微睡の箱庭
おやすみ おやすみ 良い夢を
怖いことも 悲しいことも
眠ってしまえば忘れられる
笑っていよう
みんなで仲良く いつまでも
泣いているのは誰?
怒っているのは誰?
寝ない子は誰?
悪い子には 悪魔がくるよ
怖いことも 悲しいことも
すべて忘れて
さあ 眠りなさい
***
巨大な壁のようにそびえる岩山に囲まれたわずかな平地に、その集落はあった。
黒々とした山と、白い万年雪のモノトーンの中に息づく緑の草地。そこでは羊達がのんびりと草を食み、点在する数軒の木の家々は玩具のようで、まるでよくできた箱庭のような牧歌的な場所だ。
人々はそこで作物を育て、羊を飼って生活している。
一年の大半を雪に覆われ、岩ばかりの痩せた土地なので生活は苦しいが、皆、少ない食料を分け合い、仲良く平和に暮らしていた。
その村に住む娘、デイジーは、集落の真ん中を流れる川でいつものように水汲みをしていた。
山からの雪解け水で冷たく澄んだ水は、触れると身震いするほど冷たい。
そろそろ短い夏が終わる。
毛織りの服を何枚も重ねていても、寒がりの彼女には辛い季節がやってくる。
(ずっと夏ならいいのに)
憂鬱な心を静めるように、デイジーは首にかけたペンダントを握る。
深呼吸をしてから、桶を持ち上げ歩き出したデイジーは、羊を放牧している囲いの側にぼんやりと佇む、見知った人影を見つけた。
「リア!」
リアと呼ばれた少女は、その声に嬉しそうに振り返った。
「デイジー!今帰り?重そうね。持ってあげようか?」
先程の虚ろな表情が嘘のように、いつもの太陽のような笑顔で駆け寄ってくる。
いつも明るくお喋りなリアは、デイジーの幼馴染だ。
「ありがとうリア。私は慣れてるから大丈夫よ。それより…、あなたの方こそ大丈夫なの?」
「大丈夫ってなにが?」
「ジャックのことよ」
声を潜めて問うデイジーに、リアはポカンとして首を傾げる。
おさげに編んだ、明るい茶色の髪が揺れた。
「ジャック?ジャックがどうかしたの?」
リアの反応に、デイジーは、しまったと口を噤んだ。
「う、ううん。なんでもない!」
いけない。いけない。
彼女はせっかく”処置”を受けたのに、辛いことを思い出させちゃいけないわ。
処置。
それは、この村ではよくあることだ。
この村の、古くからの言い伝えでは、怒りや悲しみといった感情は争いを呼び、悪魔を呼ぶと恐れられている。
だから、人々は教会から配られた卵ほどの大きさの丸い宝石のようなペンダントを肌身離さず身につけている。
これは”おまもり”と呼ばれ、普段は青、持ち主が強い負の感情を感じると赤色に変わる。そんな時に握って目を閉じれば、不快な感情が消えていく道具だった。
しかし、あまりにも強い悲しみや怒りは、おまもりだけで消すことはできない。そんな時には教会で処置と呼ばれる行為を行ってもらわなければならない。
(リア…、本当に忘れちゃったんだ。あんなにジャックのことが好きだったのに)
教会の奥には棺のようなベッドがあって、そこで眠れば、負の感情の原因となる記憶ごと消してくれるという。
リアには三つ歳上で十八歳のジャックという恋人がいたのだが、彼は先日夫を亡くし未亡人になった羊飼いのリリスに心を移してしまったのだった。
それを受け入れられなかったリアは、深い悲しみのあまり床に伏せ、心配した両親に教会に連れて行かれて、彼との記憶を消す処置を受けたのだ。
「なんだか今日おかしいわよデイジー。あら?」
リアの声に目を向ければ、なだからかな緑の丘でのんびりと草を食む羊達の傍らで、件のジャックとリリスが嬉しそうに寄り添っているのが見えた。
しまったと慌てるデイジーだが、リアは無邪気に笑った。
「ああ、ジャックとリリスね!あの二人、いつの間に仲良くなったのかしら。リリスも旦那さんが死んで処置しなきゃいけないくらい落ち込んでたけど、元気になってよかったわね!」
いつもの彼女らしいと言えばそれまでだが、全く他人事のようにはしゃぐリアに、なぜかデイジーはザワザワとした違和感を覚えながら曖昧に頷いた。
「ああ…、そう…よね。よかったわ」
「 ほんとにおかしいわよデイジー?元気ないじゃない。何かあった?お母さん、具合悪いの?」
