203Y年2月11日
中華民国/台湾 台北市
封鎖7日目、台湾を包囲する「鋼鉄の鎖」がその輪を一段と引き締めた。計画停電と通信途絶に耐え忍んでいた市民に、決定的な追い打ちがかけられた。午前三時過ぎ、二百五十万人が住む台北市の水道供給を司る台北自来水事業処の管理システムに対し、データの復旧を不可能にする破壊型マルウェア(ワイパーマルウェア)による高烈度のサイバー攻撃が敢行された。
「蛇口から出るのは、乾いた空気の音だけかよ……」
台北市内の集合住宅で、桜木祐希は力なく呟いた。台湾の水道水は平時でも直接飲用には適さず、煮沸やフィルター浄化、あるいは民間店舗での飲用水購入が一般的である。しかし、その浄化するもともとの水が来なければどうしようもない。コンビニやスーパーの飲料水在庫は数日で底を突く見込みであり、市民は国軍などが派遣予定の給水車に頼るほかないだろう。
凍てつく冬の雨の中、一滴の水を求めてバケツを抱えた人々が長蛇の列を作る光景は、戦時下の絶望を象徴していた。停電、断水、そして情報の遮断。この「三重苦」が、強靭さを誇った台北市民の精神を、確実に、そして冷酷に削り取っていった 。
その頃、大陸を経由して流れてくる限定的な通信回廊からは、国際社会の結束が根底から揺らいでいることを示す不穏な情報が伝わっていた 。
カンボジア、ラオス、パキスタン、セルビア、ハンガリー、エチオピアといった、中国との結びつきが強い一部の国家が、北京の要求した、大陸における「二週間の隔離検疫」を事実上受け入れる動きを見せ始めたのである 。これらの国々は、自国民の安全確保を最優先に掲げ、中国政府の許可を得た上で「救出チャーター機」を派遣するための実務調整を始めると発表した。
対照的に、日米両政府はこの屈辱的な条件を飲むことを躊躇っていた。北京はこれを見越したように、さらに狡猾なシグナルを発信し続けた 。
「日米の旅客の中には、台湾独立勢力を扇動するスパイやテロリストが潜伏している可能性がある。そのため、日米人旅客については隔離期間中、厳重な取調の対象とする」
実際には、国家主権を侵害される台湾政府がこれらのチャーター機の着陸を認めていないため、飛行機が飛んでくることはなかった。しかし、大陸側は執拗に「国際社会は北京の正当な防疫措置を認めつつある」「日米の強硬姿勢が自国民を危険に晒している」という偽情報を拡散し続けた。
「世界は僕たちを見捨てようとしているのか……?」
国立台湾大学のラボで、マークはノイズに埋もれたモニターを見つめたまま立ち尽くしていた。日米の足並みの乱れを示すニュースの断片は、孤立無援の恐怖となって、窒息しつつある島に染み渡っていった 。
中華民国/台湾 台北市士林区 国家安全局
台北北郊の陽明山、敵の攻撃下でも業務を継続できるよう、地下深くの岩盤をくり抜いて築かれたNSB本部の戦時指揮所は、外界の騒乱を拒絶するような重苦しい沈黙と、サーバーラックが吐き出す排熱の匂いに満ちていた。壁面の巨大なモニターには、台湾全土を包囲する電磁波の強度が赤黒いノイズとして表示されている。
「局長、中央山脈の通信アンテナを経由した、ワシントンおよび東京との政府間回線、かろうじて維持しています。ですが、帯域は平時の〇.〇一%以下……文字通りの『針の穴』です」
通信担当のオペレーターの報告に、蔡隆元局長は深く刻まれた眉間の皺を指でなぞった。海上からの中国海軍による強力な広帯域ジャミングは、沿岸部から外界へ連絡を取ろうとする試みを完全に粉砕していた。唯一の希望は、海上の妨害電波源から離れて影響を受けにくい山岳地帯の通信施設だった。そこでは、総統命令によって召集された数千人の陸軍予備役部隊が、鉄条網と機関銃でアンテナを何重にも取り囲み、国家の「最後の神経」を物理的に守り抜いていた。
「この細いパイプに、極秘の外交公電と軍事情報を詰め込むだけで精一杯だ。しかもテキストと画質の粗い静止画だけで、動画は送れない。そもそもが要秘匿性の高い軍用周波数と来た上に、民間人に一ビットたりとも開放する余裕はない……」
蔡局長が呟いたその時、台湾地区の防諜保安工作を担当する第三処の責任者が顔を上げた。
「局長、国内に潜伏している工作員による電波妨害装置の摘発報告です。本日、台北市新店区の廃墟となった雑居ビルと、南港区の古い民家から、中国製の小型ジャミング装置を計四機押収しました。警察が踏み込んだ際には既に無人であり、下手に中身を開こうとするとデータが破壊される可能性が高いため解析も難航していますが、これだけ長時間、沿岸から距離のある地域を含めた広範囲で通信障害が続くのはこうした装置のせいでもあるでしょう。他にも無許可の電波源は台湾全土で確認されています。敵は外からだけでなく、我々の喉元からも声を奪おうとしています」
「……我々の言葉を、世界に届けなければならない。さもなければ、この島は沈黙の中で消えてしまう」
台北市大安区 国立台湾大学
NTU電機資訊学院《E E C S》の一角にある研究室では、懇意の教授に設備を貸してもらったマークが、不規則に明滅するモニター群を前に、血走った目でキーボードを叩き続けていた。
「くそっ、何なんだよ、この周波数の動きは……!」
マークは、スカイX社の「スターネット」地上端末を改造し、アメリカの家族にビデオ通話アプリをつないでSOSを送ろうと試行錯誤を繰り返していた。だが、本来なら妨害を回避して自動的に周波数を変更するはずの「周波数ホッピング」機能が、まるで外部から強制的にロックされているかのように機能していなかった。
サンノゼでデビッド・ミラーがウォンに渡した「マスターキー」の影響など、彼は知る由もない。だが、民間人として到達できる技術の限界を超えた、圧倒的な「悪意」が通信網の深淵に潜んでいることを、彼は本能的に察知していた。
ちなみに仮にマークが周波数妨害を乗り越えたとしても、当初使おうとしていた、中国資本も経営に参画し中国大陸の支社が全世界のシステムへのアクセス権を得ている大手のビデオ通話アプリならば、台湾島内からの発信は、これまた数か月前に密かに埋め込まれた検閲プログラムによって遮断されていただろう。
「祐希、見てくれ。このラボの機材を使っても、ノイズの壁を一枚も突き崩せない。俺たちは今、世界から完全に『無視』されているんだ。電波は空に向かって飛んでいるはずなのに、虚空で全部吸い込まれているような感覚だ」
マークの傍らで、祐希は窓の外を眺めていた。計画停電で明かりの消えた大学の向こう側、台北の街並みは、深い闇の中に沈んでいた。 家族への短いメール一通さえ送ることができない。デジタルの血流が止まったこの街で、自分たちはただ、情報の「窒息」を待つだけの囚人のように思えた。




