203Y年2月7日 ワシントン・コロンビア特別区
203Y年2月7日
アメリカ合衆国 ワシントン・コロンビア特別区 ホワイトハウス
冬のワシントンは、鉛色の空から冷たい霙が降り注ぎ、ポトマック河畔の木々を無慈悲に凍りつかせていた。ペンシルベニア通りを走る政府高官を載せたリムジンのタイヤが、冷たい水飛沫を上げる。世界が音を立てて崩壊しつつあるというのに、ホワイトハウスの周辺は不気味なほどの静寂に包まれていた。
大統領執務室。 歴史ある重厚なレゾリュート・デスクの上には、機密文書の束に混じって、脂ぎったファストフードの包み紙と、特大サイズのコーラのカップが散乱していた。室内に漂うのは、重厚な革製品の香りを圧倒する、安っぽいフライドポテトと牛脂の匂いだ。デスクの主、アメリカ合衆国大統領ロナルド・ポーカーは、背もたれに深く沈み込み、手元のスマートフォンで最新の支持率調査の結果を指でなぞっていた。その周囲には、世界で最も強力な権限を持つはずの三人の男たちが、疲弊と焦燥を隠しきれない表情で立ち尽くしていた。
「……ミスター・プレジデント。事態は一分一秒を争います。私の話を聞いておられますか」
沈黙を破ったのは、アントニー・ホールデン国務長官だった。彼は手元のタブレットに表示された、衛星が捉えた台湾周辺の艦艇配置図を一瞥し、切迫した声で告げる。
「バルト海ではロシアの機甲軍団がリトアニア国境を脅かし、朝鮮半島では北朝鮮がDMZで断続的に砲撃を続けている。イランもホルムズ海峡で挑発を繰り返しています。しかし、今この瞬間の最大の焦点は、台湾海峡です。中国による『防疫』という名の封鎖は、実質的な軍事侵攻の序曲です。第一列島線の要である台湾が落ちれば、中国海軍は太平洋へ自由に躍り出、ハワイや西海岸を直接射程に収めます。これは現代の『パールハーバー』への第一歩なのです」
「それに半導体の問題も死活的です」
サミュエル・ヴァンス国家安全保障担当補佐官が、眼鏡を押し上げながら言葉を継いだ。
「台湾の工場が北京の手中に落ちれば、米国のミサイルからスマートフォンに至るまで、すべてのハイテク産業の息の根を握られます。それは中国が、弾丸一発撃たずに二十一世紀の覇権を手にすることを意味するのです。日本と台湾に対し、即座に明確な軍事支援を約束すべきです」
ポーカー大統領は、彼らの言葉に耳を貸しているのかいないのか、デスクの包み紙から湯気を立てるクォーターパウンダーを掴み上げた。彼は大きく一口頬張り、ケチャップのついた指をペロリと舐めると、コーラのストローをズズッ、と下品な音を立てて鳴らした。
「パールハーバー? シリコン?」
ポーカーは咀嚼しながら、粗野な口調で吐き捨てた。
「ホールデン、ヴァンス。君たちはいつから台北の広報官になったんだ? 我々は『アメリカ・ファースト』を掲げて選ばれた。なぜ遠い異国の、アジア人同士の小競り合いのために、カンザスの若者が命を懸けなきゃならん。ペンシルベニアの父親が、なぜ見も知らぬ島のために血を流す必要がある? 世論調査を見てみろ! 七十二パーセントのアメリカ人が『他国の戦争への介入』に反対しているんだ。私はこの数字に責任がある。君たちの『戦略ゲーム』にではない」
「しかし、与那国島は日本の領土です! 我が国には日米安保条約という厳然たる義務がある!」
ジェームズ・ミラー国防長官が、我慢の限界といった様子でデスクを叩き、声を荒らげた。
「我が国の最も重要な同盟国が、正体不明の武装集団に侵食されています。与那国からの通信は完全に途絶し、台湾周辺も強力なジャミングで情報の解像度が著しく落ちている。中国は『琉球の自決権』を支持するなどというデタラメな宣伝を世界中に流している。今ここで、米軍が圧倒的な『力』を見せつけなければ、世界の誰もアメリカの約束を信じなくなりますよ!」
ポーカーは大口を開けてハンバーガーを飲み込み、満足げにゲップを漏らすと、三人を冷めた、打算的な目で見据えた。
「いいか、ミラー。現実を見ろ。日本政府ですら、まだこれを『武力攻撃』と認めていないじゃないか。警察が対応している『治安問題』だと、あの高城という女も煮え切らない言い方をしている。当事国が戦う姿勢を見せていないのに、なぜアメリカが先に引き金を引いて、北京を刺激しなきゃならない? 台湾にしてもそうだ。まだ台湾軍と中国軍が本格的に撃ち合ってるわけじゃない。奴らが船で島を取り囲んで、検疫ごっこをしているだけだ」
ポーカーは指の脂をズボンで拭うと、身を乗り出した。
「アメリカ人の血は、アメリカ人のためにしか流させない。台湾にしろ日本にしろ、奴らがまず自らの血を流し、泥にまみれて戦う意志を世界に証明するまでは、空母一隻、戦闘機一機たりとも台湾海峡には送らん。やる気のない連中のために、アメリカ人の大切な税金を、一セントたりともドブに捨てるつもりはない」
「大統領、それでは手遅れになります……! 独裁者が一歩を踏み出した後では、取り返しがつかない!」
ヴァンス補佐官の悲鳴のような嘆願を、ポーカーは大きな手で、ハエを追い払うかのように遮った。
「アジアの争いはまずアジア人で解決させろ。父親を失った小学生に、『パパはシリコンのために死んだんだよ』と言い訳するつもりか。まずは日本人が、台湾人が、死に物狂いで銃を手に取ってからだ。連中が何千人と死んで、それでも自由が欲しいと叫ぶなら、その時に初めて、貸しを作るかどうか検討してやる。話はそれからだ。……下がれ。ポテトが冷める」
大統領は再びハンバーガーの残りに食らいつき、スマートフォンの画面に戻った。
「大統領!せめて、不測の事態に備えて米国人と米国権益を保護するため、極東へ増援部隊を送ることは認めていただけるのでしょうね!?」
「それ位なら勝手にしろ、だが、米軍が出ていいのは日本とフィリピンの後方地域までだ。台湾は様子見だ」
窓の外では、ワシントンの冬の霙が、自由主義陣営の「最後の砦」であったはずのこの建物を、さらに冷たく、暗く閉ざしていった。通信のブラックホールと化した与那国島、沈黙の中で窒息を待つ台湾。その絶望的な叫びは、この脂とケチャップの匂いの漂う部屋には、一欠片も届いていなかった。