「ほんとに大丈夫だってば。寒くなってきたなって憂鬱なだけ。母さんは相変わらず。最近はずっと寝てるわ」
心配そうに詰めよってくる友人に、苦笑して返すデイジー。
「そっか。ならいいんだけど。あ、私、おつかいの途中だったんだ!そろそろ帰らなきゃ。デイジーも、早くお母さんの所に帰ってあげなね」
リアは安心したように、明るく別れを告げて走り去っていった。
(私もそろそろ帰らなきゃ)
集落を囲む山脈に切り取られた空の色は、もう変わり始めている。
瞳と同じ色の夕焼けを見上げて、デイジーは小さなため息をついた。
僅かに赤く色づいた胸元のおまもりを、祈るように握りしめた後、足元に置いていた桶を持ち上げ歩き出す。
(大丈夫。考えたって仕方ないわ)
悪いことなんて考えちゃいけない。
あんなに苦しんでいたリアだって、処置のおかげで、今はあんなに元気になったんだもの。
「おやすみ おやすみ 良い夢を」
それは、この村に伝わる古い子守歌。
代々、親から子へと伝えられてきた、優しく、どこか悲しげな曲。
デイジーも、母に歌ってもらうこの歌が大好きだった。
家で待っている病床の母を思い、デイジーは子守歌を口ずさみながら、足早に家路を急いだ。
「おかえりデイジー」
重い木製の扉を開けると、夕食を作っていた父がふり返り笑いかけてきた。
「重かったろう。いつもすまないね」
申し訳なさそうに笑う父は、まだ四十手前だというのに、柔和な顔はどこか疲れていて、歳よりも老けて見える。デイジーと同じ黒髪には白髪も目立っていた。
「ううん。父さんこそ疲れてるでしょ。母さんの具合はどう?」
「落ち着いているよ。今は起きているから、ついでに薬を持っていってあげてくれ」
「わかったわ」
デイジーは、竈門にかけられていたポットとスープをお盆に乗せて、奥の寝室へ運んでいった。
「母さん、具合はどう?お薬よ」
寝室のドアを開けると、布団の上で身を起こしていた母が、やんわりと微笑んだ。
「あら…。ありがとう。えっと…あなたは…?」
「…もう、母さんったら、また忘れちゃったの?あなたの娘のデイジーよ!」
おまもりを握り、デイジーは笑顔を作って答える。
ポットからハーブティーを注ぐと、甘くいい香りが広がった。
「そう…だったわね…」
母はニコニコと笑い、ハーブティーに口をつける。
このお茶は薬でもある。
資源に乏しい、閉ざされたこの村では、数少ない薬草から作った薬しかない。
教会の司祭様は様々な知識を持っていて、簡単な手術くらいならできるのだが、母のような手の施しようがない重い病の場合に、せめて苦しまないよう処方されるのがこのハーブティーだった。
よく効く薬だが、これは苦痛を和らげる代わりに意思や記憶を消してしまう副作用がある。
だが、病気に苦しむよりはずっといい。
苦痛や死の恐怖など、感じない方がいいのだ。
服用を重ねるにつれ、周囲の人間を認識できなくなることが多くなったのは寂しいが、子供のように無邪気に微笑む母を見ると、とりあえず安心するのだ。
薬が効いてうとうとし始めた母を優しく寝かせ、デイジーはリビングへと戻った。
母を寝かせた後は、父と向かいあって暖炉の側のテーブルに座り、パンとスープの質素な食事をとりながら、今日あった出来事を話すのがいつもの日課だ。
「さっきリアに会ったの」
「リア?処置を受けたと聞いたが、もう大丈夫なのかい?」
「うん。元気そうだった。目の前でジャックとリリスが仲良くしてても、よかったわねって笑ってたわ」
「そうか、それは良かった。いつまでも悲しんでいては、災いを呼んでしまうからね」
「悪い子には悪魔がくるよ…か。ねえ、災いって何なの?」
村に伝わる古い子守歌は、教会の教えにもなっている。
怒ったり悲しんだりしてはいけない。
それは何故なのか。
「さあねえ。ずっと昔、僕達の御先祖様がこの土地に来た時からの言い伝えらしいから。けど何にせよ、心が乱れるのは良くないことだ。僕も母さんの病気のことを考えると、胸が張り裂けそうになるが、このおまもりに助けられているよ」
「うん…」
父の鎮痛な表情に、デイジーも悲しげに頷く。
