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カンパニュラ・メディウム

作者: 浅葱メナ

 納涼を演出する添水と風鈴は、ここら一帯の空気を引っ掻き回すだけの扇風機よりはよっぽど優秀な催眠術師だと思えたのも昨日までで、今日になって夏の暑さの等身大を見てしまった。電気代が安上がりだという理由だけで抜擢された扇風機でさえ確実に電気を食いちぎっていて、それはまるで虫の羽音のように無機質な音を立てて風を吹かせている。

 惰性でつけたままでいたが、吐き出す温風が腕の表面を撫でていて、脇にじわりと滲む汗を皮切りに手近にあったコードを引き抜いた。プラグを持たないと断線しやすいとかなんとか聞いたことがあったけれど、この扇風機も買い替え時が近い、というより引退すべき年齢でも無理に働かせているようなものだから長持ちさせようなんて思いもないので、畳の上を蛇行するコードをぐいと手繰った。羽根の動きが鈍くなっていき、停止する。その始終を見届けて、再び横になった。

 直射日光が届かない際にいるものの、今日は風が少ないから家と庭の構成する大気が滞留して、一つ塀の奥までは行こうとしない。木陰で冷やされた空気なんかが時折吹いてくれさえすれば私は夏が心から好きになれると思うのだけれど、夏は人間どもからの好意は求めていないと言わんばかりに太陽を投下し、地球をジリジリと焼いていくのだった。

 私のいる場所より添水の陣地の方がなんだか待遇がいいように見えて、添水の隣にアウトドアのチェアを置いてみようかしらと思うにも、地面からの照り返しがつきまとうし寝転がれないだろうしで、私たちの運動会で母さんが使ったきり、倉庫に仕舞い込まれたままのそれを取り出すことはしなかった。

 庭の隅の添水が鳴る。ささめくように水が竹筒に溜まっていく。筧から一筋の水が落ち続けている。均衡が崩れて水がこぼれる。そして、竹特有の空虚な音がひび割れた夏を潤す。風鈴がセッションするように揺れている。

 けれど耳に届いた音も結局は音でしかなくて、全身を取り巻くやけに蒸された空気が背筋を撫でるたびに鳥肌が立つのが分かる。暑いのに鳥肌なんて変なの、と声に出さずに言ってみても、鳥肌が立った太ももを抱えるようにしてさすってみても、この暑さから解放される術はなかった。

 コノオトハスズシイオト、というお呪いもとうに解けてしまったから、風鈴を耳障りだと思ってしまう自分がいて、もし私が人間だったなら直ぐにでも取り外すだろう、なんて適当な言葉を繋ぎ合わせて誤魔化し続けていた。誰も気温を下げる技術を持ち合わせていないこの家で、かろうじて三十六度二分より一度二度低いかどうか、という畳に張り付いてフジツボのようにそこで生活を完結させていた。

 天井まで届く大きな窓は全開にしているから、蝉の鳴き声がライブ会場とばかりに脳を埋め尽くす。蝉の声よりは些か添水の音を聞いている方がましのように思えたから寝転んだまま、影が落ちた隅のそやつに視線を向けた。やはりそれにも飽きて、くらくらする頭を無理やり起こしてちゃぶ台の上の麦茶を手に持った。畳に足を伸ばして座り、その隣に麦茶を置き直す。だいぶん前に冷蔵庫から出していたから、麦茶の水位に合わせてびっしりついた結露を意味もなく剥ぎ取って、これまた意味もなくふくらはぎに塗り広げてみたりした。少しひんやりした気がして、気化熱だと思いついたけれど、それがどういう意味か使い方もよく分からなかったから気化熱だ、そうだなあ、と一人で頷きあって、体育座りの体勢で二本の足の間に頭を挟み込んで目を閉じた。そのまま、耳を内ももで蓋をしたり、耳のパラボラを折りたたんだりしていた。

 瞼の裏に熱を感じて、眼球専用の湯たんぽがあるとはあなたがそんな重役だなんて知らなかったわ、と脳内で驚いてみせたのだけれど、表情に出すほどではなかったから目を丸くするとかわざとらしい挙動はしなかった。

 思い立ったように麦茶を口に含むとぬるさだけが入り込んできて、それは喉を通る時も不快とまでは言わないけれど、口と喉で消化試合を繰り広げているものだから、飲んで良かったとも思えない巧みな合間を見事に貫くものだった。手に届く場所にグラスを置いて、庭を眺める。銀杏の木と添水と、名前も知らない大ぶりな花弁が自慢げに四方を向いている花壇と、干からびたじょうろが花壇の横に放置されている。そして。

 庭に人が立っていたことに気づいた。

 鏡子姉さんは、肩のあたりで切り揃えられた赤茶けた髪を靡かせてそこに立っていた。大学生になって明るく染めた髪色が、鏡子姉さんの日に焼けた肌によく馴染んでいるので、この人はどんな様相をしていてもその全てを自分のものにしてしまうのだろうと思った。

「やあやあ。暑いね」

 夏風と共に訪れた鏡子姉さんは、カラッと笑って私を見下ろしていた。久しぶりに見た、いつも通りの笑顔だった。

「玄関から、入ってきてよ。鏡子姉さん」

 金縛りから解かれた私が絞り出した声は少し掠れていて、誰に聞かせるでもなく咳払いをした。鏡子姉さんの帰省する予定は聞いていなかったが、まさか日程が被っていたなんて。

 鏡子姉さんは、一週間の旅行でも使えそうな大きいスーツケースを手に持って、リュックまで背負っている。庭を突っ切って縁側にスーツケースを横たえると、靴をそこに脱ぎ捨てて家に上がってくる。玄関から入って、と何度言ったところでこの人は聞かないことを知っているからわざとらしく苦笑いしてみせた。鏡子姉さんはその笑みの意味を知ってか知らでか、にやにやと薄ら笑いを隠さずにいる。そこが、憎らしくも鏡子姉さんらしいところだった。

