はえ氏の暗転
近頃、彼女の涙を頻繁に見るようになった。
犬が聞いたことによると、彼女は最近、男の交際が上手くいっていないのだという。
「嬉しいだろ?」
彼女の涙を見たくない。
彼女の泣き声を聞きたくない。
玄関扉の下部に設置されたの動物専用ドアから、私と犬は外に出た。
玄関先のポーチに腹這いに寝そべった犬が、そう言った。
「どういうことだ」
「ミライが言っていたんだよ。
もう、男と別れるって。
おめえにとって最も邪魔なヤツがいなくなるんだぜ。
嬉しくねぇのかぁあ?」
◆
――答えられない。
それが……男との亀裂が原因で、彼女が涙している。
そんなの、嬉しいわけがない。
だが、狂喜乱舞とはいかずとも、彼らの不仲を喜ぶ自分がいるのもまた事実だ。
私はうつ向いて、ギュッと口をつぐんだ。
「もぉ良い」
犬がぶふうと息を吐く。
私は犬を見ずに、きつく目を閉じた。
◆
「…………」
私は犬と、二人して黙りこむ。
あまりに静かなものだから静寂の音が聞こえる気がした。
「……そろそろ、中に入るか」
ぽつりと犬が洩らした。
私はその場で翅を羽ばたかせ、勢いをつけて地面を蹴った。
◆
翌日。
私は部屋の隅に蹲り、体をちぢこませていた。
床には、点々と目に鮮やかな染み――血だ。
私は、ついさっきこの部屋で起こった出来事を思いだし、身を震わせた。
◆
きっかけは……彼女の言葉。
『別れましょう』
空が赤く色付き始めた頃に彼女は男を呼び出した。
彼との交際を解消するためだ。
彼女は男を室内に招き入れ、居間に通した。
私は犬と二人、居間の隣室にあたる座敷で、なにも喋らず、ただ黙っていた。
犬もどこかうつ向きかげんで、無言であった。
居間と座敷を切り離す薄い境界線ごしに、私はビリビリとした緊張感を、背中ごしに感じていた。
◆
一体どれほどの沈黙が駆け抜けただろうか。
音と声のない空間に、彼女の声が流れた。
「言いたいことがあるの。
別れましょう」
◆
――まるでそれが合図であり、最初から打ち合わせていたかのように。
次の瞬間、男が声を張って何かを叫んだ。
よほど頭に血が登ったのか興奮しているのか、それは早口で、聞き取れない。
だが。
「なぁ、これっ……
ヤバいんじゃねぇか?」
「……。あぁ」
私と犬が事態の深刻さをはかるには、十二分に事足りた。
◆
座敷の入り口――ふすまに僅かな隙間が開いているのを、犬はめざとくも見付けた。
そこに鼻を差し入れ、力ずくでこじあける。
「!」
男が拳を握り締め、彼女の襟首を掴み上げていた。
まずい……!
そのときだった。
座敷から飛び出した犬が男に突進し、その左足首に噛みついたのは。
◆
犬が噛みついたことで、男の顔が痛みに歪んだ。
拳が解かれ、襟首から手が離れる。
犬は彼女を救うことに成功した。
しかし……。
雑言を吐き出した男は、犬の牙が突き刺さった足を乱暴に振り払う。
犬が男の足から離れ投げ出され、居間の床を滑った。
「やだ、マッシュ!」
悲鳴にも似た声をあげ、彼女が犬に駆け寄る。
犬が気掛かりで、最早男など眼中にないのか。
ぴくりとも動かない犬を抱き上げて、彼女は家を飛び出した。
強制的に喧嘩を終了させられた男は、そこらのものにあたりちらして、家を出た。
そして大きな部屋にひとり残された私は、今目の前で確かに繰り広げられた出来事の恐怖から、体が震えて動けずにいた。
◆
あれから、どれほどの時間が流れただろうか。
鮮やかな色を放っていた空は今は群青に染まり、星と月で着飾っている。
彼女の危機に、何も出来なかった。
犬が飛び出していったあのときだって、ただ見ていることしか出来なかった。
私の力など、彼女やあの男、犬にとっては皆無に等しいだろう。
それでも……
それでも……なにか、私にだって、やれることがあった筈なんだ。
そんなことすら考えられずに。
何が、“好き”だ。
「情けない……」
思わず、声が洩れた。
自分の無力さが、ほとほと嫌になる。
嫌になって、腹が立つ。
◆
――玄関の扉が開く音がした。
マッシュ、大丈夫? と、聞きなれた声が聴こえてくる。
彼女が帰ってきた……!
◆
私は、彼女と犬をみやった。
彼女は此方に背を向け、ソファの足元に跪いていた。
ソファには丸く柔らかそうなクッションが敷かれ、犬がそれを枕にしていた。
犬の体が規則的に、確かな呼吸を刻んでいる。
ずくんと、胸が痛んだ。
ハエなんだから、ムシなんだから、人間の胸とは違うだろうに。
そんなことが頭をよぎったが、すぐにどこかへ流れ去った。
私は頭を振るい、顔面を両手で覆った。
みていられない……!
……彼らに合わせる顔がない。
何も出来ずに動けなかった、彼女の……犬の、危機に私は何も出来なかった。
その光景の恐ろしさから、全身が床に縫いとめられた。
本当に恐ろしかったのは、男と対峙した彼女と犬だった筈なのに。
私は、かげから見守ることしか出来ない。
彼らの頭を撫で、側に寄り添って、安心させることさえ出来ないくせに。
――もう、今回のようなことが起こりませんよう。
私は透明な涙を流し、その感情に溺れた。
やがて群青の夜は明け、澄みきった青の朝がやってくる。