「とにかく、嫌なことは考えないことだ。災いなんて口にすると、それこそ本当になってはいけないからね。さあ、もう寝よう」
父はおまもりを握ると、笑顔で立ちあがって食器を片付け始めた。
デイジーも席を立ち、父を手伝う。
蝋燭の灯りが親子を照らし、夜の闇はさらに濃くなってくる、
悪いことは考えない。感じない。
そうしないと、災いが…。
「デイジー」
父の声に、ビクリと皿を拭いていた手が止まる。
「後は僕がやっておくから、先に休んでいなさい」
いつもとかわらぬ優しい父。
母が臥せってから、看病も家のこともこなし、自分を育ててくれる優しい父さん。
親が厳しいというリアにはよく羨ましがられている。
「う、うん…。じゃあ先に寝るわね」
父の言葉に甘えて手伝いを切り上げ、浴室で体を拭いて夜着に着替えて寝室へ向かう。
リビングの奥の、母の部屋の隣がデイジーと父の寝室だ。
一つしかないベッドで、デイジーは体を丸めて目を瞑る。
、以前は、隣が両親の寝室だったのだが、母が病気になってからは、母かゆっくり休めるように、父はデイジーのものだった部屋とベッドで共に寝るようになった。
後片付けが終わったのだろう。父の足音が近づいてくる。
ドアの開く音。
デイジーは、いっそう強く目を瞑り、真っ赤に光るおまもりを握り締めた。
ベッドに入ってきた父は、いつものようにデイジーに覆いかぶさり、体を舐めるようにまさぐってくる。
慣れることのない嫌悪感に叫び出しそうになり、壊れるほど強くおまもりを握りしめる。
嫌だなんて思っちゃいけない。
考えちゃいけない。
感じではいけない。
ましてや憎いだなんて、そんな恐ろしいことを考えるのは悪いことだ。
「「優しいお父さんで羨ましい」」
みんなそう言う。
面倒見のいい優しいお父さん。
だから嫌いだなんて思う私の方がおかしいんだ。
悪い子には悪魔がくるよ
古い子守歌。
おまもりを握っていると、だんだん頭がぼぅっとしてくる。
怖いことも 悲しいことも
すべて忘れて
さあ 眠りなさい
翌朝、父の絶叫で目が覚めた。
いつもなら父が朝食を並べているはずのリビングは暗いままだ。
母の寝室の方に目をやると、開きっぱなしのドアから、横たわる母にとり縋って泣いている父の姿が見えた。
「父…さん?」
無意識におまもりを握り、恐る恐る声をかけると、父が涙に濡れた顔で振り返る。そして、
「母さんが…」
死んだ。
と言った。
それからのことはよく覚えていない。
村人を呼んで母の亡骸を教会まで運び、司祭が簡単な葬儀をした。
村では人が死ぬとこうやって集まり、皆でおまもりを握って、悲しみが消えるよう祈るのだ。
父はずっと泣いていて、後で処置が必要だと司祭が言っていた。
デイジーは泣かなかった。
悲しくないわけではないが、なんだか心が凍りついてしまったように動かないのだ。
けど、その方がよかったと思う。
処置をされて、母のことを忘れてしまうのは嫌だから。
母を教会の横の墓地に埋葬した後、父は一晩処置を受けるために教会に残り、デイジーは一人で空っぽの家に帰った。
ふらふらと母の部屋に入り、今朝まで母が寝ていたベッドに体を投げだす。
シーツの皺もそのままで、まだ温もりが残っているような気さえする。
幼い頃はよく一緒に寝ていたことを思い出して、なんだか胸がツンとした。
それでも涙は出ないまま、デイジーは懐かしい母の匂いに包まれて、いつしか眠ってしまった。
どれくらい眠っていただろう。
人の気配に目を覚ますと、すっかり明るくなった外の光が差し込んでいて、父が晴れやかな笑顔でベッドの側に立っていた。
「あ…、おかえり父さん。もう処置は終わったの?」
不自然なほどの父の笑顔に、心がざわつくのを感じながら、デイジーも笑顔を貼り付けて父を迎えた。
「朝ごはん、作ろうか?」
そう言って起きあがろうとしたデイジーは、いきなり父に抱きしめられた。
戸惑う間もなく、デイジーの唇に父の唇が重ねられる。
「愛しているよ」
満面の笑みで父が言い、ベッドに押し倒される。
処置を受けた者は、心の空白を埋めるように他の誰かに執着することが多いと聞いたことがある。
けれど、まさか実の娘に?
