203Y年2月4日 台北
2月4日
中華民国/台湾 台北市中正区 総統府
時間を少しさかのぼる。正午に北京から発信された衝撃的な発表からおよそ十二時間の夜更け。総統府地下、冷たいコンクリートに囲まれ、至近距離での核爆発にも耐えられる指揮センターの空気は、排出の追いつかない熱気と、焦燥という名の毒素で濁っていた。円卓を囲む閣僚たちの顔は、モニターが放つ青白い光に照らされ、深い陰影を刻んでいる。
国家安全局の蔡隆元局長が、掠れた声で沈黙を破った。
「……今回の北京の動きは、従来想定されていた、海峡を超える着上陸侵攻作戦を超越しています。彼らの狙いは、軍事力による直接的な征服ではなく、海上封鎖による兵糧攻めと、我が国の社会システムの麻痺による『強制的平和統一』、平たく言えば、我々が自ら膝を屈するまで首を絞め続けるつもりです」
蔡局長は、解像度の低い衛星画像を指し示した。
「しかし、甘い観測は禁物です。福建省沿岸では依然、第七十二、七十三集団軍の精鋭数万が完璧な待機態勢を整えている。封鎖によって我々の内側が腐り、抗戦の意志が崩れた瞬間、彼らは空と海から一挙に雪崩れ込んでくるでしょう。これは、研ぎ澄まされた刃を喉元に突きつけたまま行われる、史上最大規模の『絞殺刑』なのです」
外交部長の林瑞隆が、溜息混じりに手元の多目的端末を置いた。
「外交ルートも、事実上の壊滅状態です。交流協会事務所と東京の外務省とは、通信障害により文字通り『糸電話』程度の連絡しかできていないそうです。日本政府は与那国島での『琉球共和国』騒動と核恫喝に完全に腰が引けている。台湾救援を議論する余裕など、今の彼らにはないのが実情です」
「アメリカはどうした。第七艦隊は動いているはずだろう」
郭総統の問いに、林部長は首を横に振った。
「軍の一部、特に横須賀やグアムの部隊は出港を確認していますが、肝心のホワイトハウスが沈黙しています。ポーカー大統領は依然として、西半球から遠く離れた海外への大規模軍事介入に対して極めて消極的な姿勢を崩していない。セキュアな通信が繋がる数少ない時間帯も、ワシントンからの返答は『状況を注視している』『検討中である』という定型文の繰り返しです。我々は今、文字通り世界から切り離された『情報の牢獄』に閉じ込められています」
その言葉を遮るように、厳大維国防部長が力強く円卓を叩いた。
「座して死を待つなど、国軍の辞書にはない! 敵の狙いが『窒息』にあるなら、その喉首をこちらから食いちぎるまでです」
厳部長は、最新の兵力配置図をモニターに展開させた。
「提案します。台湾を包囲している中共軍に対し、総攻撃を敢行すべきです。陸軍の『雄風』地対艦ミサイル部隊、海軍の沱江級高速ミサイル艦、潜水艦部隊、空軍の戦闘機部隊による空対艦ミサイル攻撃により、高雄、基隆、花蓮港、そして金門島への補給路を封鎖して妨害電波を発信する敵艦船を撃沈します。我が国領空ラインに滞空して衛星通信への妨害電波を発信している敵のドローンや高高度気球も全て撃墜します。シーレーンを力ずくで啓開する。国軍には、この封鎖を突破し、抗戦を継続するだけの準備があります」
「更に、中共軍の地上部隊による台湾への着上陸侵攻を阻止する作戦も展開します。まず大陸沿岸部に集結する中共軍の補給拠点や飛行場、港湾を、長距離ミサイル火力によって先制攻撃し、我が国への侵攻を阻止します。同時に国内では予備役を総動員し、上陸適地と想定される台湾海峡沿岸の『紅色海岸』二十か所を地雷などの障害物で埋め尽くし、沖合には機雷を敷設。全国の都市や山間部にも防御施設を構築し、中共軍が上陸しても地獄のような犠牲を強いる態勢を完備します。総統、このまま手をこまねいては、台湾は一切の補給を断たれて窒息し、自己防衛もままならくなる。引き金を引くなら、今しかありません」
厳部長の鋭い眼光が郭総統に向けられる。
この開戦論に対し、謝経済部長が、まるで冷水を浴びせかけるような低い声で応じた。
「……国防部長。お言葉ですが、我々が先に引き金を引いて、果たして本当に勝算があるとお考えか。短期的には、あなたの仰る通り封鎖を打ち破り、上陸部隊に多大な損害を与えられるでしょう。しかし、大陸の人口は我々の六十倍!軍の継戦能力を含む国力にも極めて大きな差がある。台湾単独での長期戦に勝ち目はありません。日米の軍事介入という確約がないまま、我々の少なくとも十倍の兵力を擁する人民解放軍と正面からぶつかれば、それは自衛ではなく自死に等しい。台湾が先に火蓋を切れば、北京に、台湾側こそが戦争を始めたという大義名分を手渡すことになります。それはまさに、彼らの術中にはまる愚の骨頂だ」
謝部長は震える手でタブレットの資料を円卓に投影した。
「現実を見てください。我が国の石油、そして発電の生命線である液化天然ガスの備蓄は、平時の消費量でいけば、あと二週間分しかありません。食料も民間備蓄を含めて早晩底を突く。封鎖がこのまま続けば、弾丸が放たれる前に、この国は飢えと闇に沈むのです。軍事的なギャンブルに打って出る前に、大陸側との対話の窓口を模索し、この『防疫』という名の封鎖を解かせるのが先決ではないか」