「元気にしとった?」

 膝立ち歩きでじわじわ寄ってきた鏡子姉さんが私に飛びつこうとするものだから、避けようと身を捩ると手元のグラスに当たって麦茶をこぼした。

「わー! ティッシュティッシュ」

 鏡子姉さんが二、三枚ティッシュを手に取って、畳に押し付ける。私も麦茶が跳ねたところにティッシュを当てて、畳にできた小さなしみを拭った。鏡子姉さんは麦茶が染み込んだティッシュを屑籠に投げ、屑籠の近くに落下したものを拾い上げて捨てた。畳に座り込んだままの私の前にしゃがみ込んだ鏡子姉さんは不満げな表情を見せている。

「感動の再会だというのに、お姉ちゃんは悲しいですよ」

「躍りかかる鏡子姉さんが悪いと思うんやけど」

 ちゃぶ台を挟んで相対するようにして座った鏡子姉さんは、今にも私の胸に飛び込んできそうで油断ならない。めまいにも近い、ぐらぐらする頭に手を添えて、冷蔵庫のほうに歩いていく。扉の内側が定位置の麦茶の容器を取り出して、キッチンの棚からは透明なグラスを一つ引き抜き、ちゃぶ台に置いて膝から崩れるように座った。

 一リットルの容器に入っていた色とは随分薄くなった茶が小さな泡を弾かせながら注がれるのを見ると、知ってはいてもやっぱり変な感じがして、どうしてこの色が合わさるだけで黒にも近い濃さにまでなるのか、入浴剤を入れたお風呂のお湯を掬い上げるときにも感じることだけど、奥行きが色の深さを作るのかしらとか思いながら麦茶を喉に通すと、食道のあたりを通る冷たさを感じてその事はそれきり、麦茶に口をつけようとしない鏡子姉さんのことを思った。

「鏡子姉さんは何泊してくと」

「二泊。あ、その顔、二泊であの荷物の量かって思った顔やね」

「思った」

「あのスーツケースには陽一さんのぶんの荷物も入っとるけん、あんなになったんよ。二人分って考えたら妥当な大きさっしょ」

 その陽一さんは今どこにいるの、と私が訊く前に鏡子姉さんが、陽一さんは夕飯の時間までには着くって言っとった、今日車の免許合宿から帰ってくるみたいで、帰省するのは別日でいいよって言ったんやけど鐘子さんにも会いたい、言うて今日に決まったんよ、と淀みなく流れる話に私の名前が登場したことにどきりとしたが、それもあとからあとからやってきた言葉に押し流された。

 プロポーズされたんはもう一ヶ月前になるんやけどね、大学が夏休みになったら両親に挨拶しようって二人で話しとって、うちの親、陽一さんのこと大好きやし折角なら泊まっていったらって、陽一さんも楽しみって言うてくれてね、母さんにその話したら鐘ちゃんが帰ってくる日教えてくれたっちゃん。

 鏡子姉さんは、矢継ぎ早に陽一さんの話をしている。陽一さんの話に興味を惹かれることなんてないけれど、鏡子姉さんがそれでね、あのね、とこの上なく幸せに私を見つめるので黙って聞いていた。

 鏡子姉さんと陽一さんは、高校生の頃から付き合っていた。今年で三、四年になるだろう。当時からうちにもよく来ていたから親は、陽一さんとの結婚なら、となにも悪く言うことはないだろうし、私から見ていても母さんも父さんも陽一さんのことを信頼しているから、結婚挨拶というより夫を連れた帰省と言ってしまった方が近いような気がする。

 我が菱田家の中での陽一さんへの評価が、婚前とは思えないほど高いところも、私が彼を気に食わない理由の一つだった。

 鏡子姉さんが陽一さんと出会ったのは、私の鏡子姉さんへの態度が反抗期と一括りにされてしまう時期のことだった。私は鏡子姉さんの優しさに甘えてばかりで、だからあの時期も鏡子姉さんなら私を受け入れてくれると信じきっていた。学食で昼食を取る友人に合わせて、鏡子姉さんが毎朝早起きして作っていた弁当をそのままの状態で持って帰り、もう今後一切弁当はいらないと言ってしまったというのに、鏡子姉さんは怒りを私にぶつけたりせず彼女自身の心の中でそれを擦り潰した。

 私が言った言葉に鏡子姉さんが傷ついたことなんて見ていれば分かるのに、一度言ってしまったら取り消せないからと、謝罪の言葉を重ねなかった私が全ての原因だった。

 そのお弁当箱は陽一さんのものになった。

 私がいらないと言っても二人分の弁当を作る姉さんの意図が初めは分からなかった。私のためだと思っていた、もし私が唐突に今日はお弁当頂戴、と言ったら渡せるように作っているのかもしれないなんて、ぼんやりと思っていた。けれど、学校から帰ってくるとシンクに置かれた空の弁当箱二つを見て、私は息が止まった。私と鏡子姉さんとの間に土足で上がってくる人間に、吐き気がした。

 私が悪かったの、鏡子姉さんからの愛を突っぱねたりせずにいればよかった、私をもっと頼って、と一言言ってさえいればよかったはずなのに。陽一さんは私が立てなかった位置に永住しようとしているのだ、私はずっとあの人に負け続けている。

 弁当箱は、母さんと鏡子姉さん、私の三人で電車に揺られて行った街で買ったお揃いだった。母さんが選ばせてくれて、鏡子姉さんが選んだものの色違いを私は手に取った。

 私たちのお揃いが、初めて壊れた瞬間だった。

 それでも私たちには、他の誰も立ち入ることができないお揃いが沢山あった。髪先から足元まで、私は鏡子姉さんと同じでいた。それが今ではいくつ残っているだろう。一文字違いだった名前さえ、名字が変わってしまったら私たちを繋ぐものが見えづらくなるじゃない。私たちは二十歳になったばかりなのに結婚してどうしようというの。

 鏡子姉さんは優しい。愛想があって、家庭的で私をいつも笑わせてくれる。外から見ると私と鏡子姉さんは同じ顔に映るかもしれないけれど、日頃の行いとか考えていることとか性格とかが確かに滲み出ていて、鏡子姉さんの方が遥かに魅力的な顔立ちだった。