嫌だったけど父も苦しいのだと思っていた。
家族の愛情を拒むのはいけないことたと。
(我慢しなくちゃ。父さんも苦しいんだ)
今まで通り、何も考えず、感じないようにー。
それまでは夜だけだった行為。
これからずっとー?
もう母はいない。これからは、いつもこの行為が続くんだろうか。
そう思った時、デイジーの中で何かが弾けた。
ずっとずっと蓋をしてきたものが溢れ出して止まらない。
(嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ)
おまもりを握るのも忘れて、父を突き飛ばしリビングに走る。
「どうしたんだデイジー?僕達は家族だろう?家族は愛しあって当然なんだよ」
父が笑顔で追ってくる。
何度も聞かされた言葉。
優しい父さん。大事な家族。
私はあなたが、ずっとずっとー。
大嫌いだった。
台所に置かれていた手に取って、父に向かって突き出した。
鈍い感触とともに、包丁はすんなりと父の胸に埋まり、手を離すと同時に、父はあっさりと床に倒れた。
デイジーはそれをしばらく呆然と眺めていたが、やがて赤い血だまりの中に膝をついてへたり込む。
そしてようやく、生まれたての赤子のように声をあげて泣いた。
「悪魔だ」
「なんて恐ろしい…」
司祭の住まいを兼ねている教会の広間に連れてこられたデイジーは両手を縛られ、村人達に囲まれていた。
皆、血に染まったままの彼女を遠巻きに眺め、恐怖に顔を歪めている。
その中には、リアの姿もあった。
あの後、母を亡くしたデイジーを心配して訪ねてきた彼女が、血溜まりで座り込む親友を発見し、皆に知らせたのだった。
リアは、心配そうにデイジーを見ていたが、目が合うと、ビクリとして顔を背けた。
「その子をどうするのです⁉︎こんな事はこの村始まって以来です!」
「この子の怒りが災いを呼んだのよ!」
災いを恐れ、怯えた人々は司祭が詰め寄る。
いつも村人達に頼りにされている初老の司祭は、普段の物静かな表情を曇らせて、興奮する彼らを宥めようと必死だ。
「皆こそ落ち着きなさい。恐怖は新たな災いを生んでしまう。さあ、おまもりを持って。目を閉じて心を穏やかに祈るのです」
司祭の言葉に、村人達は一斉におまもりを取り出して、祈り始める。
その光景を、デイジーは冷めた目で見つめる。
生まれた時から当たり前で、疑問に思ったことなどなかった行為だけど、今はそれがひどく滑稽に見える。
(そんなことをして、一体何が変わるっていうの?)
その場しのぎで感情を忘れたところで、何の解決にもならないのに。
いくら目を閉じてやり過ごしても、また次の夜がやっできたように。
もう父の行為を我慢しなくていいと思うと、精々すらしている。
これが災いなのだろうか?
