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はえ氏の暗転

 近頃、彼女の涙を頻繁に見るようになった。

犬が聞いたことによると、彼女は最近、男の交際が上手くいっていないのだという。


「嬉しいだろ?」

 彼女の涙を見たくない。

彼女の泣き声を聞きたくない。

玄関扉の下部に設置されたの動物専用ドアから、私と犬は外に出た。


 玄関先のポーチに腹這いに寝そべった犬が、そう言った。

「どういうことだ」

「ミライが言っていたんだよ。

もう、男と別れるって。

おめえにとって最も邪魔なヤツがいなくなるんだぜ。

嬉しくねぇのかぁあ?」



 ――答えられない。

それが……男との亀裂が原因で、彼女が涙している。

そんなの、嬉しいわけがない。

だが、狂喜乱舞とはいかずとも、彼らの不仲を喜ぶ自分がいるのもまた事実だ。

 私はうつ向いて、ギュッと口をつぐんだ。


「もぉ良い」

 犬がぶふうと息を吐く。

私は犬を見ずに、きつく目を閉じた。



「…………」

 私は犬と、二人して黙りこむ。

あまりに静かなものだから静寂の音が聞こえる気がした。

「……そろそろ、中に入るか」

 ぽつりと犬が洩らした。

私はその場で翅を羽ばたかせ、勢いをつけて地面を蹴った。



 翌日。

私は部屋の隅に蹲り、体をちぢこませていた。

床には、点々と目に鮮やかな染み――血だ。


 私は、ついさっきこの部屋で起こった出来事を思いだし、身を震わせた。



 きっかけは……彼女の言葉。


『別れましょう』


 空が赤く色付き始めた頃に彼女は男を呼び出した。

彼との交際を解消するためだ。


 彼女は男を室内に招き入れ、居間に通した。

私は犬と二人、居間の隣室にあたる座敷で、なにも喋らず、ただ黙っていた。

犬もどこかうつ向きかげんで、無言であった。


 居間と座敷を切り離す薄い境界線ごしに、私はビリビリとした緊張感を、背中ごしに感じていた。



 一体どれほどの沈黙が駆け抜けただろうか。

音と声のない空間に、彼女の声が流れた。

「言いたいことがあるの。



別れましょう」



 ――まるでそれが合図であり、最初から打ち合わせていたかのように。


 次の瞬間、男が声を張って何かを叫んだ。

よほど頭に血が登ったのか興奮しているのか、それは早口で、聞き取れない。

 だが。


「なぁ、これっ……

ヤバいんじゃねぇか?」

「……。あぁ」

 私と犬が事態の深刻さをはかるには、十二分に事足りた。



 座敷の入り口――ふすまに僅かな隙間が開いているのを、犬はめざとくも見付けた。

そこに鼻を差し入れ、力ずくでこじあける。



「!」

 男が拳を握り締め、彼女の襟首を掴み上げていた。

まずい……!



 そのときだった。

座敷から飛び出した犬が男に突進し、その左足首に噛みついたのは。



 犬が噛みついたことで、男の顔が痛みに歪んだ。

拳が解かれ、襟首から手が離れる。

犬は彼女を救うことに成功した。

しかし……。


 雑言を吐き出した男は、犬の牙が突き刺さった足を乱暴に振り払う。

犬が男の足から離れ投げ出され、居間の床を滑った。


「やだ、マッシュ!」

 悲鳴にも似た声をあげ、彼女が犬に駆け寄る。

犬が気掛かりで、最早男など眼中にないのか。

ぴくりとも動かない犬を抱き上げて、彼女は家を飛び出した。


 強制的に喧嘩を終了させられた男は、そこらのものにあたりちらして、家を出た。



 そして大きな部屋にひとり残された私は、今目の前で確かに繰り広げられた出来事の恐怖から、体が震えて動けずにいた。



 あれから、どれほどの時間が流れただろうか。

鮮やかな色を放っていた空は今は群青に染まり、星と月で着飾っている。



 彼女の危機に、何も出来なかった。

犬が飛び出していったあのときだって、ただ見ていることしか出来なかった。

 私の力など、彼女やあの男、犬にとっては皆無に等しいだろう。

それでも……

 それでも……なにか、私にだって、やれることがあった筈なんだ。


 そんなことすら考えられずに。

何が、“好き”だ。



「情けない……」

 思わず、声が洩れた。

自分の無力さが、ほとほと嫌になる。

嫌になって、腹が立つ。



 ――玄関の扉が開く音がした。

マッシュ、大丈夫? と、聞きなれた声が聴こえてくる。


彼女が帰ってきた……!



 私は、彼女と犬をみやった。

彼女は此方に背を向け、ソファの足元に跪いていた。

ソファには丸く柔らかそうなクッションが敷かれ、犬がそれを枕にしていた。

犬の体が規則的に、確かな呼吸を刻んでいる。



 ずくんと、胸が痛んだ。

ハエなんだから、ムシなんだから、人間の胸とは違うだろうに。

そんなことが頭をよぎったが、すぐにどこかへ流れ去った。


 私は頭を振るい、顔面を両手で覆った。

みていられない……!


 ……彼らに合わせる顔がない。

何も出来ずに動けなかった、彼女の……犬の、危機に私は何も出来なかった。

その光景の恐ろしさから、全身が床に縫いとめられた。

本当に恐ろしかったのは、男と対峙した彼女と犬だった筈なのに。




 私は、かげから見守ることしか出来ない。


彼らの頭を撫で、側に寄り添って、安心させることさえ出来ないくせに。



 ――もう、今回のようなことが起こりませんよう。


 私は透明な涙を流し、その感情に溺れた。




 やがて群青の夜は明け、澄みきった青の朝がやってくる。

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