第一話「隣の彼女」
2年前、7年間付き合ってきた彼女と別れた。
俺は、以前住んでいたアパートから引っ越し、新築のマンションで一人暮らしを始めていた。
家と職場の往復で月日は淡々と過ぎていくだけだったが…、
夏の夕暮れ時一台のトラックがマンションの前にやってきた。
引っ越し業者の声が外から聞こえ、隣の部屋から物音が鳴り響く。
どうやら隣の部屋に新たな入居者がやって来たらしい。玄関外には多くの家具を持った作業員とその間に
髪の長い女性が立ち作業員らに何やら説明をしているように見えた。彼女は階段を降り荷物を運んでいる。彼女が入居者のようだ。顔までは見ることができなかったがとてもスタイルが良く、かわいらしい容姿だったのが見て取れた。
引っ越し作業から数時間後、インターフォンが鳴り、扉を開けると隣に越してきた彼女が訪ねてきた。
結香「はじめまして。この度、隣に引っ越してきた『龍薙結香』といいます。まだ荷解きなどで騒がしくさせてしまうと思いますが、何卒よろしくお願いします。」
櫂翔「どうも、俺は、『東城櫂翔』と言います。市内の会社で働いています。
お構いなく。こちらこそよろしくお願いします。」
お互いに挨拶を交わしそれぞれの部屋に戻った。内心、彼女がどんな人なのか、職業は何をしてるのか知りたかったが入居初日に初めての人に個人情報を聞かれるのは如何なものかと思い、またの機会を待つことにした。
彼女が引っ越してきて数日たったある夜、隣の部屋からもの凄い音が壁越しでも聞こえてきた。びっくりした俺はベッドから飛び起きた。もしかしたら何かあったのかもしれないと思い、急いで隣の部屋を訪ねてみた。
扉の前に行くと鍵が開いている。泥棒かと思った俺は勢いよく部屋に入った。
すると、奥から泣き声と共にうめき声のようなものが聞こえてきた。俺の目線の先には、彼女が縮こまっている。駆け寄り、とりあえず彼女を泣き止ませ、理由を聞くことにした。
どうやら彼女は、女優志望の卵で今回出演する作品で大役を担う予定になっていたが監督たちの会議の結果、彼女は想像の人物とはかけ離れていて、役に合わないと言われ、そのために準備していた気持ちが無くなり軽く絶望で荒れてしまったらしい。代わりにその大役におさまったのは、同期の『|西垣紗耶』という、専門学校時代に寮で同じ部屋に住んでいた女の子が選ばれたらしい。自分の役は、主役の通うお店の看板娘の役だという。彼女が実際、その場で監督からどんな表現で宣告されたのかまでは分からなかったが、彼女の悔しさは痛いほど伝わってきた。
彼女は泣き疲れたのか、話し終えたころには眠ってしまっていた。俺は、そんな彼女の姿を見てやっぱり
女優さんって仕事は大変だなと思いながら彼女に毛布を掛けて、その場を後にした。
次の日の早朝、日課のジョギングをしていると透き通るほどキレイな河川敷に彼女がいるのを見かけた。
声をかけようと近づいていくと彼女がちょうど振り返り、一瞬驚いた表情を見せたが、
昨夜の彼女からは考えられないほどの満面の笑みを見せてくれた。
引っ越しをしてきた日から毎朝、この河川敷でセリフの練習をしていたらしい。
結香「この場所ね、私の地元にある川の風景と似ていてさ、何だか心が落ち着くんだ。背中を押してくれるような感じかな。それにこの時間は人通りも少ないから練習がしやすいんだ。」と教えてくれた。
彼女は、今回の作品では出演回数も少なく、台詞が僅かで数分しか映らないけれど真剣に取り組めば
『努力は実を結ぶから』と自分に言い聞かせているらしいのだ。
櫂翔「ならさ、俺もセリフ合わせ手伝うよ。前付き合ってた子も女優志望でさ、大変なのは見てきたから」
彼女の目の前の一つのことに熱心な姿を見て応援したくなったから出た言葉だと思う。
それに紗耶香の顔がフラッシュバックし、結香さんと重なった部分があったのかもしれない。
彼女は、とても喜んだ表情で「うん。いいね。ありがとう」と返事を返してくれた。
それからしばらく毎朝早朝に河川敷に集まり、セリフ合わせの練習をする日々が続いた。
毎日、彼女と顔を合わせていると少しずつお互いの心の扉が開いたのか、たわいない話で盛り上がることも増えていった。そして、俺の中で彼女と過ごす時間がとても楽しみな時間になっていた。
私と彼が名前で呼び合う仲になったころ、私の元に一通の書類が届いた。それは、ある有名な事務所からのオファーであった。早くこのことを櫂君に伝えたかった私は、部屋を思いっきり飛び出すも扉の陰に隠れる羽目になってしまった。
紗耶香「ねぇ、櫂!久しぶりだね。ずっと会いに来なかったけどきちゃった。女優として軌道にも乗ってきたし、辛い時に思い出すのは櫂と過ごした時間だったんだ。やっぱり私には櫂が居ないとダメなのかもしれない。私ともう一度お付き合いしてくれませんか?」
櫂翔「紗耶香…久しぶりだな!元気にしてたか?まぁ、積もる話もあるだろう、上がってくか?
でも写真撮られたら大変だよな。付き合うかは少し考えさせ欲しい、俺も少し気になる人がいるからさ」
扉の隙間から、二人のやり取りを見ていた私は胸の奥で『チクリ』とつねられたような感覚がした。
(そうだよね、櫂君にだって元カノぐらいいるよね)と理解してはいるもののどこかで櫂君までの距離が遠くに感じた。
紗耶香「もしかして、私より大切な人でもできちゃったの?」
櫂翔 「まぁ、好きかどうかはまだ自分でもわかってはいないけど、その人と居る時間が今はとても楽しいんだよね。一緒に笑い合ってて何より、一つのことに熱心で真剣な女の子なんだその子。応援してあげたくなっちゃうほど真面目なんだ。紗耶香に似てる部分もあってさ、どこか重ねてしまってるんだと思うよ。」
紗耶香「今でも思い出してくれてるんだね。私もその子に会ってみたくなるなぁ、櫂が気になってるその人に。」
その時、扉の陰に隠れていた私は、手に持っていた封筒を落としてしまった。慌てて拾おうとした拍子に
扉の角で足をぶつけてしまった。
『ガタン』物音と共に外にいる二人が私の方を見ていた。
結香「あっ・・・。」
第一話「隣の彼女」