「デイジー」
名を呼ばれて顔を上げると、皆とともに祈っていたはずの司祭が、険しい顔をして前に立っていた。
「君は恐ろしい災いを生んでしまった。この災いが村人達に広がってしまえばこの村はおしまいだ。君をこのままにしておくことはできない。なんらかの処分を下そうと思うが、私もこのような事態は初めてでどうしてよいかわからん。だから、我らの神に判断を委ねることにする」
この村を作り、おまもりを作ったというはじまりの神の話は知っている。
けれど、会って話ができる存在だとは初耳だ。
「皆は心が平穏になるまで祈っていなさい。不安が消えない者は、後で処置をしてあげよう」
村人達にそう言い残すと、司祭はデイジーを引きずるように、広間の奥の壁に掛かった大きなタペストリーの前に連れて行った。
「ついて来なさい」
タペストリーをめくると、木造建築ばかりの村では見たことのない金属の扉が現れた。
司祭が手をかざすと勝手に左右に開いたので、デイジーは目を丸くした。
扉の中は長い通路になっていて、その中を進んでいく。
四角い通路は、木材でも岩でも金属でもない無機質な素材でできていて、火もないのに灯りがついていた。
どれくらい歩いただろう。
やっと通路の終わりが見え、突き当たりに大きな扉があった。
ここに入る時と同じように、この扉も手をかざしただけで開く。
「入りなさい」
司祭に促されて部屋に入ると、何もしていないのに灯りがつき、再びデイジーは驚く。
部屋は村の家一軒くらいの広さで、中央に金属の台座があり、そこから管のようなもので繋がった、人一人が入れるほどの棺のようなものが十個ほど据えられている。
「司祭様、ここは…?」
「ここが普段、処置を行う部屋だ。処置の際にはこの部屋の記憶も消すから、ここを知るのは代々、私の一族だけだ」
司祭はそう言うと、中央の台座に手をかざし、何事かを呼びかけた。
すると台座が輝き、そこから一人の男の姿が浮かび上がった。
デイジーは、目を見開いて男を凝視する。
(これが神様?)
歳は三十代くらいだろうか。
整った顔をした金髪の男で、村人の毛織の服とは違う、光沢のあるシンプルな白い服を着ている。
どこか疲れたような穏やかな表情が、なんとなく父を思わせた。
「やあ、こんにちは。我が子達よ。何かあったのかね?」
喋った。
再び驚くデイジーの横で、司祭は深く頭を下げている。
「神様。ご健在で何より。実はこの娘のことでご相談に…」
「ほう?」
半透明で宙に浮かぶ男は、そこで改めてデイジーに目を向けた。
どうしよう。私も頭を下げるべきだろうかと狼狽え、突っ立ったままのデイジーに、神と呼ばれる男は優しく微笑んだ。
「どうしたのかね?悲しいことがあったのかい?もう大丈夫だよ。さあ、悪いことは全部忘れさせてあげよう」
静かで慈愛に満ちた声だ。
「今日は、処置に来たのではないのです。その娘は、恐ろしい禁忌を犯しました。こんな事は前代未聞で…。ですので、あなた様に処分について指示を仰ごうと」
司祭が起こった出来事を説明すると、男は悲しそうに眉をひそめた。
「それは悲しいことだ。不安もわかるが、皆、私の可愛い子供達なのだよ。処分と言っても、命を奪うようなことはしたくない。この子と、他の村人達にも処置をして、全て忘れてしまいなさい。そうすれば、また皆で平和に暮らせるだろう」
「仰せのままに。さあ、デイジー」
司祭は一礼すると、デイジーの腕を掴んで、棺へ引きずって行こうとする。
「嫌!」
その手を振り払い、デイジーははっきりと拒絶した。
「デイジー!これは君のためなんだぞ!すべて忘れてしまえば、また今までと変わらず幸せに暮らせるんだ」
司祭が厳しい声で叱りつける。
(私のため?幸せ?)
母のことも、父がしたことも、自分の気持ちもすべて忘れて、何もなかったように笑うことが?
そんなの。
「そんなのは幸せじゃない」
私の気持ちは私だけのものだ。
「デイジー!なんということを!」
血相を変えた司祭が、咄嗟にデイジーの頬を打った。
不意の衝撃によろけるデイジー。
司祭はそれを乱暴に掴んで、再び棺へ押し込めようとする。
「やめたまえ。怒りに支配されてはいけない」
静かだが、硬い声が響く。
神だという男は、司祭を制し、険しい表情で見下ろして言った。
「も、申し訳ありません!」
司祭はデイジーを離し、雷に打たれたように平伏する。
「これが災いだ。怒りは怒りを呼んで、取り返しのつかない暴力の応酬となる。君も少し心を落ち着ける必要がある。この子には、私が話をしよう。処置が済んだら呼ぶから、それまで君も皆と祈っていなさい」
「は…はい」
自らも災いを招くところだったと諭された司祭は、真っ青になっておまもりを握る。
デイジーの縄を解くと、男に深く頭を垂れて、逃げるように部屋から出ていった。
遠ざかる足音を締め出すように、再び自動で扉が閉まり、無機質な部屋にはデイジーと、半透明に浮かぶ男だけが残された。
どうすればいいかわからず、不安げに司祭の出ていった扉を見つめるデイジーに、男が声をかける。
「さて、少し話をしようか」
夕焼け色の瞳が優しくすがめられる。
「あなたは誰なの?」
半透明に浮かぶ体は生きている人間ではないのだろうか、何のためにおまもりを作ったのか、聞きたいことは山ほどあった。
「本当に神様なの?」
宙に浮かぶ姿、見慣れない服装は明らかに村の人間とは違うし、この不思議な施設もこの男の力で動かしているようだ。
ならばやはり人智を超えた存在なのかもしれない。
だが、意外にも男は寂しげに首を振った。
「私は君達と同じ人間だよ。いや、人間だったと言うべきかな。私の肉体は百年前に死んでいる。この姿は、ホログラムというものだよ。私の子供達と、その裔を見守るために、自らの人格を装置にコピーしておいたものだ」
死んでる?百年前?装置?