 グラスを両手で包んでようやく麦茶を一口飲んだ鏡子姉さんが、大学生になって丁寧に伸ばしていた髪を顔のあたりに毛先がまとまる長さに切って、黒髪を明るく染め上げたのも私を突き放したように思えてしまって、低い位置で結った自身の黒髪を扇風機のコードを抜くみたいにぐいと引っ張ってみたけれど、力を込めた訳でもなかったからぴんと張るだけだった。

 鏡子姉さんの中の天秤が、時が刻まれるたび陽一さんに傾いていくのを目の当たりにしても、私はどこかで鏡子姉さんが陽一さんから離れて私の元にやってくる夢を見ていた。

「髪の毛綺麗にしとるん、鐘ちゃん流石やね。私はショートの手入れが楽なんを知っちゃったから、もう伸ばせんなあ」

 鏡子姉さんが麦茶を飲むのに合わせて、私も手元のグラスに手を伸ばした。舌に乗った麦茶をそのまま奥に追いやる。

「鏡子姉さんのロング似合っていたのに」

「鐘ちゃんが今しとる髪型やろ? 高校ん時はそれやったね。鐘ちゃん似合っとるよ、私より似合っとると思うわ」

 華やかな笑顔を浮かべて、鏡子姉さんはそう言った。そして、鐘ちゃんは昼なんか食べたん、私まだなんも食べとらんからラーメンでも食べて来ようと思っとるんやけどどうする。特に何も食べてないと私が言うと、じゃあ行こうや、あっちの方に確かラーメン屋あったやん久しぶりやんな。と鏡子姉さんはすくっと立ち上がると縁側の淵から足を下ろして靴をあっという間に履いて私を待っている。

「財布持っとらんかったわ、そこにある白いやつとってくれん?」

 座布団の横にあった折り畳みの財布を鏡子姉さんに見せるように掲げると、それそれ。と言うのでそのまま手渡した。

「鐘ちゃんも玄関から靴ここに持ってきてーな」

「鍵閉めるの面倒やんか」

 いいからいいから、と鏡子姉さんが言うままにサンダルを玄関から拾い上げて、庭の土の上に落とした。ひっくり返ったり横倒しになったりしている左右の靴を素足でちょいちょいと整えて履く。

「どんくらい歩くっけ」

「覚えとらんけど十分もかからんやろ? この道を歩くんも久しぶりやね」

 一方を海、他方を山に囲まれた家を一歩出ると、蝉の合唱がシャワーのようになって降り注いでいて、コンクリートで舗装されているものの、歩行者用のスペースがない一車線の道の真ん中を歩いた。防風林の内側、と言って正しいのか分からないけれど海、防風林、道の順に並んでいる道を二人横並びになった。道に沿うように並んだ木は背丈の高いマツのような、針葉樹であることは間違い無いのだけれど、その木陰にあたるからか焦げるような暑さではなかった。

「もう二時になるやん。ほんとにラーメン食べるん。今日の夕飯、寿司の出前取るって父さん言っとったけど」

「ラーメン食べて、寿司もガッツリ食べればいい話やん」

「そんな食べられんよ」

「分からんよー?」

 自分の腹のことくらい分かるわ、と言おうと思ったけれど、鏡子姉さんが眉を上げて得意げに頷いているのが可笑しくて、そうやねと笑み混じりに告げた。それからはどちらも口を開くことはなかったから、鏡子姉さんが歩くたびに海月のようにふわりと舞う滑らかな髪をちらと見ながら、鏡子姉さんの歩幅に合わせて大きく一歩を踏み出して進んだ。

 こう鏡子姉さんを見ていると、ああこの人が姉なのだなと、決して私はこの人の姉ではないのだと思い知る。姉として生きてきた鏡子姉さんが姉で、鏡子姉さんは姉としての役割を与えられた日から姉で、私は妹というぬるま湯に浸かったまま、後天的に姉になった鏡子姉さんを見上げているだけだった。

 私は、鏡子姉さんとの存在を別つために妹になったのだ。

 時と共に発露した二人の違いが全て、鏡子姉さんのことを好きな理由だった。

 私が私である限り、過去も未来も買うことはないだろうカラーのアイシャドウが私と同じ顔を彩っている。鏡子姉さんを見るというのは鏡を覗き込む行為のようでやはり何かが違う、私は鏡子姉さんのように胸を張って歩いたことが一度だってあったかしら、それだけではなくて笑方も声の調子も全部が違うんじゃない、別の人みたいって、それは確かに私と鏡子姉さんは違う人なのだけれど、鏡子姉さんをじっと眺めていると記憶の曖昧な部分を突くように、部分ごとに切り離されて崩壊していくのを感じて、眉の上がり具合とか耳の付いている位置とかをぺたぺた触って確認したくなって仕方がなくなる。

 手鏡の中の私は安心するほど変わらない私で、鏡子姉さんに感じる違和感は左右が反転していない私を見ているからということで納得することにした。

 隣を歩く鏡子姉さんの歩みが止まったのと同時に私は顔を上げた。

「この道、右やったっけ。右やった気がするんやけど、こんな海沿いやった記憶ないんよね」

「右で合っとーよ、こっちの道の奥にテニスコート見えるやん、そのもう少し先にあったもん」

 そか、と鏡子姉さんがため息代わりにそう呟く。通り過ぎる時に横目で見たテニスコートでは中学生くらいの女の子とその母親がゆるいラリーをしていた。フェンスごしだからよく見えなかったけれど、薄い色の肌がすらっと伸びた子だったから帰省に付き合わされたのかな、と少女のフォアハンドストロークのぎこちなさを流した。

 最後に来たのはいつだったか、中学生、はたまた小学生になるだろうかというラーメン屋は、昼下がりの青空に豚骨の煙を浮かべていた。この匂いだけで食欲がこじ開けられるから、今日は替え玉まで食べられる気がすると考えていると鏡子姉さんも、お腹ぺこぺこやから絶対替え玉も頼むわ、と意気込むのでそうやねと同意した。

