203Y年2月8日 東京
2月8日
日本 東京都
「中国当局がまた、税関での輸出検査を遅らせています」
虎ノ門のオフィスビルで、中年の商社マンがため息をついた。
「商務部の輸出禁止リストに追加された軍用規格品が混ざっていないか、貨物を全数検査するそうです。うちが扱うのは量販店で売るカジュアル衣料品ですよ!まるで無茶苦茶です」
「船舶保険料の上昇分だけでも赤字寸前なのに、こんなことではうちの中国事業もいよいよ年貢の納め時ですな」
中国と台湾、日米欧にまたがる国境を越えたサプライチェーンが切断され、算定不能なほどの経済損失が予測されるとして、ロシアによるウクライナ侵略以来、ビジネス界や経済官庁でも危機感を強めてきた「台湾有事」。それが現実になった時、世界経済はいかなる反応を示したか。
ニューヨーク、ロンドン、そして東京。世界の金融センターでは、中国政府の「隔離」声明後直ちに、または現地時間でこの事件後初めての取引開始と同時に、歴史的なパニックが始まった。
台湾積体電路製造からの半導体供給途絶、という、現代文明における最大級の悪夢が、確実な未来としてマーケットに突きつけられたからだ。NASDAQ指数は数分でサーキットブレーカーが作動し、東京株式市場でもハイテク株を中心とした日経平均株価の暴落が止まらない。投資家たちは、スマートフォンからAIサーバー、電気自動車に至るまで、現代社会を駆動するすべての「脳」が失われる恐怖に、文字通りパニックへと陥っていた。
実際のところ、世界の半導体在庫は今すぐゼロになるわけではない。主要なデバイスメーカーや自動車企業は、二〇二〇年代から続く「経済安全保障」ブームによって高まった警戒心が幸いし、緊迫する事態を前に数カ月分の備蓄を確保しており、物理的な製品が市場から消えるまでには一定の猶予があった。しかし、経済の本質は心理である。「数カ月に及ぶ封鎖が続けば、在庫は確実に枯渇し、再開の見込みはない」という予見は、瞬時に現物の買い占めと価格の高騰を引き起こした。昨日まで一個数ドルの汎用チップが十倍の価格で非公式に取引され、最先端のAIチップに至っては、もはや価格がつかないという異常事態に陥っていた。
この地獄の中で、各国は必死の代替案を模索し始めた。韓国・京畿道平沢市のサムスン電子や、日本の北海道千歳市でようやく稼働を開始したRapidusの先端半導体生産工場には、各国政府から極秘の緊急増産要請が殺到した。しかし、最先端露光装置を駆使するナノメートル単位の極微細加工は、一朝一夕にラインを切り替えられるものではない。依然台湾が世界シェアの九割程度を占める「五ナノメートル以下」の最先端ロジック半導体の空白は、他のどの工場をフル稼働させても埋め合わせられない。
世界は、自分たちがどれほど脆いバランスの上に文明を築いていたかを、あまりにも残酷な形で突きつけられた。半導体価格の高止まりが長引けば、インフレという名の暴力となってグローバルサウスを直撃し、生活必需品の供給網を寸断し、やがてそれは各地での暴動という名の火種へと変わっていくだろう。台湾の窒息は、単なる一海域の紛争ではなく、世界経済の心停止へと直結するカウントダウンを開始させたのである。
当然、欧米日をはじめ多くの国では、中国への猛批判、即時封鎖解除を要求する声が巻き起こる。しかし一部には、台湾が早く中国の要求に従えば半導体供給はすぐに再開されるはずだ、戦争になれば供給途絶は長引くだけだ、といった論調も出現した。そうした意見は万単位のボットに機械的にリポストされ、インターネットの広大な海へと広がっていった。
世界経済という巨大な歯車は、悲鳴を上げながらもいびつな形で回り続けていた。そこには物理的な戦場とは異なる、冷酷で複雑な「相互依存の罠」が横たわっていた。
日米欧の指導者たちは、連日のように緊急首脳会議を重ね、対中制裁の旗を高く掲げた。しかし、その内実は、世界経済の破滅を回避しようとする必死の綱渡りであった。
発表された制裁措置は、極めて限定的な範囲に留められた。
軍用品や、一定以上のスペックを持つ軍民両用品とみなされた最先端の半導体や精密加工機械、航空機部品の対中輸出は即座に停止され、封鎖に関与しているとされる人民解放軍幹部らの海外資産は凍結、閣僚級および軍関係者の入国禁止措置も発動された。中国も対抗し、日米欧に対して同様の措置を発動した。
しかし、かつてロシアに対して行われたように、中国金融機関を国際銀行間通信協会から排除するという「金融の核兵器」に踏み切る勇気は、今の西側諸国にはなかった。中国という巨大な市場と製造拠点を世界金融システムから完全に切り離せば、欧米日の実体経済もまた、瞬時に連鎖倒産とハイパーインフレの奈落へ突き落とされることが明白だったからである。