デイジーには初めて聞く言葉ばかりで、意味はほとんど理解できない。
だが、なんとなくわかったことは。
「御先祖…さま?」
怒りや悲しみを感じてはいけないという古い言い伝え。
それを残したのは、はるか昔にこの地にやって来た自分達の先祖だという、父の言葉を思い出す。
では、災いというのが何なのかもこの男が知っているのだろうか。
デイジーの考えを見通したように、男が大仰に両手を広げる仕草をして微笑む。
「そういうことになるね。さあ、知りたいことは何でも教えてあげよう。申し遅れてしまったな。私の名は、アルバート・ノア。科学者だ。ノア博士とでも呼んでくれたまえ」
「ノア…はかせ?」
科学者という言葉を聞くのも初めてで、またデイジーは首をかしげる。
「ああ、君達の世代では、もう文明が途絶えてしまっているのだね。君はこの村しか知らないだろうが、かつて世界はもっと広く、人間は至るところに大勢住んでいた。生活は豊かで、スイッチ一つで水も火も使え、自動で動く乗り物に乗ってどこへでも行ける。そんな時代があったのだ」
ノアと名乗った男が生きていたという世界は、この狭く不自由な村しか知らないデイジーには夢のような世界に思えた。
「だが、その世界は滅んでしまった」
懐かしそうに語っていたノアは、不意に表情を曇らせる。
「なんで…滅んだの?」
震える声で尋ねると、ノアは、真っ直ぐにデイジーを見た。
「災いだ。そしてそれが、君達の、この村の始まりでもある。聞きたいかね?先刻、君は怒りや悲しみを忘れて生きることは幸せではないと言ったが、これはその感情がもたらした悲劇の顛末だ」
災い。
やはり、この男はすべてを知っているのだ。
ずっと知りたかったことだったけれど、今までお伽話の中の出来事のようだった、災いというものが急に身に迫って感じられて足がすくむ。
それでも、聞かねばならないと思った。
もう目を瞑ったまま生きたくはない。
自分の気持ちも、父がしたことも、父にしたことも。
それが何をもたらすのかも、しっかり目を開けて見つめなければ。
深く息をついて、デイジーま真っ直ぐにノアを見つめ返す。
「聞かせて。あなたが知っていることを、全部」
その視線に、ノアは一瞬驚いたような顔をした。
「強い子だね君は。これまで何度かこの話をしようとしたことはあるが、皆怖がってね。では、話してあげよう。君の言う幸せというものがどこにあるのか、それから決めるといい。耐えられなければいつでも処置をしてあげるから、安心したまえ。準備はいいかな?」
その言葉に、デイジーは強く頷く。
それを確かめると、ノアは語り始めた。
この村のはじまりと、一つの世界の終焉の物語を。
かつて世界には、様々な文化や考え方をもつ無数の国々があった。
大きな国、小さな国、自由な国も、そうでない国もあり、時折衝突はするものの、世界はなんとか平和な均衡を保っていた。
その均衡を崩したのは、とある王国だった。
広大な大陸の豊かな国だったが、時の指導者がさらなる利権を求めて、周辺の国に攻め入ったのがきっかけだった。強引に他国を侵略し、不満を漏らす者は容赦なく弾圧するその国に、当然他国は反発し、自由を求める人々は声をあげて、大きな戦争になった。
私はその頃、その王国の民だった。
医者として働きながら、人の心を癒す研究をしていた。
戦争や弾圧で傷ついた人々。そうした無垢の民を殺せと命じられて心に傷を負った兵士。
私はそうした人々を救いたいと思っていた。
そこで、ある装置を開発したのだ。
「それがその、脳波抑制装置。君達の言うおまもりだ」
「あ…」
ノアの視線を追って、デイジーは首から下がったおまもりに目を落とす。
国というものを知らないデイジーには、戦争というものもあまり想像できなかったし、そもそもこの村には争い自体がなかった。