 店内は客一人と店員がいる他はおらず、それでも私たちが入ると満員という狭さで、食券機に五百円玉を入れて「ラーメン」という一種類のボタンを押して、厨房の店員に麺の硬さはと聞かれたので私はカタ、鏡子姉さんはフツウと答えて近くの椅子に隣り合って座った。

 クーラーが微妙に効いていて、半袖シャツの襟元を形式的に扇ぐ程度で夏の暑さを潰すことができた。鏡子姉さんは、テーブルに置かれたお冷を私に注いでくれたから受け取ってそのまま口に運んだ。

「やっぱり水が一番美味しい季節は夏やねー」

「そやね」

 ラーメンが来るまでの間、鏡子姉さんが何か話題を持ってくるかと思ったが結局ラーメンが到着しても食べ始めても会話はひとつもなかった。ラーメンが伸びるといけないから急いで食べるのだけど、私がようやく半分というところで鏡子姉さんは完食してスープを啜っていた。替え玉を頼むかどうか悩んでいる様子で、店員の方を気にしているのが分かった。

 私がチャーシューを頬張っている横で、鏡子姉さんはレンゲにすくったスープを少しずつ飲んでいる。替え玉も、と思っていたが麺が減っていくのをなぞるようにその思いも萎んでいく。鏡子姉さんはどうするだろう、とそちらに顔を向けると視線が正面衝突してしまって困った。

「鏡子姉さん、替え玉頼むなら頼んじゃっていいよ。私は、お腹いっぱいになったからいいや」

「どうしようかな、今めっちゃ悩んでいるんよ。半玉とかあればいいんやけどな、もう一個同じの食べるんは多すぎる気がするわー。この空腹どうしよ」

 うんうん唸る鏡子姉さんが突然何かを閃いたようににこやかな表情になって、帰りにコンビニでアイスでも買って食べよ、ラーメン食べて体熱くなったしちょうどいいやん、そうしよ、ね、と同意を求めるのでそうしよっか、と一言言うとさらに笑顔が開いた。

 店の扉を閉めても肺いっぱいに入った豚骨の香りが食欲の残滓を刺激している。

 いいアイデアやんな、アイス何があるかな、鐘ちゃんと買い食いとかしたことあったっけ、と鏡子姉さんが目を離すとどこかへ飛んでいってしまいそうな風船に見えて、鏡子姉さんの右手をしっかり掴んで私の方に引き寄せた。

「どうしたと」

「ショッピングセンターで迷った時の鏡子姉さんを思い出した」

「そんな人混みもないし大丈夫やって! そやけど懐かしいな、それいつの話やっけ」

「小学五年生、とかかな」

「小五で迷子なっとったん!? 何しとるんよ、私!」

 鏡子姉さんは、秋が訪れることない向日葵みたいにそう言いながら私の腕にしがみついて体重をかけてきた。歩きづらいんやけど、と言う声が届いていないはずはないのに、暑いなー、なんて微笑んでいる。私から離れたらちょっとはましになるんやない、と言っても鏡子姉さんは離れないだろうから言ってもよかったけど、万が一素直に頷かれたらその時は言ったことを後悔してしまうから飲み込んで暑いね、という言葉に変換した。

 コンビニは家の向こう側にあるから一旦家の前を通り過ぎる。その頃には鏡子姉さんと触れている部分は手のひらだけになって、歩くたびに前後に振られる左手にだけ熱と疲労が集中しているのを感じていた。

 鏡子姉さん、どうしたん、鏡子姉さんまだ大学生やし二十歳にもなったばっかやん、それやのに結婚とか早くない、そやね早いかもしれんけど陽一さんのことは充分ってくらい分かっているつもりやから大丈夫よ、そうやなくてさ、まだ二人とも働いているわけやないやん、就職先決まってからとか卒業決まってからやなくてさ、どうして今なん。

 雲がまばらに浮いている空をぼんやりと見上げて、なんでやろね、と言ったのは、鏡子姉さん自身に問いかける意味も入っている気がした。

「焦っとるとか、早く一人前になりたいとかとも違うし、そやね。結婚して何か変わる訳や無いけど、これは陽一さんへの感謝を最大級に表したらこうなったんよ。出会ってくれて、話しかけてくれて、相談に乗ってくれて、私の出来がビミョーな弁当も美味しい言うてくれて。私が陽一さんのこと好いとー好いとー言うてるのを、もちろん真面目に聞いてくれとるやろけど同い年やのに、私だって一応鐘ちゃんの姉やのに、陽一さんが保護者かってくらい優しい目で聞いてくれとった時に思ったんよ。私ばっかりが陽一さんに頼っているなーて。夫婦って対等やんか、恋人も対等やけどさ。陽一さんが私に頼ってくれんのなら陽一さんは誰に頼るんって。今まで自分のことばっか考えとったけど、それに気づいた時に結婚せなって思ったんよ。結婚したら何かが劇的に変わるとか、そんなことは思っとらんけど、明確に私がおるんよって陽一さんに知ってほしくて。そういう意味も込めて、やね」

 こんな感じやけど、と鏡子姉さんが珍しく微笑みもなく私の瞳を捉えていたから心の基盤とか根底みたいな部分が揺れた。鏡子姉さんの言葉は台詞みたいにすらすら出てきたものではなくて、一つずつ選んで確かめながら声にしていたから、へえとかふうんと適当な相槌を打つのも違う気がして黙って聞いていた。私は、鏡子姉さんの私と同じ色の瞳に思考が吸い込まれて、足を踏み出すことさえ忘れていた。鏡子姉さんも足を止めてこちらを振り返っている。蝉の鳴き声はどこへいったのだろう。そう思ったそばから煩い音が耳に飛び込んできた。

