203Y年2月7日 尖閣諸島
日本・沖縄県石垣市 尖閣諸島
高度二万五千フィート。
那覇基地に拠点を置く航空自衛隊南西航空方面隊第九航空団、第二〇四飛行隊のパイロットである新田一等空尉は、航空自衛隊の主力戦闘機F-15J「イーグル」のコクピットで重いGを感じながら、右にバンクさせた機体から眼下を睨みつけた。
コバルトブルーの海面に浮かぶ魚釣島の荒々しい岩肌が、まるで海に突き立てられた鉄屑のように鋭く輝いている。
これまで数えきれないほど、防空識別圏内における「対領空侵犯措置」としての緊急発進を経験してきた新田にとって、この空域は日常の延長線上にあるはずだった。だが、今、計器板の隅に表示されているステータスは、かつてない重圧を彼に強いている。
「治安出動命令発出」
日本は既に中国との戦争状態にある、と自衛隊員のほぼ全員が感じていた。しかし、治安出動を命ぜられた自衛官に許されるのは、あくまで警察官職務執行法によって平素警察官が行使している権限を若干延長しただけの、警察比例の原則を逸脱しない範囲での「武器の使用」、すなわち国内における警察権の行使に過ぎない。武力攻撃事態や存立危機事態における防衛出動を命ぜられた自衛隊が、国際法上の国家の自衛権に基づく「必要な武力を行使」できることとは次元が違う。
それでも、治安出動命令の発出という事実そのものが平時にはあり得ない、国家的緊急事態を表していることには変わりがない。新田の操るF-15Jはこれまた、短距離空対空ミサイル二発と機関砲弾を携行するだけの平時のスクランブルではあり得ない、短距離空対空ミサイル四発と中距離空対空ミサイル四発のフル装備という重武装で発進していた。
「ウィザード01より那覇航空方面隊作戦指揮所。ポイント・アルファでの空中警戒待機を継続する。ターゲット、依然として北緯26度線を越えず」
無線に応答しながら、新田はヘッドアップディスプレイに映し出される電子の海を追った。
眼下の海域は、チェス盤のような緊迫した陣形が敷かれている。
魚釣島のごく至近距離、領海線のすぐ内側には、純白に塗装された海上保安庁第十一管区、尖閣警備専従部隊の大型巡視船が、まるで島を守る鎖のように展開している。
そのさらに数マイル外側、接続水域でも、常時この海域を徘徊し続け毎日数時間ずつは領海侵入を繰り返す中国海警局の大型巡視船4隻の船隊と、これを並走して監視する海保巡視船。
接続水域の外側、魚釣島南方の日本の排他的経済水域内では、海上自衛隊水上艦隊水上戦群の「もがみ」型護衛艦と「あさひ」型護衛艦計四隻が静かに控えている。海面より下のことは一切教えてくれない海上自衛隊だが、間違いなく潜水艦も潜ませているはずだ。
海上自衛隊に対峙するのは、魚釣島北方、接続水域の外側に待機する四隻の中国海軍東海艦隊の052D型駆逐艦だ。その巨大な灰色の船体は、波を切り裂きながら、挑発的な進路で日本の防衛線を試し続けている。そして、尖閣諸島の西方、台湾方面で、「隔離」を執行している中国軍艦や海警船もまた、忘れてはならない脅威だ。
新田は酸素マスクの奥で、乾いた唇を舐めた。
かつて、尖閣は台湾有事の際に「同時奪取」されるというのが半ば定説と化していた。そもそも一九七〇年代、尖閣諸島の領有権を中華人民共和国より先に主張し始めたのが、中華民国/台湾である。北京にとっても尖閣は「台湾省の一部」であり、台湾省の本体である台湾島を「解放」するのであれば、台湾省の一部である尖閣諸島も「解放」しないわけにはいかないだろう
だが、現実は違った。
与那国島が「琉球共和国」という住民を装った工作員による内部侵食で陥落したのに対し、ここ尖閣には「住民」がいない。純粋な民間船を装って浸透しようにも、海保巡視船の厳重な警戒下では、「民間船」が島への上陸を企図して接近してもたちどころに針路を塞がれ、阻止・排除される。
(ここは、グレーゾーンのままではいられない場所だ……)
海保の阻止を打破するには、海保と同等以上の武器を装備する中国海警局や海軍の艦艇が表立って介入し、日本の公権力を力ずくで排除するしかない。それはすなわち、中国側にとっても「全面戦争」のカードを切ることを意味する。中国船籍の「漁船」の大集団によって「海上民兵」が上陸するとしても、中国人の仕業であることは明らかだ。国籍不明のまま「平和的な解放」を演出することが不可能なこの岩島は、日中の巨大な戦力が睨み合うことで皮肉かつ奇妙な均衡を保っていた。
「……Warning、Warning」
レーダー警告受信機が、鋭い電子音を鳴らした。北西から接近する中国空軍のJ-16戦闘機が、機載レーダーを火器管制用追尾モードに設定し、一瞬、新田の機体に照射したのだ。
「ウィザード01より那覇SOC。フランカーよりレーダー照射を受けた。ロックオンは継続していない。……威嚇だ」
新田は操縦桿を握る手に力を込めた。
東シナ海で本格的な海空戦が展開されれば、この水も出ない狭い岩島に部隊で維持するための補給は困難を極めるだろう。だから、日中双方とも今のところ地上部隊を上陸させてはいない。それでも、どちらも退くことはできない。
上空では空自のF-15Jが旋回し、海面下では潜水艦が息を潜め、水平線では巨大な艦隊が互いの出方を窺う。
一発の誤射、あるいは一人のパイロットの指先の震えが、この「奇妙な均衡」を地獄へと変える。
新田は、背後の空の彼方、暗雲が立ち込める台湾本島の方角をちらりと見た。
あちらが「窒息」し、均衡が崩れたその時、この静かな尖閣の海もまた、炎に包まれることになるだろう。




