203Y年2月9日 台北
2月9日
中華民国/台湾 台北市大安区
台北を包む湿った霧雨は、「計画停電」という冷酷な現実をさらに重く塗り潰していた。
国立台湾大学近く、いつもは深夜まで学生たちの笑い声が絶えない公館の商店街は、まるで生気を抜かれた死体のように静まり返っていた。信号機は消灯し、交差点では警察官が手旗を振り、混乱するスクーターの群れを必死に捌いている。その背後で、時折、緊急車両のサイレンだけが鋭く鼓膜を突いた。
「……また、始まった」
祐希は、手にしたスマートフォンの画面の右上が「圏外」と「ネットワーク検索中」という点滅を繰り返すのを眺め、深く溜息をついた。このエリアが今日の「第一陣」の計画停電対象であることは昨晩のラジオで知っていたが、実際に電力が断たれた瞬間の、都市が吐き出す「沈黙」にはどうしても慣れそうになかった。
「祐希、急いで。全聯の列、もう二つ向こうの角まで伸びてる」
雨婷が、厚手のコートの襟を立てながら祐希の袖をそっと引いた。彼女の手には、「中華民国国民身分証」と、緊急命令によって配布が始まったばかりの「生活物資購入証」が握りしめられている。隣を歩くマークは、バックパックに詰めた予備バッテリーの重さに顔をしかめながら、電気が消えたコンビニのウィンドウを忌々しげに睨みつけていた。祐希とマークも、外僑居留証をポケットに握りしめている。
スーパーの入り口には、カーキ色の制服に身を包み、腰に黒光りする自動拳銃をぶら下げた憲兵が二人、鋭い眼光を光らせて立っていた。自動ドアは手動で開け放たれ、薄暗い店内からは、苛立ちと不安が混じり合った異様な熱気が漏れ出してくる。
「……お一人様、即席麺は二袋まで。米は五キロ一袋、卵は一パックのみです! 身分証を提示してください!」
店員の、叫ぶような声が店内に響く。陳列棚の半分以上は既に空で、残っているのは見たこともないメーカーの乾麺や、賞味期限の怪しい缶詰だけだった。
「キャッシュレス決済が使えないなんて、冗談だろ」
マークが、レジ前で現金を数える老婆を眺めて吐き捨てた。
「ネットワークが死んでるから、クレジットカードも悠遊カード(交通系ICカード)もただのプラスチックだ。……祐希、入学したとき両替した現金まだあるか?」
「ああ。でも、この物価じゃいつまで持つか……」
祐希は、棚に貼られた「価格統制」の赤い紙を見つめた。経済部が生活必需物資の上限価格を設定し、違反者は刑事罰に処すると警告しているとはいえ、闇市では十倍の値段がついているという噂がある。
レジの列は遅々として進まない。前の男が「なぜ二袋しか買えないんだ! 家族が五人いるんだぞ!」と店員に詰め寄っていたが、憲兵が割って入ると、男は力なく項垂れて店を後にした。その背中は、数日前までの活気に満ちた台北市民のそれではなく、ただ「窒息」に耐えるだけの、無機質な影のようだった。
「雨婷、大丈夫?」
祐希が、震える彼女の肩に優しく手を置いた。雨婷は、手に持った僅かばかりの食料品を見つめ、声を押し殺して答えた。
「……ひいおじいちゃんに戦争中の話を聞いたことはあるわ。でも、まさか私たちの世代で、電気が消えて、食べ物を買うのに身分証を見せる日が来るなんて、想像もしなかった」
店を出ると、街はさらに暗さを増している。ビルの窓はどれも黒い穴のように口を開け、時折聞こえるポータブル発電機の不規則な振動音が、かえってこの「封鎖」の絶望感を際立たせていた。
街角のゴミ集積所には、回収の目途が立たない廃棄物の山が積み上がっている。台北の街を包む空気は、もはや湿り気だけではなく、饐えた焦燥の匂いを含んでいた。
店を出て、僅かばかりの通電時間に繋がったSNSを開いた瞬間、マークが絶句した。
「……おい、これを見ろ。LINEのグループチャットが、これ一色だ」
