「ある意味怖い話」部分
1時間後。
A君は、二人の警察官と共に、再び例の寺の前に舞い戻っていた。
墓地の中で冷たい手の持ち主に声をかけられ、悲鳴を上げて逃げ出したはいいが、なにせ灯り一つない墓地である。A君、あちらの墓石につまづき、こちらの卒塔婆にぶつかりなどして、あざや傷をあちこちに作ったあげく、ようやくのことで木戸にたどり着き、外へと逃げ出した。
そのまま大声を上げつつ谷町筋を一気に走り下り、本来の目的地だったコンビニへと駆け込んだのだが、暖かい光と店員さんの姿に安心した途端、すっかりうろがきてしまい、その場でへたり込んで泣き出してしまう。
店員さんからすれば、いきなりものすごい勢いで若い男が駆け込んできたかと思うと、その場に座り込み、「よがったよお……よがった、ほんどにたずがったよお……」などとよく分からないことをつぶやきながら、ひいひい声を上げて泣き出すのだから、驚くの驚かないの。
しかも、男の姿をよく見れば、服はあちこち汚れたり破れたりだし、ジーンズの膝はすり切れて血がにじんでいる。その上、髪が額にぺったりひっつくほど汗まみれなのに、なぜかぶるぶる震えてる、ということで、これはきっとなにかあったんだ、自分たちの手には負えないと、110番通報されてしまったのである。
幸い、万博ははじまったし週末だしということで、大阪府警も市内の警戒を強めており、普段は無人で、「ご用の方はご連絡を」と書いてある電話機が置いてあるだけの交番にも、たまたま数人、警官が詰めていた。だから、連絡が入ってから10分もしないうち、そのうちの二人――ベテランと若手が、自転車に乗って駆けつけてくる。
店員から事情を聞いた後、バックヤードに連れ込まれていたA君と対面。まだショックが抜けきっていないせいで、ぶるぶる震えながらあうあう言うばかりの彼を、30分かけてなだめすかし、どうにかこうにか落ち着かせて、一体なにがあったのかを聞き出した。
その話のあまりの荒唐無稽さに警官達はあからさまに不審そうな顔だったが、こうして被害者がおり、嘘をついているようにも見えない以上、確かめないわけにはいかないと、もう嫌だ、絶対あそこには行きたくないと尻込みするA君を再びなだめすかし、共に現場の寺へとやってきたのである。
「……なにか聞こえるか?」
「……聞こえませんね」
警官達の言うとおり、時折通りかかる車の疾走音以外、辺りはすっかり静まり返っている。
「さっきは、確かに聞こえたんですけど……」
辺りの静けさで逆に落ち着いたのか、A君が、コンビニでの受け答えよりややしっかりした声で、おそるおそる答える。
「ふむ……ま、でも、一応確認する必要はあるし。あそこから入ったんだね?」
木戸を指さして、A君を見る。
彼がうなずくのを確認すると、ベテラン警官はそっと腕を伸ばし、戸板を細く開いた。
みるみるその顔が険しくなるのを見て、
「どうかしました?」
無意識に声をひそめ、若手警官がそう尋ねる。
ちらりと振り返ったベテラン警官が、「見てみろ」といわんばかり、体をずらす。そのすき間に顔を差し込み、そっと墓地を覗く。
しんと静まり返った、墓、墓、墓。もちろん、なにひとつ動くものはない。ないのだが……なにかおかしい。
あれ……そういえば、なんで墓がはっきり見えるんだ?