 鏡子姉さんが握る私の左手だけが私をここに留めている気がしたのは、私が鏡子姉さんの手を掴んだ理由で鏡子姉さんが私を見ていたからで、鏡子姉さんの考えていることが手に取るように分かるのは、姉さんに意図的に顔に出す癖があるという以上に、私が菱田鏡子という人間の片割れだからだと、そう思う。

「ほら、早よ行かんとアイス溶けるやん?」

「溶けるわけないし」

 実はあるかもしれんなー、と鏡子姉さんがのどかな口調に戻ったことに安堵している自分がいて、この安堵が何に対してと考えると鏡子姉さんの口調にとなって、鏡子姉さんのどこかから緊張感を汲み取ったことを理解した。

 鏡子姉さんに引かれて、概ね真っ直ぐだけれど幅が歪に変化する道を再び歩き始めた。鏡子姉さんの手のひらは温かくて、指先に少し湿気った柔らかさを感じた。雫にもならない小さな汗の粒が手と手の狭間で混ざって、どちらのものだったか分からなくなった。

 こうして骨ばった、それでいてふっくらと肌触りのいい鏡子姉さんの手を見ていると、指が分かれる関節の出っ張った部分が並んだ手の甲に私の右手を添えたくなって、もしそうしたら鏡子姉さんはどんな顔をするだろうと想像してみるのだけど、笑っているようにも戸惑っているようにも思考の枝が伸びて、どうも上手く鏡子姉さんの輪郭を結べなかった。繋いだ手のままで私の頬を撫でてみたら、唇を手の甲に当てて匂いを嗅いでみたら、指を鏡子姉さんの指の隙間に滑り込ませて絡めてみたら、その想像の全ては私の中で完結した。

 蝉が鳴いている。川が流れる音がして、前方に目を見やると石造りの橋が低い位置に流れる川に架かっていた。美しいとはお世辞でも言えない緑の水面は、太陽の光を反射していて毎秒はためく白が眩しい。柵のない橋を渡り切ると、右手にコンビニがあった。閉塞的だった道が開かれて、左奥には小さな港と船が見える。もとは、このコンビニもなんとか商店とかいう名前だったのだけど、フランチャイズ契約をして、煤けた電飾付きの看板を店前に置いている。店内には相変わらず定年をとっくに過ぎたおばあちゃんが一人レジに座っていて、私たちはドアから一番近いところに置かれたアイスのショーケースを覗いた。

「何にしよっかなー。あ、ソフトクリームあるやんこれにしよ」

 鏡子姉さんは、ソフトクリームのバニラとチョコレートで暫時悩み、チョコレート味を手に取った。私は夏季限定と書かれたレモンシャーベットを選んだ。

「鐘ちゃんそれにするん? じゃあ買ってくるから待っとって」

 私の手の上に置かれたカップが気づくと鏡子姉さんの元に渡っていて、取り残された私は、その場で棒立ちのまま鏡子姉さんが会計を済ませる姿をじっと見ていた。

 クーラーがガンガンかかっていた店内を出ると一気に襲う熱気に、冷えた汗もじっとりと粘度を取り戻していく。追い風が吹いて、シャツが背中に打ち付けられて、冷えたシャツがへばりついてその温度差がなんとも気持ち悪い。

 鏡子姉さんから受け取ったカップアイスの上には、木のスプーンがちょこんと置かれている。薄いカスタードのような色合いをしたシャーベットを掬うと細かく切られたピールがいくつか入っていて、口内に一気に広がる甘さとピールを噛むと甘みを切り裂く苦味が、ぼんやりしたままの頭に響いた。

「鐘ちゃんは賢いなあ。私なんてソフトクリーム選んじゃったから、ほら、もうこんなに溶けてしまったわ。帰ったら手、洗わんとベタベタするな」

「棒アイスやなくてよかったやん。コーンがある方がまだいいやろ」

「気づいとったなら言っとってくれたらよかったやん。鐘ちゃんも食べるの手伝ってー」

 鏡子姉さんの持つソフトクリームは既に、巻かれた輪郭が溶けて一つの塊のように見える。コーンとの境目に溜まったソフトクリームだったものがコーンに乗り上げて伝い落ちている。

「私、ソフトクリームもチョコも嫌いなんよ。一人で頑張りー」

「そんなあ」

 鏡子姉さんはうーとかわーとか言いながら、三百六十度ソフトクリームを見渡して被害を最小限に抑えようと忙しなく動いている。私も早いうちに手元のシャーベットを周囲から掘り進めていく。鏡子姉さんの方も落ち着いたようで、コーンを回転させながらしゃくしゃくと軽快な音を立ててかじっていた。歯に挟まったレモンの皮が、後続のシャーベットが喉を通っていくのを見ることしかできない気持ちなんかを考えながら鏡子姉さんの隣を歩いていたのだけど、意識を自分の内側に向けていたから鏡子姉さんに私の掬い上げたシャーベットを横取りされたことに気づけなかった。スプーンを持った右手が掴まれて、指先は鏡子姉さんの口元にまで接近している。

「甘いんやね、レモンやけどそこまで酸っぱくないのも美味しいな」

 仕返しに鏡子姉さんのを食らおうとしても、鏡子姉さんはもう何も持っていなかったしチョコ味なんてタダでも食べたくない。鏡子姉さんの動きに注目しながら残りわずかの塊を切り崩す。甘くて、苦い。鏡子姉さんはピールに気が付かなかったのかしら、それとも入っていなかったの。齧ったら驚くくらい苦味がくるのだけど。この苦味が好きでよく食べていたはずなのに、最後に食べた一口が私の求めていたものとは違って思わず顔を顰めた。理由は自分にも分からなかった。鏡子姉さんは悪びれる様子もなく両手を前後に振りながら歩いている。足を高く上げれば行進に参加できるくらい強く手を振っていた。