画面には、国営の中央通信社のロゴが入り、「機密」という赤い文字のスタンプが押された書類の断片が映し出されていた。
『政府が隠蔽した世論調査結果:台湾人の71.4%が中国との一国二制度による和平協定を支持』
さらに、CNA社員による内部告発と称するメッセージが、まことしやかな「証拠」として拡散されていた。
「私はもう、沈黙を守ることに耐えられません。政府は『抗戦』を叫んでいますが、国民の本音は違います。台北が焦土になる前に、大陸と手を取るべきだと皆が思っています。この調査結果は、総統府の命令で昨日、シュレッダーにかけられるはずだったものです……」
「7割が和平を望んでる……? 嘘だろ、そんなはずがない」
祐希は否定しようとしたが、雨婷の指は震えていた。
「でも、祐希、見て。これ、CNAの公式フォントだし、署名も本物の編集局長のものに見える。それに……みんな信じ始めてる。コメント欄を見て。『私たちは騙されていた』『もう抵抗はやめよう』って……」
「他に流れてくるのは『誰かが逃げた』か『誰かが死んだ』という話ばかりだ」
祐希は、手元の冷え切った缶コーヒーを見つめた。配給で手に入れた貴重な一本だが、味などわからなかった。
「……何が本当で、何が嘘か。それを確かめるための『窓』さえ、北京に塗り潰されているんだ」
雨婷は、膝を抱えて窓の外の沈黙した街を見つめていた。
「政府で働いてるお父さんからずっと連絡がないの。政府の中も、きっと外と同じくらい……いいえ、もっと混乱しているはず」
台北市中正区 経済部
雨婷の言葉通り、中正区福州街に位置する行政院経済部の本庁舎内はこの日一日中、かつてない「原始時代」へと退行していた。
「ネットワークを切り離せ! 急げ!」
経済部の事務次官は、怒鳴り声とともに真っ暗な廊下を走った。
経済部の内部ネットワークは、大陸側のハッカー集団による執拗なAPT攻撃に晒されていた。単なる外部向けウェブサイトの改竄に留まらず、公文書管理システムがランサムウェアによって完全に暗号化され、機能を停止したのだ。
昨日まで、指示を入力すれば数秒で全島の燃料在庫、電力需給や物資の流通状況を叩き出していたモニター群は、今や冷たいノイズを吐き出すだけの粗大ゴミと化していた。
「新北市淡水区の配給統制センターから伝令が来ました! 石油備蓄基地で、システム上の在庫と実在庫が合わないと……何者かがデータベースを書き換えた可能性があります!」
本来であれば最新のAIが瞬時に最適解を出すはずの、デジタル国家台湾における経済統制業務。しかし今、この国のエリート官僚たちが頼りにしているのは、暗闇の中でペンを走らせる「手書きの伝令」だった。
「これを……これをただちに国防部へ届けろ。これは内政部!自転車を使え。車は燃料がもったいない!」
経済部の若手職員が、墨汁を零したような真っ黒な文字で「石油配給停止の警告」と書かれた紙片を握りしめ、非常階段を駆け下りていく。
国家の命運を分ける情報のやり取りが、光ファイバーではなく、一人一人の若者の足と、古びた自転車のタイヤに託されている。それはあまりに滑稽で、同時に、喉元を締め上げられるような絶望的な光景だった。
政府機関の公式サイトに掲げられた「偽の降伏勧告」は、デジタル空間を漂う亡霊のように国民の不安を煽り続けている。
内側からはシステムの心肺停止。外側からは情報の毒。
台北の心臓部で、巨大な行政機構が、音を立てて崩壊しようとしていた。
「……誰かが、外に伝えてくれ。私たちが、まだここで呼吸していることを」
書類の山に埋もれた老職員が、誰に届くともしれない呟きを漏らした。その手元にあるのは、もはや意味をなさない「デジタル経済」の報告書と、震える手で書かれた一通の「物資要請」の紙片だけだった。