「あなたは、これで争いを止めたかったの?」
怒りや悲しみを消し、人を癒すための道具。
それを作ったという男に悪意は感じなかった。
ノアの語ることは嘘ではなさそうだった。
おそらく彼は、本当に人々を救いたいと願った優しい人間なのだろう。
しかし、ノアは悲しそうに首を振った。
「いや。そこまで大きなことができるとは思ってはいなかったさ。ただ、私は傷ついた人達を癒したかっただけだ。だが、その願いは、まったく別の方向へ利用されていった」
ノアは苦しげにため息をつくと、遠い目をして話を続けた。
私の研究に目をつけた王国は、この装置を洗脳の道具に使おうとした。
私は、そんなことは嫌だったし、王国のやり方にも反対だったので、王国と敵対する海の向こうの国へと亡命した。
海の向こうの国は交易で栄え、王国と同じくらい豊かな国で、たくさんの人々が自由に暮らす国だった。
そこでも戦争で傷ついた人間は大勢居て、私はその国に協力することになった。
兵士の中には、仲間を失ったりしたショックで心に傷を負い、心を病んで戦線を離れざる得ない者も多い。
それを防ぐために、兵士達におまもりを持たせた。
戦線を離れる者は減り、それどころか恐怖や悲しみを感じなくなった兵士達は、恐ろしいまでの戦果を挙げた。
私はその功績をかわれて地位も名誉も与えられ、さらに新しい装置も開発した。
感情だけではなく、記憶そのものを消すことができる装置だ。
「それがその棺?これもあなたが作ったのね」
「そうだ。残酷な戦争で友や家族を失った悲しみは、感情を抑えるだけでは消えないものだからね」
部屋の中央に並ぶ処置のための棺には、そんな意味があったのか。
村では争いをなくすためのものが、なぜ世界の滅亡を止められなかったのだろう。
デイジーの疑問に答えるように、ノアはさらに続ける。
私は幸福だった。
妻と結婚して子供にも恵まれた。
恐怖を感じない兵士の活躍で、大陸の王国は敗れ、戦争も終わった。
私は愚かにも、自分の技術が戦争を終わらせ、人々を救ったと信じていた。それが思わぬ方法に転用され、憎しみを生み、さらなる戦禍を呼ぶことなど想像もしていなかった。
恐怖も、罪への畏れすら忘れた兵士達は、赤子すらも平気で殺せる殺人マシンと化す。
そんな戦闘の巻き添えになった大陸の民達の中には、海の向こうの国への激しい怨嗟が生まれていた。
皮肉な話だ。
かつて人間をコントロールするために使われることを拒んで海の向こうの国に逃げてきたというのに。
戦争の中で、私の技術は敵兵の洗脳にも使われた。
民間人を捕らえて記憶を消し、自らの故郷を焼かせるようなことも行われていたらしい。
やがて私の技術は、海の向こうの国だけではなく、他国の軍にも流出し採用され、躊躇いを忘れた人間達は、再び凄惨な殺し合いを始めた。
人々を癒やしたいという私の願いとは裏腹に、人間の残酷さだけがエスカレートし、憎しみが憎しみを呼んで、世界は血と業火に包まれ文明は壊滅した。
私の妻も、戦禍の中で命を落としてしまった。
すべてが滅ぶ世界の中で、私は幼い子供達三人を連れて逃げて逃げて、この高い山脈に囲まれたシェルターにたどり着いた。
自分にも人間にも絶望していた私は、世界と共に滅んでもよかったのだが、愛しい妻の血をひく子供達だけは生かしたいと思った。
彼女がいた証を、血を存続させたかった。
母を慕って泣く幼い子供達から戦争と母親の記憶を消し、シェルターに保管されていた植物や動物の遺伝子を復元し、何年もかかってようやく暮らしていける環境も整えた。
少ない資源で争いが起きないよう、教会というシステムを作り、おまもりと処置を義務づけてね。
「これが君達とこの村の来歴だ。君が否定した幸せだが、怒りや悲しみのままに生きれば、人間は簡単に争い殺し合うのだ。まさに、君がお父さんにやったようにね」
