203Y年2月6日 ビリニュス/オホーツク海
2月6日
リトアニア共和国・ビリニュス市 国防省
台湾海峡から、ユーラシア大陸を挟んで八千キロを隔てたヨーロッパの北東部、「バルトの真珠」と称えられる古都ビリニュスは、凍てつく湿気と絶望的な予感に沈んでいた。中世の面影を色濃く残す旧市街の石畳は、降り積もった雪が溶けては凍り、黒ずんだ鏡のようにどんよりとした鉛色の空を映し出している。バロック様式の教会が連なる美しい街並みも、今はその優美な曲線が、迫りくる巨大な影に怯えるかのように縮こまって見えた。
ゲディミナス塔の彼方、東の方角にあるベラルーシ国境からは、かつてこの地を幾度も蹂躙した鉄の足音が、風に乗って響いてくるかのようだった。夜明けを待たずして街を包む霧は、琥珀の産地であるこの国から光を奪い去り、市民たちの胸にソ連占領時代の冷たい記憶を呼び覚まさせていた。
リトアニア国防省地下の国家防衛指揮センター。 数世紀の時を経た石造りの地上とは対照的に、そこは青白い電子の光と、神経を逆撫でするような警告音に支配されていた。
「……ベラルーシのリダに展開したロシア軍部隊を特定しました。西部軍管区所属、第一親衛戦車軍――その中核である第四親衛戦車師団『カンテミロフスカヤ』および第二親衛戦車師団『タマンスカヤ』です。衛星画像によれば、主力戦車T―90Mと歩兵戦闘車BMP―3の長大な列が、我が国国境を指向して再編されています」
情報官の声は、氷の破片のように鋭く室内に響いた。
「さらにカリーニングラード州では、第十八親衛自動車化狙撃師団が戦闘配置を完了。バルト海艦隊のフリゲート艦『アドミラル・ゴルシコフ』級三隻がバルチースクを出港し、スヴァウキ・ギャップを南北から遮断する構えを見せています」
モニターには、赤く染まった敵部隊のアイコンが、リトアニアとポーランドを繋ぐ細い回廊を、巨大な万力のように挟み込もうとしている様子が映し出されていた。
しかし、NATOを震撼させているのは、正規軍の西進だけではなかった。
「エストニアのナルヴァ変電所で爆発を伴う大規模火災が発生。同時刻、我が国北部ウテナ近郊の送電網も物理的に切断されました。現場付近では、国籍不明、徽章なしの『リトル・グリーン・メン』が目撃されており、国境警備隊との間で散発的な交戦が始まっています。また、ポーランドのジェシュフ空港周辺では、連日、十数機の不審な小型ドローンが防空網を掻い潜り、物流網を偵察、あるいは妨害電波を放射しているとの報告があります」
「これはもはや、偶然の符合ではない」
リトアニア軍の参謀総長が、苦渋を滲ませて呟いた。
「台湾海峡、日本、朝鮮半島、イラン、そしてこのバルト海の危機……。中露の結託は、もはや疑う余地のない明白な事実だ。北京が太平洋の波を立て、ワシントンを釘付けにしている隙に、モスクワが欧州の東端を切り裂こうとしている。我々が傍受した暗号化通信のタイムスタンプは、中国軍が台湾海峡で『防疫』を宣言した瞬間と、驚くべき精度で一致している。これは北京とモスクワが綿密に書き上げた世界分割の台本なのだ」
その時、センター内の照明が数回瞬き、非常用の赤い予備電源に切り替わった。ビリニュス郊外の主要な変電所が、見えない「指」によって再び闇に沈められたのだ。
窓のない地下室で、将校たちは自分たちの足元が、世界が、音を立てて崩壊していくのを肌で感じていた。東の森から忍び寄る「リトル・グリーン・メン」は、自由主義陣営という巨大なダムに穿たれた、修復不能な亀裂の象徴だった。
バルト海の長い冬は、今、極夜よりも深い闇へと足を踏み入れようとしていた。
2月6日
オホーツク海 宗谷海峡東方
北の海は、鉄色をした絶望の揺り籠であった。海面には流氷の先遣隊が不気味な白い影を落とし、氷点下の風が波頭を鋭く削り取っている。しかし、その極寒の騒乱から数十メートル深く沈めば、そこには太陽の光さえ拒絶した、音だけが支配する濃密な静寂の世界が広がっていた。
海上自衛隊たいげい型潜水艦「はくげい」の艦内は、赤暗い戦闘照明に照らされ、電子機器の発熱とリサイクルされた乾燥した空気が、乗組員たちの肌に張り付いていた。
「……パッシブ・ソナー、方位〇一〇より高速プロペラ音。キャビテーション音から推定、ウダロイI級駆逐艦一。さらにその背後、コンバージェンス・ゾーンの第二バウンスに、複数の重厚な低周波音を捕捉。……この音紋、スラヴァ級ミサイル巡洋艦『ヴァリャーグ』です」
ソナー員の報告が、囁き声のように発令所に響く。艦長の中谷二佐は、潜望鏡のグリップを握りしめたまま、自身の鼓動が音を立てるのを禁じるかのように沈黙していた。
「クリル列島防衛演習……名目は相変わらずだな」
中谷が低く呟く。 モニターに映し出される音響解析データは、演習という言葉を嘲笑うかのような異常な数値を叩き出していた。ウラジオストクから北上してきたロシア太平洋艦隊の主力に加え、カムチャツカの第四十独立親衛海軍歩兵旅団、そして極東の精鋭である第一五五独立親衛海軍歩兵旅団の一個大隊戦術群を乗せたロプーチャ級揚陸艦が、宗谷海峡の喉元を塞ぐように展開している。
「ロシア海軍歩兵部隊の揚陸艦隊が、これほどまでに北海道の領海線へ接近するのは異常です。水上ではカモフ27対潜ヘリが執拗にディッピング・ソナーを降ろしています。我々の『背中』を狙っているのは明らかです」
水雷長の言葉通り、海中には周期的に、獲物を探る電子の叫び――アクティブ・ソナーの「ピン」という金属音が、遠く、しかし確実に近づいてきていた。
「バルト海ではリトアニアを脅かし、極東では我々の喉元に短刀を突きつけるか。中国、北朝鮮、イラン、そしてロシア……完璧な同時並行だ。連中は最初から、世界を同時に燃やすつもりだったんだ」
中谷の脳裏に、数日前に横須賀で見た穏やかな夕日が浮かぶ。あの日々が、もはや数世紀前の出来事のように感じられた。
「特別無音潜航を徹底。変温層の下に潜り込め。……連中がいつ宗谷海峡を越える侵攻に切り替えても対応できるようにしておけ。我々はここで、北の門番として踏みとどまる」
「はくげい」は、巨大な沈黙の塊となって、さらに深く、冷たい闇の底へと滑り込んでいった。 頭上では、ロシア太平洋艦隊の重厚な船体が氷混じりの海を切り裂き、その不吉な振動が、鋼鉄の船殻を通じて中谷たちの骨にまで響いていた。