街灯の光が少々中に差し込んでいるにしろ、確認できるのは壁に近い数列のみのはずだ(現に、その辺りはかろうじて墓石の形が見てとれる程度にほのかに明るくなっている)。なのに、建ち並ぶ墓の様子が、どういうわけか、はっきり見てとれる。ちょうど、墓列に沿っていくつもの薄暗い、青白い明かりがいくつも点灯しているかのように。
そういえば、この静けさも、なんだか……。
なんだかおかしい。全てがぐっすり眠り込んでいる時の、あのしっとりとした静けさではなく、なんというか、空気が帯電し、なにかがやってくるのを待ち受けているかのような……押し殺した興奮が充満しているかのような静けさなのである。
すき間から目をそらし、ベテラン警官へと移す。
難しい顔でうなずく彼を見て、若手警官は、戸板のすき間から、墓地の中へと体をすべり込ませた。
懐中電灯の光を頼りに、墓列のすき間を忍び足で歩く……といいたいところだが、実のところ、不思議な青い光で足元が照らされているため、懐中電灯がなくとも問題なく歩くことができる。なのになぜ、それを点灯したまま胸元に構えているのかといえば、その方がほんの少しだけ、心強いからだ。
ベテラン警官、A君、若手の順で並び、おそるおそる歩を進めながら、三人は、かなりビビっていたのである。
ベテラン警官は、いかにもベテラン警官らしく、今まで刃物を持ちだしての夫婦げんかの仲裁や、反社組織の家宅捜索の補助など、物理的に本気でヤバいさまざまな修羅場を経験してきた。
その甲斐あって(?)、どんな状況であろうと恐怖を静め、克服し、目の前の出来事に冷静に対処できるようになれた――なれていると思っていた。
だが……その経験豊富な自分が、外面こそなんとか平静な様子を保持しているものの、内心ではこれまでと全く趣の違う、経験したことのない異様な雰囲気に圧倒され、心の底を冷たい指でまさぐられているかのように落ち着かない。
いかん、ここで自分が取り乱せば、若者たちにも伝染する。絶対に怯えてる姿を見せてはいけない、なんとか耐えるんだ……。
が、彼のそんなひそかな努力も、無駄骨となる時がやってきた。
顔色を変えぬよう努め、必要以上にゆっくりと足を前に出し、じりじりと墓地の中心を目指し、歩いていたのだが……もう少しでたどり着く、というところで、突然「じゃーん!」と大音量で管楽器、弦楽器の音が鳴り響くと同時に、大きな拍手の音が地の底から湧き上がり、同時に周囲一面が真昼のように明るくなったのである。
「ひゃああああああああっ!」
「な、なに、なんですか!なにが起こったんですか!」
「うわうわうわうわああああああああっ!」
三人が三人ともオリジナルな悲鳴を上げ、その身体と魂とを縮み上がらせて、今にも泣きそうな顔で、周囲あちこちに目を飛ばす。
と、墓石一つ一つの上に赤、白、青、黄、緑と色とりどりの人魂が天にも届くほどの勢いでめらめらと燃えさかっている。
なんじゃ、こりゃ……。
予想だにしていなかった変事に三人が呆然と立ち尽くしていると、
ちゃーんかちゃーんかちゃんかちゃんかちゃんかちゃんか……
明るい感じなのに妙にもの哀しくも聞こえるメロディーが――それも、どうやらフルオーケストラで演奏しているらしい――どこかから響きはじめる。同時に、目の前に並ぶ墓石のうえに、揃いの華やかな振り袖に髪を島田に結った半透明の若い女性が数人現れ、確かな手つき足取りで、音楽に合わせ、踊り始める。
地の底から湧き上がる拍手の音は割れんばかりに高まり、それにつれて期待感も一層高まっていく中、白地に藍で柳の描かれた渋い浴衣姿の男が墓石の向こうからせり上がるように現れ、満面の笑みで会釈する。
ちゃらら、ちゃらら、ちゃらちゃらちゃらら……
オーケストラの前奏に合わせ、男はあたかもマイクを握っているかのように右手を顔の前に差し上げると、夕刻のカラスを思わせるやや甲高い声で、
「月がァ~」
と歌い出した。
そこへ。
あまりの出来事に唖然としてことの成り行きを見守っていたベテラン警官がようやく我に返り、「ぴいいいいいいいっ!」と呼子を吹き鳴らした。
だが、周囲の音に紛れて聞こえないのか、男は相変わらず、「路地ぃ裏ぁにぃぃぃぃぃ」と気持ちよさそうに歌い続ける。
再び呼子を口に当て――遅ればせながら我を取り戻した若手警官と共に、二度、三度と吹き鳴らすと、全て調和の取れた中で鳴り響く異音にようやく気づいたのか、男は歌うのをやめ――同時にオーケストラも、拍手も鳴り止み、踊り子さんたちも動きを止めて――彼らに注目する。
「……なにか?」
丸々としたふくふくしい顔に軽い疑念と困惑を浮かべ、浴衣の男は尋ねた。
その「困りますよ、邪魔をされては」を体現した態度が、警官の怒りに火をつけたのだろうか。
「なんですか、いったい!こんな夜中に、この大騒ぎはなんなんですか!」
「そうですよ!時間も時間だし、場所も場所だ!なんだってこんな墓地で、大声で歌うんです!」
ベテランも若手も、大声でなじる。
と、浴衣の男はつかの間、驚いたような表情を浮かべたが、すぐになにか思い当たったかのような、完爾とした笑みを顔に浮かべ、そういうことでしたか、ご心配なく、大丈夫、あなたがにもきっとご納得いただけるはずです、といわんばかりに、大きくうなずく。
そして、手のひらを上に大きく広げ、広い墓場を見渡すかのようにあちらこちらへにこやかに目を配りつつ、おもむろに言ったのである。
「お客様は、ホトケ様です」
目を点にして、カクンと口を開いたまま、三人がただただその場にたたずむ中、再び万雷の拍手が巻き起こり、オーケストラの演奏音も再開。踊り子達が見事に揃った足取りで踊りはじめ……そして、浴衣の男は、天にも地の底にも届けとばかり、高らかに歌い出す。
リサイタルは、まだ始まったばかりなのだ。
「ある意味怖い話」部分投稿。今回で完結。「こんなバカな話を思いつくアンタが怖いよ」などと思っていただければ本望です。