その言葉に、デイジーはハッとして顔を上げる。
怒り。殺す。災い。
自分達の先祖だというこの男が、何のためにそれらを禁忌としたのか、ようやく繋がった気がして、デイジーは水をかけられたように身震いした。
「争いで傷ついた心を癒すのではなく、はじめから争いが起きないように心を殺しておけば、私が願っていた平和な世界になれると考えたのだ」
ノアが子供をあやすようにデイジーに微笑む。
「これでわかっただろう。震えているじゃないか。こんな話は恐ろしかったかな?大丈夫。怖いことも、悲しいことも、すべて忘れて、さあ眠りなさい」
デイジーは、村に伝わる古い子守歌を思い出した。
きっと、はるか昔に彼が自分の子供達に聞かせた歌なのだろう。
すべてを忘れて何も感じなければ、また皆で平和に仲良く暮らす村の日常が戻ってくる。
けれどそれが幸福だとは、デイジーにはやはり思えなかった。
「それでも、私は何も忘れたくない。悲しみも怒りも、全部私だもの」
自分と同じ、夕焼け色のノアの瞳を真っ直ぐに見つめてデイジーは言った。
「そんなのは辛いだけだ。処置をしなければ、村にも戻すわけにはいかないよ」
ノアは聞き分けのない子供をあやすように言う。
「村に戻れなくてもいい。あなたは、この外にも世界があると言った。私はそれを見てみたいわ」
きっぱりと言うデイジーにノアは目を丸くして狼狽える。
「何を…。外は人が住める環境ではないかもしれない。生き残っている人間がいるか…、いや、いても親切な人間とは限らないのだよ?危険すぎる。私の元で、この村で、ずっと平和に暮らせばいいではないか」
遊びに行く我が子を心配するような姿が父に重なって、デイジーは少し胸が痛くなる。
死してなお、子供の行く末を見守ろうとした優しい父親。
自分の父も優しかった。
けれど、保護と支配は表裏一体だ。
「百年経っても、あなたの中では私達はずっと弱くて幼い子供のままなのね。ずっと一人で辛い記憶を抱えて、私達を守ろうとしてくれていた。けれど、私はもう小さな子供じゃないの。だからあなたに守ってもらわなくても、きっと大丈夫よ」
デイジーの言葉に、ノアは一瞬驚いたような顔をして、そしてくしゃりと泣きそうな顔をした。
父も、一人で苦しかったのだろうか。
もっと違う形で支えてあげられていたなら、こんな事にはならなかったかもしれない。
「私はこの村しか知らないから、あなたの考えの方が正しいのかもしれない。それでも私は、自分で世界を感じて、それが正しいか間違っているかは自分で決めたいの。だから、行くわ」
ノアは、しばらく考え込んでいたが、不意に何事かを呟いた。
すると、入ってきたのとは反対の壁が、錆びた音をたてて割れるように開いた。
突然、壁に開いた空間に、目を丸くするデイジーに、ノアは静かに言う。
「岩盤をくり抜いて造られたトンネルだ。この山の麓の出口に続いている。まだ、照明は生きていると思うが」
その意味が頭に入ってくるまでしばらくかかった。
「…いいの?」
「いいもなにも。君が望んだことだ。ここを出たら、私はもう助けてあげられないが、それでもいいなら行きなさい」
寂しげに笑うノアの言葉に背中を押され、デイジーはおそるおそるトンネルの入り口に立つ。
中は、はるか下へと続く長い階段になっていた。
「下にはたしか資材庫があった。何か役に立つものがあるかもしれないから見ておくといい」
「うん、ありがとう」
階段を一歩降りたデイジーは、やはり少し不安になってノアを振り返る。
優しく笑うノアの姿が父に重なった。
「気をつけて行っておいで」
その面影に手を振って、デイジーは暗い階段を降りていく。
「行ってきます」
終わりの見えない道を、白い光が導くように照らしていた。