はじまり『罪と咎』
時は、1988年…。
ザァアーーッ──…!
雨が激しく打ち付け、稲妻が轟々と鳴り響く夜──バブル真っ只中の日本の、ネオン眩しい大都会のビルの一角…。
人も寄り付かないある一部屋では、どんよりとジメっぽい臭気が漂っていた。
そこでは一人の男が、細長い物を握って立ち尽くしていた。
──ズバァアアンッッ!!
「あアっ!!」
強い雷鳴が、現実から逃避した状態の男の意識を現実に引っ張り上げる。
カキンッ…──と彼の手から音を立てて落ちたのは、一つの包丁だ。
「…ぁ…ああ…っ」
それが起因となって、男は思わず仰け反って腰を抜かし、尻もちをついてそこに項垂れた。
脱力感に支配される体は動かない──だが、すぐそこに落ちた包丁に向かって、視界を動かすことはできた。
それは切っ先から持ち手まで、赤黒い液体と得体の知れないグチャグチャに濡れていた…。
「あっ…ああっ…」
自分の手を見ると、その両手は真っ赤な鮮血で塗れていた。
「俺は…一体…な、何を…」
正常に戻った意識下、男は自分の状況を思い返していた。
そして思考が真実に辿り着くと、男はそれを恐れ慄き、震え上がった。
「…ッ!?──わぁあああああッッ!!?」
目の前には、巨漢の惨殺死体が背もたれに横たわっていた。
何度も何度も刃で刺され、斬られ、裂かれた大男の巨体は、原型を留めていなかった。
蛙のように肥った腹はバッカと開かれ、鮮血とグチャグチャの臓物が溢れ出ていた。
両足も関節から切断され、骨や神経までもが剥き出しだ。
「まさ…か…そんな…!」
手だけでなく、全身に返り血を浴びていた。
今思えば、ここに漂う臭気は雨のためではない…。
惨殺死体の血による鉄分と、臓物の血生臭さが漂わせているのだ。
「…嘘…だ…──ひぃアアッ!?」
男は、自分が殺した巨漢の目が、自分を睨みつけていたことに気づき、悲鳴をあげた。
「くぁ…ッ!!アアァアアッッ!!?」
男の恐怖は、気付けば極限の地にさえ立たされていた。
だが、男の目は抉られている…──それどころか、鼻の上から脳天まではグチャグチャにされていたのだが…。
今の自分の立たされる現状の恐怖が、男の目が自分を睨んでいると錯覚させたのだろうか…。
「…お…俺が…っ、そんな…馬鹿な…ッ!?」
思い返すと、曖昧にも男の記憶が蘇る…。
正気を失った手前は、すぐそこに落ちていた包丁で、男を何度も何度も刺し、終いには殺したのだ。
血に塗れる体は震え、脳はパニックになる──終いには呼吸もろくに出来なくなっていた…。
「俺は…人をッ!?」
一体、男にはどれだけ重い業が伸し掛かるのか…神仏のみが知るものだった。
「やっちまった…っ…──俺が、殺した…のか…」
『──ヴォォァア…』
「!?」
どこからか響く声は、掠れに掠れていた。
まるで喉を切られ、口まで傷つけられたような…。
「…ッ」
ほんの一縷の、“もしかして”という考えだった。
男の視線は惨殺死体に向かって動いた…。
『ヨ…ァ…クゥ…モォ』
死体はこちらに大きな口を開き、グッチャグチャの顔でこちらに叫びをあげていた。
『キ…サァ…マァァアアア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ッッ!!』
血反吐を吐きながら、男はボロボロの身体が動く。
皮も破け臓物や骨格を剥き出しに、その様相を奇っ怪な傀儡のように動かして、男に迫ってきた。
「嫌だああァアアアアアアアアッッッ!!!」
『グァアオエエエぇえエッッ!!』
想像以上のスピードで男に覆いかぶさってくる。
グチャグチャの身体は彼を一瞬で血塗れにした。
死体はすっかり冷え切って、大量の出血のお陰で体重も減っていたというのに、その力はどこから。
『ナ…ズェ…ゴォジダアアアァアアッッ!!』
覆いかぶさる男の、グロテスクな顔…──目が抉り取られ、よく見ると歯も舌もボロボロだ。
恐怖は男の精神を掻き乱す。
「ッ!!どけぇエエッッ」
家事場の馬鹿力と言うべく死体を蹴り飛ばすと、部屋を勢いよく飛び出し、顧みずに暗い廊下に飛び出した。
「はぁあッ!!ぐぉおおおあアアアーッッ!!」
腰の抜けて力の入らぬ足に根性で力を入れ、廊下を走り抜く。
ついにたどり着いたエレベーターに乗り込むや否や、ロビーに向かってのボタンを押して閉ボタンを連打する。
「なっ…何だぁ!閉まれェ!閉まってくれぇえッ!?」
何故か、一向に閉まらなかった。
『ヴァアぁああアアアッッ!!』
絶叫はすぐそこまで迫っていた。
「ぅうああアアッ!?」
男は腹の底から絶叫した。
エレベーターの隙間にその恐ろしい様相を映すと、エレベーターは丁度閉まった。
その後も、エレベーターはドンドンと音を立て続けていた。
エレベーターは下へと下がり、男は気付けばそこに崩折れていた。
ロビーの階に着くと、再び這いずるように明るい広間へ飛び出した。
「くぅああああッ!!」
黒いジャンパを着た男は、血に濡れた自分を気にも掛けず、立ち上がってただ走った。
「ひっ!?おっ…お客様ッ!!」
呼びかけなど知ったことか、男はただ、ひたすらに走っていた!
ロビーからも飛び出して、男は雨の降る中、傘だらけの人混みに走り抜けていった。
「うおっ!?」「だ…誰!!」
ジャンパが雨に濡れ、血を落としてくれる。
「どけぇええッ!!」
ただただビルから離れようと、稲妻の轟く中、人混みを押しのけながら走るのだった。
慌ただしい彼の身に、一体何の経緯があってこのような惨事が招かれたのだろうか…。
その始まりは、複雑で、怪奇的で、憤ろしく、悲しむべきなものだった…──。