 家に帰った頃にはすっかり夕方になっていて、鏡子姉さんはもちろんと言うように庭から座敷に上がって座布団の上に勢いよく座り込んだ。鏡子姉さんに誘われるままに横に座ると、鏡子姉さんとの距離が今日のいつよりも近くて、どんな表情をしているのが正しいか分からなかったから口をきつく結んで、胸の内側で反響する心臓の音にひとつ深呼吸した。吸った空気はいくらか体温に溶けて、いくらかは肺の底に明確な悪意を持って沈んだ。肋間が痛む。鏡を見るという行為との一番の違いはこの痛みで、鏡子姉さんの息遣い一つに、瞬きのたびにはんなりと下を向く睫毛に私は人知れず息をのんだ。

 会話がなくても、鏡子姉さんの瞳が私以外のものを視界に入れていてもそれでよかった。少しも取りこぼすことがないように、愛おしい鏡子姉さんの造形の一つ一つを眺めていた。ほんのりと赤に色づいた薄い唇の隙間から垣間見える口内の壁にかかる影とか、ちゃぶ台の上で組まれた華奢な指が私の手の内にあったことを思う。

 飽くことはなかった。

 辺りが暗くなって、親が畑から帰ってくるまで、私は時折目を瞑ったり座る姿勢を変えたりしながら鏡子姉さんの横顔を眺めていた。

 鏡ちゃん帰ってきていたの、元気にしとった、元気よ、陽一さんはまだ来とらんの、そうなんもう少しで夕飯にするけん手伝って、陽一さん夕飯には間に合うといいんやけど、鐘ちゃんぼーっとしとるけど疲れたん、今日は私が鐘ちゃん振り回したからゆっくりさせてあげてーな、そうかいな、ほら父さん、鏡ちゃん帰ってきとるよ、元気しとったか、そのやりとり母さんともしたわ、元気しとるよ、ならよかった。

 あんなに高かった空がすぐそばまで降りている気がして、どこにあるかも知らない空の目と目が合うのなんかを想像してしまったから縁側に背を向けて、大きなお寿司のセットが冷蔵庫から出されてちゃぶ台の中央に置かれ、母さんと鏡子姉さんがキッチンで何かを話しながら味噌汁やら副菜を作り始めたのを見ていた。父さんはテレビのリモコンをいじって、良さげな番組がないか見繕っている。鏡子姉さんが冷蔵庫から豆腐のパックを取り出してキッチンに置く。頭の中で鳴り響く警鐘のような衝撃が呼吸を浅くして、それは陽一さんがこの家に来る時間が刻一刻と迫ってきている焦燥感からくるものだと分かっても、陽一さんが来る事実は変わらないから、寒くもないのに震える足を宥めることができずにいた。菱田家は四人で、このままでいいじゃないか。なのに、どうして。

 鏡子姉さんが柄にもなく見透かしたあの目を思い出す。言葉に意味が成されて脳に入り込む感覚が不快だった。

「陽一さんが私に頼ってくれんのなら陽一さんは誰に頼るんって。今まで自分のことばっか考えとったけど、それに気づいた時に結婚せなって思ったんよ」

 それは、鏡子姉さんをささえるというのは、私にはできないことで、私では力不足で、陽一さんにしか、できないことなの。

 私の方が鏡子姉さんを好きなのよ、喜ばせ方も悲しませ方も甘え方だって知っている。けれど一緒にいた時間が長くたって駄目で、同性だから駄目で、家族だから駄目で、もとは一つだったから駄目だというの。

 私が妹じゃなかったら、母さんが私を姉としていたら、鏡子姉さんは私を頼ってくれた? 姉がどちらかなんて、塵として掃き捨てる程の差だというのに、その差に陽一さんがどうやって入り込もうというの。

 私が一番欲しくてそれさえあればよかった、なにものにも替えられない手札を、陽一さんはピンセットで一枚だけ抜き取っていくのだ。保たれていた私の幸せはそれだけでいとも簡単に崩れて、そうだと言うのに私は、菱田鏡子の妹として振る舞い続けなければならないの。愛する鏡子姉さんの結婚を祝福して、いい旦那さんね、なんて言っちゃって、はにかんだ笑顔を貼り付けていればいいの。

 私と鏡子姉さんでお小遣いを出し合って買っていた漫画雑誌のことを思い出した。中学生だった私たちが初めて読んだ漫画はそこで連載されていた少女漫画で、物語の途中からだというのに当然のように始まるそれを不思議に思いながら、コマがどのように繋がるのかも分からないままページを捲っていた。雑誌を畳に置いて、そう、押入れの前のちょうどここに腰を下ろして。主人公が名言でも放つような形相で叫んでいて、雑誌一面に描かれた吹き出しをふと思い出したのは、私なりの皮肉なのだろうか。

「私は先輩が好き! あなたの方が先に好きだったのかもしれない、けど! 愛は長さより重さだと思うから!」

 その発言は恋敵にでも言った台詞だったのだろう、主人公の言葉に心から共感していた当時の私は、気づけなかった。それも今なら分かる。長さなんて、重さなんてごみだ。長さも重さも、私のに及ばないものであっても鏡子姉さんの匙加減一つでそれが正となる。往信ばかりの私の愛には何の価値もないのだと知ってしまった。陽一さんを選んだ鏡子姉さんがいる、それだけのことだった。

 何度捨てても私の身の中にあるそれは、まるで呪いの人形のようで、ああ確かにこれは呪いなのかもしれないと思った。

 私がいっそのこと菱田鏡子であったなら。私の好きが自己愛として処理されるのなら、鏡子姉さんを鏡の中に映すことができたなら。

 私は菱田鏡子になりたかった。肉体だけが分裂した私の存在は不可逆か、この好きはナルシシズムによるものか、私の中に鏡子がいるように鏡子の中の私を信じていいか。そうであれば、どんなに幸せだろう。

 鏡子姉さんに私を見出すことがある。言葉の節や仕草の角に私を見つけては、たまらなく嬉しくなるのだ。何の取り柄もない私でも、鏡子姉さんごと好きでいられた。鏡子姉さんを愛せていた私は、ほんの少しだけ私のことが好きで、そのほかを先送りにして私は鏡子姉さんに恋していた。