台湾海峡を大きく迂回し、船舶はフィリピン海を北上して、東京、大阪、そして上海や寧波の港へと向かっていた。
驚くべきことに、日中間においても、一般の貿易を全面的に禁止するような措置は取られなかった。 確かに、観光客の姿は空港から消え、主要な製造業のサプライチェーンは寸断されつつあったが、日用品、食品、あるいは低付加価値の電子部品といった「非戦略物資」の貿易は、まるで何事もなかったかのように細々と続けられていた。
日本のスーパーマーケットの棚には、数は減ったものの依然として中国産の野菜が並び、中国の都市部では物流混乱を見越し、日本の製薬会社の常備薬が飛ぶように売れていた。日本の部品メーカーが製造した低付加価値の電子部品が中国の工場へ運ばれ、組み立てられて世界中へ出荷されるという、細い糸のような貿易もなお続いていた。両政府とも、「戦争ではない」という建前を維持するために、経済の最後の生命線だけは切らずに残していたのである。
「我々は北京の暴力に屈しない。だが、これは中国国民との戦争ではない。無関係な一般市民の生活を破壊することは、我々の本意ではない」
ワシントンや東京の記者会見で繰り返されるこのレトリックは、裏を返せば、「中国経済と心中する覚悟はまだない」という、西側諸国の苦渋に満ちた本音の裏返しでもあった。
市場は、この奇妙な「停戦」のバランスの上で激しく乱高下を繰り返していた。ビジネスマンたちは依然として電子メールを交わし、信用状を開設していた。それは、いつ断ち切られるかもわからない、鋼鉄の糸よりも細く、危うい関係であった。
だが、資本主義の冷徹なリスク計算は容赦なく日本の家計と市場を直撃していた。
事態を決定づけたのは、ロイズ・オブ・ロンドンをはじめとする欧米日の大手保険会社による「戦争危険区域」の指定変更であった。東シナ海および南シナ海全域を航行する船舶に船舶戦争保険料は一挙に大きく引き上げられた。
この船舶保険料の暴騰は、事実上の経済封鎖として機能した。一回の航海にかかるコストが数億円単位で跳ね上がり、多くの海運会社がそのコストを全て荷主に、すなわち最終的には消費者に転嫁せざるを得なくなったのである。
物流の停滞とコストの転嫁は、瞬く間に日本国内の物価を押し上げた。エネルギー価格、原材料、輸入食品――あらゆる生活必需品が連日のように値上げされ、スーパーの棚からは安価な輸入品が姿を消した。国民は、戦火の足音よりも先に、家計を締め上げるインフレという名の「見えない敵」に悲鳴を上げた。
株式市場もまた、混沌の極致にあった。
日経平均株価は、開戦への恐怖とサプライチェーンの崩壊を嫌気して暴落し、数日間で五千円を超える記録的な下げ幅を記録した。投資家たちがパニックに陥り、あらゆる銘柄を投げ売りする中で、唯一異様な高騰を見せていたのが、防衛関連銘柄であった。防衛産業の中核を担う重工メーカーの株価はストップ高を連発し、市場の絶望を燃料にして急騰を続けていた。
この経済的な苦境を突き、高城政権を激しく揺さぶろうとする勢力が、左右の両端から噴出した。
極左ポピュリスト政党「やまと真選組」は、都内各地で緊急デモを組織した。「米国と中国の覇権争いに、なぜ日本国民の生活が犠牲にならなければならないのか」「平和こそが最大の経済対策だ」と訴え、防衛費の増額や日米共同作戦を「戦争への道」として激しく糾弾した。彼らの主張は、物価高に苦しむ低所得層の一部に、強い反米感情とともに浸透していった。
一方で、より異様な光景を作り出していたのが、極右政党「国民主権同盟」であった。彼らは本来「反中」を旗印にしていたはずだが、事態が緊迫するにつれ、そのレトリックは巧妙に「反米」へとスライドしていった。
「今の日本はアメリカの属国に過ぎない」「ポーカー大統領の操り人形として、同胞の血を流すな」――彼らの主張は、日本の「真の主権」を回復すべきだという大義名分の下、あえて中国への批判を避け、日米同盟破棄を叫ぶという不可解な論理を展開した。
SNS上では、正体不明のインフルエンサーたちが、扇情的な動画やデマを次々と拡散した。
「高城総理はアメリカに日本を売った」
「もうすぐ預金封鎖が始まる」
「防衛産業の株を持っている政治家が戦争を煽っている」
真偽不明の情報は、物価高と将来への不安に震える国民の心理を巧みに操り、政府への不信感を煽り立てた。
高城総理は、官邸のモニターに映し出されるデモの映像と、乱高下する株価チャートを前に、唇を噛み締めていた。




