203Y年2月4日 東京
203Y年2月4日
東京都千代田区永田町、内閣総理大臣官邸。
夕刻、かつて経験したことのない、冷たく粘りつくような緊張が、総理官邸地下の危機管理センターを支配していた。空調システムの微かな駆動音だけが響く会議室には、高城沙奈子・内閣総理大臣を囲むように、国家安全保障会議・拡大九大臣会合に出席する主要閣僚、そして、国家安全保障局長、統合幕僚長、警察庁長官及び警備局長、海上保安庁長官、内閣法制局長官や内閣情報官といった実務の重鎮たちがオブザーバーとして顔を揃えている。
円卓の各席に置かれたタブレット型の多機能モニターには、日本最西端の地、与那国島の状況図が表示されていた。しかし、その「目」となるべき沿岸監視隊からのレーダー情報や、現地駐在所・機動隊からの警察無線、さらには島民の日常を伝えるSNS投稿までもが、昨日深夜を境に完全に消失している。
「……依然として、与那国島との直接的な通信は回復しておりません」
防衛省情報本部長が、苦渋を滲ませた声で報告した。
「情報収集衛星の画像、および電波傍受の解析によれば、久部良港には所属不明の貨物船数隻が接岸を強行した形跡があります 。また、島周辺には『聯合帰航』演習名目で展開している中国海軍の艦艇が複数、領海の外縁をなぞるように遊弋しており、通信妨害の電波源となっている可能性が極めて高いと分析されます 」
その報告が終わるか終わらないかのうちに、大泉慎太郎・防衛大臣が身を乗り出した。
「もはや躊躇している時間はありません。総理、直ちに本件を『武力攻撃事態』と認定し、自衛隊に対して防衛出動を命じるべきです! 日本の領土が、外国の武装集団によって物理的にアクセスを遮断され、制圧されようとしている。これは明白な主権侵害、侵略行為です!」
「事態認定には法的な厳格性が求められます。拙速な判断は、事態を修復不能な全面戦争へと引きずり込みかねません」
冷静に、しかし断固とした口調で反論したのは、持田敏夫・外務大臣だった。
「防衛出動を命じるには、武力攻撃を行った『外国』を特定しなければならない。しかし、ネット上で声明を出した連中は、驚くほど流暢な日本語を話し、『琉球共和国』なる独立政府を自称している 。これが中華人民共和国の正規軍であるという確固たる物理的証拠――徽章や所属――が、まだ我々の手元には一欠片も届いていないのです 」
「そんなものは、彼らの常套手段である『偽装』に決まっているでしょう!彼らの対艦ミサイルは中国製だ!」
「法的議論は別です」
高松・内閣法制局長官が、眼鏡の奥の目を険しくして言葉を添えた。
「相手の正体が確定せぬまま防衛出動を発令し、万が一、相手が『日本国内の反乱勢力』であると主張された場合、その軍事行動の法的正当性は崩れます。また、もしこの段階で中国を名指しして『武力攻撃』と認定すれば、それは我が国から北京への宣戦布告と等しい意味を持ちます。防衛省内ですら、この『グレーゾーン』における法的解釈には慎重論があるはずだ。それに、彼らの映像に映っているミサイルは、中国以外の国にも輸出されたものだそうですね。第三国からブラックマーケットに流出した、などの言い訳も可能です。決定的証拠にはならない」
議論は紛糾し、会議室の空気は澱んでいく。その沈黙を破ったのは、草薙・国家公安委員長だった。
「……議論が法的な形式に終始している間に、島民二千人の命が危険に曝されている。ネット上に流されたあの動画を見ましたか? 彼らは地対空ミサイルや地対艦ミサイルを持ち込み、あろうことか、核兵器の保持まで宣言している 。これがハッタリであろうとなかろうと、一般の警察力をもってして対処できる範疇を、とうに超えている。自衛隊法第七十八条第一項に規定される『間接侵略その他の緊急事態』であることは、誰の目にも明らかだ」
草薙委員長は総理を真っ向から見据えた。
「武力攻撃事態の認定が難しいというのなら、せめて直ちに自衛隊に『治安出動』の命令を発出すべきです。これは警察庁長官からも強く要請されている。警察だけではこれ以上の対応は不可能です」
「合わせて、警察法第七十一条に基づき、沖縄県に緊急事態の布告をすること、事態対処法第二十二条に基づき、緊急対処事態を認定することも進言いたします。警備局長。」
草薙に呼ばれた警察庁警備局長が立ち上がった。
「緊急事態が布告されることで、平素法的には沖縄県公安委員会の監督下にある沖縄県警察に対し、内閣総理大臣が警察庁長官を通して指揮・命令を行うことができます。緊急対処事態、すなわち、武力攻撃の手段に準ずる手段を用いて多数の人を殺傷する行為が発生し、または当該行為が発生する明白な危険が切迫している事態を認定すれば、国民保護法に基づき、武力攻撃事態の場合に準じた各種の国民保護措置を実施することが可能となります。二つともこれまで前例はございませんが、警備局といたしましては、現在の沖縄県内の状況はこれらの要件を十分満たしているものと思料します」
会議室に、さらなる重苦しい沈黙が降りた。 高城総理は、組んだ両手の上に顎を乗せ、モニターの空白を凝視し続けていた。
彼女たちが知らない事実があった。 通信のブラックホールと化した与那国島で、数十名の警察官がすでに壊滅し 、誇り高き自衛隊員たちが膝を屈したという事実を 。
「……治安出動、ですか」
自衛隊法第七十八条、命令による治安出動。内閣総理大臣は、間接侵略その他の緊急事態に際して、一般の警察力をもつては、治安を維持することができないと認められる場合には、自衛隊の全部又は一部の出動を命ずることができる。なお、発令後二十日以内に国会の承認を得る必要がある。
自衛隊創設以来一度も抜かれたことの無い、日本の治安維持における伝家の宝刀。かつての安保闘争やオウム真理教事件で発令の検討はなされたものの、「軍隊」が自国民に銃を向けるという重さから、歴代総理は思いとどまってきた。
高城総理が、ようやく重い唇を開いた。その視線には、一国の運命を背負う者特有の、底知れぬ孤独が宿っていた。
「緊急事態の布告、及び緊急対処事態の認定には同意します。閣議決定の準備を進めてください」
「情報収集衛星の次回のパスはいつですか。霧の隙間からでもいい、与那国島の真の姿をこの目で確認したい。……治安出動命令の判断は、それまで待ってください」
「総理、ではせめて、防衛大臣として、全国の部隊に治安出動待機命令を発出したい。次に何が起きても動けるように。総理の承認を願います」
大泉が必死に叫んだ。
「わかりました。待機命令は認めます。ただ、核兵器があるかもしれないとなれば、どのみち迂闊には動けません」
窓の外では、東京の冷たい冬の雨が、官邸のコンクリートを濡らし続けていた。その静寂は、数千キロ彼方の離島で起きている破滅を、依然として厚いベールで覆い隠していた。
会議室の重圧は、形を変えてさらに増大していった。 「緊急事態」の布告と治安出動待機命令という、ギリギリの妥協案で与那国島への初動を定めた高城総理だったが、休む間もなく次の、そしてより巨大な破局の報告がテーブルに叩きつけられた。
「……議題を移します。防衛大臣、台湾周辺の最新情勢を」