 鏡子姉さんの後ろ姿を見ていた。今日一日中鐘に閉じ込められたように痛む頭も、胃の底でいつまでも消えないぬるい麦茶も、浅く繰り返す呼吸も、ほんのり楽になった気がして、ひどく痛む胸もおさまってくれと願ったけれどそれだけは絶えず私の思考を蝕んだ。

 光ひとつない廊下を睨みつけていた。もうすぐ、陽一さんがこの家に来て、余裕な笑みを浮かべて家族の前で結婚というワードをちらつかせた戯言を宣言するのだ。逃げたい。けれどそれは何の解決方法にもなっていなくて、死刑執行の日を待つ囚人みたいに、いつまで耐え抜けばいいのか見えない未来を目の前に置いておきながら、打つ手立てのない私はその予兆を一刻も早く知るために聞こえもしないバスの停車音を待っていた。

 麦茶を一気に流し込んだ。胃の中は麦茶しかないのに吐き気がして、自分に言い聞かせるみたいに深呼吸をしても止まらない震えに目の奥が熱くなった。どうして、こんな思いをしなければならないの。陽一さんが来たら私、本当に死んじゃうみたい、この場に私の味方なんて一人もいないわ、どうして、ここは私の家なのよ、私のものをこれ以上奪わないで、一人の幸せがこんなに盗られるなんて、何かの法律に引っ掛かるんじゃない。

 この感情はもはや、恐怖と化していた。

 

 玄関の方からインターホンが鳴った。陽一さんだ、と思った。胸に手を当てずとも心拍が分かる。お父さんが頷くので、キッチンで作業を続ける二人の背後を抜けて廊下を早歩きで過ぎて、そして玄関のドアを開けた。

「鐘子さん、お久しぶりです。お元気にしていましたか」

 背丈の高い陽一さんに見下ろされる形で私は陽一さんの笑顔を見ていた。今にも涙が溢れてしまいそうだった。潤む目をクシャと笑顔で覆うと、力を抜いたら倒れ込んでしまいそうなのが嘘みたいに、鏡子姉さんにそっくりな笑い方ができていたんじゃないかと思う。

「はい、おかげさまで」

「遅くなりました。こっちの方に帰ってくるのも何年振りといった具合で」

 陽一さんが靴を脱いで揃えると、私の後ろについて居間まで歩いた。

「陽一さん、来たよ」

 その声に、背後に立っていた陽一さんがさっと横に立ち、母さんに、父さんに会釈した。母さんはエプロン姿のまま陽一さんに近寄り、よく来たね、夕飯はもう少しでできるから待っていてねと告げてキッチンに戻って行った。移動ばっかりで疲れたっしょ、座って父さんの話し相手にでもなっとってーなという鏡子姉さんの言葉通りに、父さんの座る向かいに腰を下ろして挨拶をしたのち、二人は話し始めた。私に手伝えることはある、とキッチンに問いかけると取り皿と箸の用意お願い、というので戸棚から、箸が剣山のように束になって入った花瓶みたいな形の入れ物と醤油を入れる小皿を運んで、陽一さんの斜向かいに座った。

 母さんと鏡子姉さんが空いた座布団に座り、食卓を囲む。

 皆なんだか胡散臭い笑顔を浮かべていて、私も口角を上げようとは試みたけれど陽一さんにして見せた笑顔を作れていないことくらいは分かった。鼻のてっぺんあたりが熱くて、いつも泣く前にそこが熱を帯びていることを覚えていたから、今涙が作られているのだと思ったけれど、目の表面にまでこみ上げてはいないからまだ大丈夫、と何度も唱え続けた。

 寿司は色々なネタがあったけれど、カンパチと中トロだけを交互に食べていた。私以外は談笑しながら食事をしている。鏡子姉さんが、鐘ちゃんえび食べる? と気にかけてくれていたけれど、首を振った。陽一さんのわざとらしく私の方を心配したような視線が不愉快だった。気づくとぼうっとしていて、醤油をつけるのを忘れて何度かそのまま口に運んでいたし、醤油をつけたかさえ口に入れた時には覚えていなかった。陽一さんが母さんからの質問に答える声が耳に入ってきて、見せつけるように耳を塞いでやりたかった。うずくまるように背中を丸めて、何も考えず箸を動かしていた。


 夕飯も終盤という頃になって、皆の箸が止まった。私は既に箸を置いて、一つずつ減っていく寿司を眺めていたから突然訪れた静寂に戸惑った。

「未熟者ではありますが、必ず鏡子さんを幸せにします。鏡子さんとの結婚をお許しいただけますか」

 その瞬間を待っていたかのように、私の目には涙が滲んだ。一気に目の奥が熱くなる。私の方なんて誰も見ていないから、気づく人もいない。母さんも父さんも、鏡子姉さんも、幸せな笑顔をしていた。幸せなんだ、これが幸せなんだ。これのどこが。

「陽一さん、うちの鏡子をよろしく」

 その声に、私の中にある今の今まで耐えていた堤防のようなものが決壊した。私は泣き叫んでいた。大きな大きな声をあげて泣いた。驚き混じりで笑いかける陽一さんが、大丈夫? と私の背中をさすろうと手を伸ばしてきたので咄嗟に「触んないで!」と金切り声をあげる。私は周りの声を遮断するかのように大きな声で泣いた。なんで、意味わかんないよ、姉さんが幸せになるなら私のことはどうだっていいの、お前のせいで私はちっとも幸せじゃないんだけど、何で結婚なんてすんの、ふざけんなよ、お前のせいだ、なんでへらへらしてんの、姉さんだけじゃなくて家族も幸せにしてくれるんじゃないの、姉さんだけなの、あんたが姉さんと結婚しなけりゃ私は幸せなんだけど。母さんが私の目をティッシュで押さえて、鏡子姉さんが背中をゆっくりとさすっている。どうしたと、と困惑を声に乗せて鏡子姉さんが問うので答えようとしたが涙が止まらないし息を切らして肩で息をしていたからままならなかった。その間も陽一さんは戸惑いを浮かべているだけで、その場から動こうともしない。

