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はえ氏の日常

 彼女が、部屋に戻ってきた。

薄着に一枚上着を羽織り、高価そうなバッグを持っている。外出するのだろう。

 彼女の足元にまとわりつく影が目についた。そちらに視線を向ける。


 それは栗色の小型犬だった。

ぺたんと垂れた耳に、前に突きだした鼻。くりくり丸い、つぶらな瞳。

ご機嫌に尻尾を揺らしている。

――マッシュ。そんな名前の、オスの小型犬。


「それじゃあマッシュ、行ってくるからねえ」

 彼女は床に膝をつき、犬の腰に手をまわした。

そうしてその鼻面に、艶やかな桃色の唇を近付ける。

犬はまんざらでもないようだ。


 低温の炎にも似た感情に支配された私は、『それ』が見えないよう両手で顔面を覆いながら、顔をそらした。

嗚呼……




羨ましいっ…………!



 永遠にも似た『その』ときが過ぎ、彼女は立ち上がった。

「それじゃマッシュ、ばいばい」そう言って、部屋を後にする。

時計の陰から彼女を見ると玄関の扉を開けて、出ていくところだった。


 扉が閉まり、この家の住人がいなくなると、犬は私に話しかけてきた。

「おめえ、そこでなにやってんだぁあ?」



 細かい糸の集合体にも似た尾をはたはたと振り、にやつきながら犬が言った。

私は時計裏から抜け出し、時計本体に腰を下ろした。


「ミライのヤツ、友達と遊ぶんだと」訊いてもいないのに、犬が発言した。


「どうよ?」

「なにがだ」

「ミライの言う『友達』ってのは、男だ。オスだ。

昨日、寝る前に言ってたぜぇえ。

『明日、彼と遊ぶんだー』ってな。

さっきだって、すげぇ気合い入れてめかしこんでた。

あれは女友達と遊ぶときの比じゃあねぇよ」


 軽やかな身のこなしで、ソファに飛び乗ると、犬は腹這いに寝そべった。

『伏せ』の格好だ。

「それが、どうした?

なにが言いたい」



「あきらめなぁ」

 言葉尻に悪意を込めた口調で、ゆっくりゆっくり。犬は愉しそうに尻尾を揺らして。


「おめえ、ミライのことが好きなんだろ?

無理無理。とっとと諦めちまいなぁあ。

だっておめえ、ムシじゃねぇかぁ。

それも汚くて、不衛生なハエ」

 それは百も承知だ。

私がムシでなくヒトであればと思ったことは、三度や五度ではきかない。


「仮におめえが人間だったとしても、無理なハナシだってぇの。


ミライには、もう付き合ってるヤツがいるからなぁ」



「そんな、ことは……」

 私の中に、奇妙な敗北感とやるせなさがドッとなだれ込んでくる。

体の内側で、それらの思いがじわじわ勢力を拡大し、ゼリー状に固まっていく。


「……わかっているさ」

 ……わかっている、つもりだ。

彼女には、彼女と同じ人間の恋人がいる。それは私も知っている。

彼女はよく、その彼を家に連れて来るから。



それはわかっている。

理解……している。



 既知の事実だからこそ、それを指摘されて心が揺らぐのだ。



「あ、そーだ」

 何か思い出したかのように、犬がつと顔を上げた。


「昨日、ミライがケーキを買っていたんだ。

……一緒に食おうぜぇ」

「……ケーキは犬には毒なんじゃないのか?」

「うるっせぇなぁ」

 そう言って犬は立ち上がり、床に降りた後、ぶるぶるっと体を振るわせた。


「おめえも来るか?

っていうか、来なぁ。

ケーキの隠し場所なら知ってるぜぇ」

「……そもそも、それはお前のものではないだろう。

彼女が、楽しみに取っておいてるものなんじゃないのか」

「良いから良いから!

気にすんなよ、そんなん。

ハエが遠慮するなんて聞いたことがねぇ」

 ……何てヤツだ。



 犬がキッチンの戸棚から四角い、真っ白な箱を引っ張ってきた。

鼻を駆使して、器用なものだ、蓋をいとも簡単に開ける。


 渦巻き状の黄金色のクリームの天辺に、ちょこんと栗が一粒乗っている。

こんがり焼かれた土台が、独特な形状の薄い紙に包まれている。

これは確か、モンブランといったな。


 淡い黄色の土台にクリームとイチゴが練りこまれ、雪化粧を施し、その上にイチゴが乗っている。

これはショートケーキか。



 箱の中には、モンブランが五つと、ショートケーキが三つ入っていた。

ごくり。犬の喉がなる。



「よっしゃ、食うぜえ!」

 もうこの犬に何を言ったって無駄だ。

そう学習した私は、椅子の背持たれにとまり、事態を静観することにした。


「どうなっても知らないからな」

 目をきらきらさせて、箱に顔をうずめる犬。


 室内に、咀嚼の音と、時計がときを刻む音だけが響いている。

「モンブラン、うめー」

「そうか良かったな」

 ほぼ棒読みで、私は返した。

犬は三個目に口をつける。



 因みに、ケーキを食べたことにより犬がかなりタチの悪い体調不良を起こし、動物病院送りになったのは言うまでもない。



「おめえよぉ、ミライのどこが好きなんだ?」

 ケーキの件から暫くたったある日。

すっかり元気になった犬が私に訊いてきた。


「わかんねぇんだよなぁ。

どこが良いんだ?

超狂暴になるじゃねぇか、おめえを見付けると」

「それは、そうだが……」

「正直、おっかなくねぇのかぁ?」


 ――恐くないといったら嘘になる。

彼女が持つ新聞紙の武器は人間や犬には大したものでなくても、少なくとも私にとってアレは、強力な鈍器だ。

殺虫剤だってそうだ。

あれは毒にも等しい。


 そんなものを振り回されたら……生きた心地がしない。

それらを振り回して私を追い掛ける彼女の姿は、正直……おぞましくもある。


 実際、目にも止まらぬ速さで攻撃を繰り出して来るのだ。


 今、こうして生きていられるのは、私がとてつもない強運の持ち主だからだろう。

そのぶん、凶運も強いと思うが……。



「何か、反応しろよなぁ」

 黙りこんだ私へ、犬が不機嫌そうに言った。

私は考えをまとめ、先ほどの『おっかなくないのか』という問いに答える。


「……確かに、彼女に見付けるとゾッとするよ。

命の危機だからな……。

でも、それと同時に、嬉しいんだ」

「なんか、おかしくねぇかぁ?」

 私は息を吐き、薄く笑みを浮かべる。



「おかしい。そう思ってくれても構わんさ、私は……


そういう面もひっくるめた彼女の全てが好きなんだ」


 犬がへっという表情で、顔をそらした。

「言ってて、恥ずかしくねぇのか?

ハエのくせに」

「聞いてて、恥ずかしいのか?

イヌのくせに」


 ふんっと鼻を鳴らす犬。

彼は立ち上がり、こんな言葉を残して、この場を去っていった。

「おめえなんかとっととミライに潰されちまえー!」



 犬の捨て台詞に苦笑し、私は、私以外誰もいなくった部屋で、スウと気持ちを落ち着かせる。



私は、彼女が好きだ。



 ハエとヒトで種族は違えど、私は彼女のことを愛している。


 最近になって、思う。

彼女に見付かり、武器を手に追い掛け回されたからといって、逃げる必要はないのではないか?


最近になって思う。

ここ最近になって、思う。


彼女になら、殺されてしまっても良いかもしれない。

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