はえ氏の日常
彼女が、部屋に戻ってきた。
薄着に一枚上着を羽織り、高価そうなバッグを持っている。外出するのだろう。
彼女の足元にまとわりつく影が目についた。そちらに視線を向ける。
それは栗色の小型犬だった。
ぺたんと垂れた耳に、前に突きだした鼻。くりくり丸い、つぶらな瞳。
ご機嫌に尻尾を揺らしている。
――マッシュ。そんな名前の、オスの小型犬。
「それじゃあマッシュ、行ってくるからねえ」
彼女は床に膝をつき、犬の腰に手をまわした。
そうしてその鼻面に、艶やかな桃色の唇を近付ける。
犬はまんざらでもないようだ。
低温の炎にも似た感情に支配された私は、『それ』が見えないよう両手で顔面を覆いながら、顔をそらした。
嗚呼……
羨ましいっ…………!
◆
永遠にも似た『その』ときが過ぎ、彼女は立ち上がった。
「それじゃマッシュ、ばいばい」そう言って、部屋を後にする。
時計の陰から彼女を見ると玄関の扉を開けて、出ていくところだった。
扉が閉まり、この家の住人がいなくなると、犬は私に話しかけてきた。
「おめえ、そこでなにやってんだぁあ?」
◆
細かい糸の集合体にも似た尾をはたはたと振り、にやつきながら犬が言った。
私は時計裏から抜け出し、時計本体に腰を下ろした。
「ミライのヤツ、友達と遊ぶんだと」訊いてもいないのに、犬が発言した。
「どうよ?」
「なにがだ」
「ミライの言う『友達』ってのは、男だ。オスだ。
昨日、寝る前に言ってたぜぇえ。
『明日、彼と遊ぶんだー』ってな。
さっきだって、すげぇ気合い入れてめかしこんでた。
あれは女友達と遊ぶときの比じゃあねぇよ」
軽やかな身のこなしで、ソファに飛び乗ると、犬は腹這いに寝そべった。
『伏せ』の格好だ。
「それが、どうした?
なにが言いたい」
◆
「あきらめなぁ」
言葉尻に悪意を込めた口調で、ゆっくりゆっくり。犬は愉しそうに尻尾を揺らして。
「おめえ、ミライのことが好きなんだろ?
無理無理。とっとと諦めちまいなぁあ。
だっておめえ、ムシじゃねぇかぁ。
それも汚くて、不衛生なハエ」
それは百も承知だ。
私がムシでなくヒトであればと思ったことは、三度や五度ではきかない。
「仮におめえが人間だったとしても、無理なハナシだってぇの。
ミライには、もう付き合ってるヤツがいるからなぁ」
◆
「そんな、ことは……」
私の中に、奇妙な敗北感とやるせなさがドッとなだれ込んでくる。
体の内側で、それらの思いがじわじわ勢力を拡大し、ゼリー状に固まっていく。
「……わかっているさ」
……わかっている、つもりだ。
彼女には、彼女と同じ人間の恋人がいる。それは私も知っている。
彼女はよく、その彼を家に連れて来るから。
それはわかっている。
理解……している。
既知の事実だからこそ、それを指摘されて心が揺らぐのだ。
◆
「あ、そーだ」
何か思い出したかのように、犬がつと顔を上げた。
「昨日、ミライがケーキを買っていたんだ。
……一緒に食おうぜぇ」
「……ケーキは犬には毒なんじゃないのか?」
「うるっせぇなぁ」
そう言って犬は立ち上がり、床に降りた後、ぶるぶるっと体を振るわせた。
「おめえも来るか?
っていうか、来なぁ。
ケーキの隠し場所なら知ってるぜぇ」
「……そもそも、それはお前のものではないだろう。
彼女が、楽しみに取っておいてるものなんじゃないのか」
「良いから良いから!
気にすんなよ、そんなん。
ハエが遠慮するなんて聞いたことがねぇ」
……何てヤツだ。
◆
犬がキッチンの戸棚から四角い、真っ白な箱を引っ張ってきた。
鼻を駆使して、器用なものだ、蓋をいとも簡単に開ける。
渦巻き状の黄金色のクリームの天辺に、ちょこんと栗が一粒乗っている。
こんがり焼かれた土台が、独特な形状の薄い紙に包まれている。
これは確か、モンブランといったな。
淡い黄色の土台にクリームとイチゴが練りこまれ、雪化粧を施し、その上にイチゴが乗っている。
これはショートケーキか。
箱の中には、モンブランが五つと、ショートケーキが三つ入っていた。
ごくり。犬の喉がなる。
◆
「よっしゃ、食うぜえ!」
もうこの犬に何を言ったって無駄だ。
そう学習した私は、椅子の背持たれにとまり、事態を静観することにした。
「どうなっても知らないからな」
目をきらきらさせて、箱に顔をうずめる犬。
室内に、咀嚼の音と、時計がときを刻む音だけが響いている。
「モンブラン、うめー」
「そうか良かったな」
ほぼ棒読みで、私は返した。
犬は三個目に口をつける。
因みに、ケーキを食べたことにより犬がかなりタチの悪い体調不良を起こし、動物病院送りになったのは言うまでもない。
◆
「おめえよぉ、ミライのどこが好きなんだ?」
ケーキの件から暫くたったある日。
すっかり元気になった犬が私に訊いてきた。
「わかんねぇんだよなぁ。
どこが良いんだ?
超狂暴になるじゃねぇか、おめえを見付けると」
「それは、そうだが……」
「正直、おっかなくねぇのかぁ?」
――恐くないといったら嘘になる。
彼女が持つ新聞紙の武器は人間や犬には大したものでなくても、少なくとも私にとってアレは、強力な鈍器だ。
殺虫剤だってそうだ。
あれは毒にも等しい。
そんなものを振り回されたら……生きた心地がしない。
それらを振り回して私を追い掛ける彼女の姿は、正直……おぞましくもある。
実際、目にも止まらぬ速さで攻撃を繰り出して来るのだ。
今、こうして生きていられるのは、私がとてつもない強運の持ち主だからだろう。
そのぶん、凶運も強いと思うが……。
◆
「何か、反応しろよなぁ」
黙りこんだ私へ、犬が不機嫌そうに言った。
私は考えをまとめ、先ほどの『おっかなくないのか』という問いに答える。
「……確かに、彼女に見付けるとゾッとするよ。
命の危機だからな……。
でも、それと同時に、嬉しいんだ」
「なんか、おかしくねぇかぁ?」
私は息を吐き、薄く笑みを浮かべる。
◆
「おかしい。そう思ってくれても構わんさ、私は……
そういう面もひっくるめた彼女の全てが好きなんだ」
犬がへっという表情で、顔をそらした。
「言ってて、恥ずかしくねぇのか?
ハエのくせに」
「聞いてて、恥ずかしいのか?
イヌのくせに」
ふんっと鼻を鳴らす犬。
彼は立ち上がり、こんな言葉を残して、この場を去っていった。
「おめえなんかとっととミライに潰されちまえー!」
◆
犬の捨て台詞に苦笑し、私は、私以外誰もいなくった部屋で、スウと気持ちを落ち着かせる。
私は、彼女が好きだ。
ハエとヒトで種族は違えど、私は彼女のことを愛している。
最近になって、思う。
彼女に見付かり、武器を手に追い掛け回されたからといって、逃げる必要はないのではないか?
最近になって思う。
ここ最近になって、思う。
彼女になら、殺されてしまっても良いかもしれない。