「鐘子さんにも認めてもらえるように、頑張るから」

 適当なこと言ってんじゃねえよ、何を知っていてそんなこと言えるわけ、お前が嫌なんだよ、お前がいなけりゃ全部解決するんだよ、そうだよ、お前が最初からいなけりゃなんも問題ないのに、ここ私ん家なんだけど、ねえ出てってよ、ここから出てって。ねえ、ねえってば。

 幼い子が自身の存在を訴えるように、体にある限りの力を振り絞って泣きじゃくりながらねえ、お願いだから、私の幸せなの、盗らないで、と狂ったようにそればかりを口にしていた。

 鏡子姉さんが陽一さんの肩に触れる。陽一さんはようやく立ち上がると、一つ会釈をして廊下の奥に消えていった。

「鐘ちゃん、ほらゆっくり息吸って」

 ぜえぜえ喘ぐように息を吐いて、深く息を吸った。それを何度か繰り返してようやく落ち着いて目の前の景色を見ると、疲弊し切った鏡子姉さんが安堵の息を漏らしていて、私はそれに涙をこぼした。拭っても溢れる涙をそれでも拭って、号泣する気力も失われていたけれど泣くこともやまなくて咽び泣き続けていた。ぐちゃぐちゃになった顔に鏡子姉さんがティッシュを当てて、あん時説明したのじゃ足りんかった? 納得できんかった? と呟く。

 そうやなく、て、相手が、誰でも鏡子姉さん、結婚、しないで。鏡子姉さんの、話は、理解できたんやけど、それでもやなん、よ。お願いやから、姉さん、私、それだけで、いいから。

 鏡子姉さんはまだわからないと言った様子で優しさに包まれた大きな惑いが見えて、今更になって申し訳ない気がした。

「私、姉さんのこと好きやから、結婚しないで。なあ、鏡子姉さんがあの人と結婚したら、もう生きていけん。鏡子姉さんがいれば、それだけで、私は」

「鐘ちゃん、私のこと好きなん」

「そう……、言ったと思うんやけど」

 鏡子姉さんが私の返答に生返事をしたきり、沈黙が続いた。両親は陽一さんの後を追って、きっと彼の実家まで連れ歩いているだろう。両親の謝罪する姿を想像するとやはり申し訳ないと思うのだけれど、私があんなになるほど嫌なのに我慢しなければいけないというのも気に食わないので許してほしいと思う。

 泣き疲れてしまって、無性に空腹を感じたから余っているマグロの赤身を食べることにした。ひんやりしたマグロを食べていると頭全体が発熱していることに気づいて、咀嚼したマグロが普段と比べて一段と美味しい気がした。鏡子姉さんは私が食べているのを見ていたけれど、どこか上の空で私が言ってしまった言葉と陽一さんのことを考えているのだろうと思った。少し眉間に皺を寄せて考えるような仕草をしたのち、鏡子姉さんが私の方に向き直って口を開いた。

「そか、鐘ちゃんは結婚に反対やったか」

「……うん」

「やめるわ、結婚」

 私が言い出したことではあったけれど、鏡子姉さんの口から出た言葉の意味が理解できなくて、私は思わずは? と呟いていた。

「陽一さんのこと好きやけど、鐘ちゃんのほうが断然大切やから。脅迫やろ? 『姉さんが結婚したら生きていけんー』って」

「そんな言い方しとらんもん」

 悪戯がバレて親に咎められた小学生みたいにしらを切って見せたけれど、鏡子姉さんはそれはさほど重要でもないというように続ける。

「そう? けど、鐘ちゃんがあんなに溜め込んでいるって知らんかったわ。ごめん」

「なんで、そんな鏡子姉さんが謝るん」

「私、一応鐘ちゃんの姉やから。気づけんかった。これからは、ちゃんと鐘ちゃんに向き合う。だから、そんな泣かんでーな、鐘ちゃんが悲しんどるのは意味分からんやんか。な、可愛い顔が台無しやん」

 涙が通った跡が乾いて、口を開くとつっぱる感じがする顔をシャツの裾に強く擦り付けて、涙と鼻水をごちゃ混ぜにして拭いて見せたら、最高やん、と鏡子姉さんが笑ったので何度も擦って赤くなっているだろう目を弓形に歪ませて笑った。

 鏡子姉さんは、父さんも母さんもびっくりするやろね、と他人のことを言うみたいに豪快に笑っている。何か言われても気にせんでいいよ、なんたって私が味方やからね、と鏡子姉さんのこういうところが好きだと思ったそばから、なにを感じ取ったのか、鐘ちゃんは物好きやね、今ときめく所なかったやろと心底不思議そうに私の表情を覗き見ていた。

 清々しい心行きだった。鏡子姉さんが、私のどこが好きなん、教えてーなと執拗に迫ってくるのには目を閉じてこれからのことを考えた。親が帰ってくれば、残ったお寿司を食べてしまおうということになるだろう、そして順番に風呂に入り、冷蔵庫の奥に並んだハイボールの缶を取り出して晩酌をして、布団を敷いて消灯する。

 それはなにものにも変えられない時間で、鏡子姉さんがいる幸せで、ずっと続いていく私たちの姿だった。

 目の前の鏡子姉さんは、サーモンを摘んでひょいと口に入れる。満足げな表情でいる鏡子姉さんを愛おしむ感情が心に沁みて、私が私であることをこの上なく嬉しく思うのは、人生をかけて好きな鏡子姉さんの妹であるからだった。

 玄関のドアが開く音がした。

 長い夜は誰のことも待たず進み、それはいずれ南中し、朝陽に丸呑みにされて私たちの前から去る。それは決して「消える」のとは違うけれど、私が一抹の寂しさを覚えるのは、すぐ隣にいた暗い影がじわじわと薄れていくのを見るとどうしても終わりを思わずにはいられないからだと思う。

 夜は私たちを通過してどこへ向かうのだろう。

 リビングのドアが開かれる。夜は自身の消失に向かって動き続ける。

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