09_呪われ辺境伯フェリクス視点
『レーウェンフック辺境伯様!私も是非、あなたとお友達になりたいです!!』
満面の笑みで、一切の躊躇いもなくそう言ったルシル・グステラノラ侯爵令嬢。
違う、そうじゃないと頭を抱えなかっただけ自分はよくやったと思う。
彼女が望むならば、婚約者として交流を持つこともやぶさかではないと言ったつもりだったのだ。しかしよくよく考えるとわざわざ訂正するほど積極的にそうしたいわけでもないので、何か言うことはしなかった。
「ルシル嬢、なんかすげーいい子っぽかったんですけど」
本邸にある俺の執務室で二人になった途端、側近であり幼馴染でもあるカインがそう呟いた。
確かに、今日やっとまともに向き合ってきちんと話をしてみたルシル・グステラノラは、とてもじゃないが悪女とはかけ離れた人物だった。
あの後なぜか張り切りだしたグステラノラ嬢はおもむろに立ち上がると、ちょこまかと動き、茶を淹れ、何やら見たこともないお茶請けまで出してきた。あの菓子は何といったか。何度か名前を言っていたように思うが、あまりに聞きなれなくてもう忘れてしまった。
とにかく、見たことも聞いたこともない珍しい菓子を「私が焼いたんです。とっても上手にできたからぜひ食べてみてほしくって!」と輝く笑顔で差し出してきたのだ。あまりの意外さに目の前の彼女の純朴そうな様子まで全てが演技で、この菓子に新種の毒でも仕込んでいるのではないかと疑ってしまったほどだった。
焼き菓子を焼いた?あの愚かな悪女と名高いグステラノラ嬢が?いや、そもそも貴族のご令嬢で厨房に躊躇なく入り、腕を振るう者がどれほどいることか。中にはそういったことが得意だという令嬢がいるのも知っているが、それもどこまでが一人の作業なのかという話である。それなのにあの離れには料理人どころか、彼女の手助けをする使用人はただ一人としていないのだ。
ルシル・グステラノラは長年第二王子の婚約者として忙しい毎日を送っていたはずだ。
それに父親であるグステラノラ侯爵はプライドが高く、無駄と面倒を嫌うとても貴族らしい貴族であり、王子に婚約破棄された娘を一切庇うことなく、むしろ怒りとともにこのレーウェンフックに身ひとつで送り込んできたような人物である。
彼女が生家で厨房に入れたとはとても思えないし、恐らくその時間もなかっただろう。
ならば、どこで料理を覚えた?それもあの珍しい焼き菓子の作り方など、一体どこに行けば学べるというのか。カインは俺と違って令嬢の好むものならばたいていなんでも知っているような男であるが、そのカインですらあの菓子のことは知らないようだった。
『このお菓子はヒナコ……昔、とってもお世話になった人に教えてもらったんです』
昔とはいつのことなのか。
そう言った時の表情が、どこか物悲しそうに見えたのは気のせいだったのだろうか。
「あ~、さっき食べたお菓子、なんかすげーうまかったね。ニコニコしてて健気で明るく、おまけに家庭的。やっぱすげーいい子っぽいんですけど?」
甘い物を得意としていないはずのカインでさえこれだ。
そう、見たこともなく、食べたこともないその菓子は信じられないほどうまかったのだ。そして当然だが毒など入ってはいなかった。
数日続いた討伐終わりに初めて離れの彼女の様子を見に行った日、その見た目にどこか違和感を抱いたのも間違いではなかった。というのも恐らく、ここに来たあの初日の彼女の方こそ作られた姿だったのだ。
突然の訪問に、主人のために咄嗟に気を回す使用人もいない環境で、俺たちの前に顔を出したグステラノラ嬢は、息をのむほどの透明感と、まるで妖精かと見間違ってしまいそうなほど可憐なあどけなさを持っていた。あのような素顔を持ちながら、なぜ派手で厚い化粧を施していたのかは甚だ疑問だが……。