「お言葉ですが経済部長、大陸を甘く見すぎている。海上封鎖と、日本領土の武力占拠という決定的な一歩を踏み出した大陸が、単なる対話で引くとは考えられません。必ず、我々の主権と自由を明け渡すよう強硬に求めてくるでしょう!」
蔡NSB局長が叫んだ。
「……通信状況はどうなっているんだ。世界に助けを求めるにせよ、大陸と交渉するにせよ、それが不可欠だ」
郭総統の問いに、数位発展部長(デジタル発展大臣)が発言を答える。
「極めて悪いです。太平洋及び南シナ海側の海底ケーブルはすべて切断されました。現在、艦船や大陸沿岸、上空の無人機や気球から放射されている広帯域電波妨害は極めて強力であり、妨害電波源に近い我が国沿岸部では一般の衛星通信もほぼ機能していません。妨害に極めて強くウクライナ戦争でも活躍した『スターネット』ですら通じません。辛うじて、内陸山間部のごく狭いエリアでは、一部の帯域や時間で通信は可能なようですが、その品質は平時とは比ぶべくもなく、テキスト通信がやっとで、動画ファイルなどはほとんど送れません。我々は今、外部との接触を検閲済みの限定的な大陸回廊のみに依存させられる、デジタル籠城を強いられているのです」
「国内の通信も、沿岸部では通じにくい状況です。特に軍用無線や警察無線は執拗に妨害を受けています」
内政部長もまた、憔悴した表情で続けた。
「治安も不穏です。物資の買い占めによるパニックに加え、SNSでは『政府が米軍を呼ぶために危機を捏造した』という偽情報が拡散されています。各地で親中派と独立派の市民が衝突し、警察の手に負えない規模の暴動に発展しかねない。国民の不安は頂点に達しています」
蔡局長が決然とした表情で口を開く。
「……皆さん。私は長きにわたり、大陸地区情報工作という『深淵』を覗き続けてきました。チベット、新疆ウイグル自治区、そして香港。中国共産党という怪物が、一度飲み込んだ大地と、そこに生きる人々の魂をいかにして作り変えるのか。おそらく私は、この場にいる誰よりも深く、その絶望を知っています。彼らがもたらすのは『平和』ではありません。それは、異論を許さぬ墓場のような静寂です。台湾を、あの暗黒の連鎖の終着駅にさせるわけにはいかない」
「私の娘は、今この瞬間も台北の大学にいます。彼女は外交官を志し、国際関係学を学び、国籍を超えた友人たちと未来を語り合っていました。世界を、台湾のように誰もが自分なりの幸せを呼吸できる、自由で透明な場所にしたい。そう語る彼女の瞳は、希望という名の翼を広げていました。父親として、彼女を戦火に晒したくないのは当然です。心を引き裂かれる思いだ」
「だが、もっと恐ろしいことがある。それは、彼女の広げた翼がむしり取られ、ただ一言、言葉を誤っただけで『再教育施設』という名の精神の死へ送り込まれる恐怖。それに怯えながら、色のない余生を過ごせと娘に強いることです。それは、父親として、死よりも耐え難い屈辱だ」
「皆さんにも、守るべきお子さんや、愛すべきお孫さんがいらっしゃるでしょう。我々二千三百万の台湾国民が今、守ろうとしているのは単なる領土や政府ではない。それは、子供たちが明日、何を夢見ても許されるという『自由という名の聖域』なのです。膝を屈して生きることは、魂の死を意味する」
会議室は、重苦しい沈黙に包まれた。主座の郭文耀総統は、組んだ指の節々が白くなるほど力を込め、目を閉じていた。どんな道を選んでも、奈落へと通じているように思えた。
数分後、郭総統はゆっくりと目を開き、断固とした口調で命じた。
「……まず国防部長。ただちに全軍に予備役の総動員令を発出し、国軍を最高度の警戒態勢に置け。国家の主権を脅かすいかなる挑発にも、即応できる体制を整えるのだ」
「了解いたしました」
厳部長が短く、しかし重く応じた。
「だが」
郭総統は制止するように手を上げた。
「国民の自由を根底から縛る『戒厳令』の布告は、今は見送る。これ以上のパニックと社会の分断は、北京の思う壺だ。……代わりに、私はこの後国民に向けて『国家非常事態宣言』を発する。そして憲法増修条文第二条第三項に基づき、直ちに『緊急命令』を発出する」
郭総統は謝部長を鋭く見据えた。
「この緊急命令により、島内のエネルギー需給を完全統制し、食料や医薬品の価格統制、政府による流通管理を導入する。謝部長、経済部は直ちに具体的な統制計画を策定せよ。我々は、この『窒息』のプロセスを耐え抜かねばならない。日米が動くか、あるいは世界が北京の欺瞞に気づくまでの時間を、我々自身の力で稼ぐのだ」
総統の言葉は、会議室の冷たい空気を震わせた。それは、独立主権国家・中華民国台湾としての最後の意地と、あまりに細い希望に縋る悲壮な宣言だった。外では、台北の空を覆うジャミングの静寂が、嵐の前の静けさのように重く垂れ込めていた。