聞けば聞くほど冗談かと思うようなサラの報告にあったとおり、彼女は本当に使用人一人いない環境で、自由にのびのび暮らしているようである。おまけに先に謝罪をしたというサラ自身にも、頭を下げた俺にも恨み言ひとつ言わず、なにひとつ責めることもない。
信じられないのはその姿や心根だけではない。
この目で見た、トマトを実らせる奇跡のような光景だけでもいまだに夢だったのではないかと自分の記憶を疑いたくなるのに、サラの話によると彼女は動物と会話ができる可能性まであるらしい。
なんでもこの辺一帯に潜む気性の荒い魔物のごとき攻撃性を持った野良ネコたちが、彼女の言うことをまるで本気で理解しているかのように振る舞っていたのだとか。ランドルフによると初めて会った時にはその猫たちに埋もれていたらしい。
猫に埋もれるとは……?俺には想像もできない。
「ルシル嬢、本当にいい子っぽかったよな~。あれで本当は噂通りの悪女だったとしたら、俺騙されても本望だわ」
何度もしつこく彼女を「いい子だ」と評するカイン。なにか俺に言いたいことがあるのだろう。
面倒だからとわざとそれに気づかぬふりをして無視していたのに、どうやらそのまま放っておいてはくれないらしい。
「で?そんなルシル嬢はどうもお前に興味がなさそうに見えるんだけど。お前それでいいの?」
思わず眉を顰めてしまう。この男は一体何が言いたいのだろうか?
「謝罪もした。その上で、少しずつでも歩み寄っていけたらと思っていると伝えた。これで、まだ他に何か問題があるのか?」
「問題はないよ。ぜーんぜん問題はない。押し付けられた婚約者だし?そもそもお前は誰かと婚約する気なんかなかったわけだし。あの譲歩は堅物のお前にしてはよくやったと思ってる。うん、問題はない」
「だったら何が言いたいんだ?」
「問題はないけど希望がない!ついでに明るい未来もない!お前が人との関わりに疎いのは知ってるけどさ~」
ときどき、気心知れたはずのこの男の言っている意味が全く理解できないことがある。今までは主にカインが頬を緩めながら聞かせてくる令嬢たちと遊ぶ楽しさや、女性の魅力、誰それが可愛いなどの中身のない話がそれだったわけだが、この話もどうやら俺に理解できない類のもののようだ。
「なあ、ルシル嬢は心がとーっても広くて、そんな素振り自体はなかったけど、あの感じじゃきっとフェリクスが彼女を嫌いだということ自体は今も信じたままなんじゃないかと思うんだよね。いいの?」
「いいもなにも……」
「謝罪って言うのはさ、自分が思ってる半分も伝わらないことの方が多いわけ。『君を嫌いだと言ったのは誤りだった』くらいはっきり具体的なことも付け足しちゃっても良かったと思うんだよ」
「そんなことが必要だったとは思わないが。そもそも誤りだったとはっきり訂正するほど、彼女に対して何かを思っているわけではない」
ただ、あまりに噂とかけ離れているその姿と、不思議な力に興味を引かれているだけだ。
そういえば、話をしたいと思いながらも討伐が続きなかなか実行に移せなかった中で、アリーチェが離れに乗り込んだとの報告を受けて彼女を訪問する決意を固めたのだった。
機嫌を損ねているのではないかと思っていたグステラノラ嬢の予想外に元気な姿に、すっかり忘れていた。
いつになくしつこく、うっとうしいことこの上ないカインは「あちゃ~」とこれ見よがしに天井を仰いで見せた。
「お前がいいならいいけど。俺、なんか嫌な予感がするんだよね。お前はいつか今日のことを後悔するよ、きっと」
「なにを後悔するって言うんだ……」
それに、後悔ならば毎日している。この身に呪いを受けて生まれてきた、最初のその日からずっと──。
自分の気持ちにも疎いフェリクスと、何かを感じ取っているカインさん