教師簿 頁零 桜羽アスカという者
――物語は少し遡り、良正とアスカが聖龍界に召喚されし夜
良正とアスカは、こじんまりとした空き部屋で二人きり、人手の少ないメイドさん方がしてくれるというベッドルームの用意を待っていた。
「粗茶ではございますが、心労絶えぬ一日であったことと存じます。お気を休めるのにうってつけのものを選んでおきましたので、香りをお楽しみなりながら、しばしお待ちを……」
と言って淹れてくれた熱々の紅茶の入ったグラスを、手に持って。
「な、なあ……これからのことで、ちょっとした疑問というか何というか……俺は君のことをなんて呼べばいいんだろうな〜、とか思ったりして?」
手元のグラスに口を沿わせ、舌を湿らす程度に啜る。
良正は人付き合いの初歩としてごく自然な、素朴とも言える疑問を目の前の少女に投げかける。
何を思い、何をしでかすか解らぬ不安の権化たるアスカを前に、彼には『無知の無知』を噛み締める余裕など微塵も許されない。
「ほほ〜う……して〜? 貴様はどう考えるのだ〜? 言うてみるがよ〜い!」
妾とでも言いそうな不遜な態度で、アスカもがっしり喰い付いてきた。
――よし、ここまでは順調に距離を縮められている
緊張の糸が解けた良正は、木製のテーブルに左手に持つ受け皿を置くと、そこにゆっくりとグラスを下ろす。
「“勇者アスカ”とか、無難に“アスカ”なんてどうだ? それとも、この呼び方しか認めない〜とかあるのか?」
餌を撒き、それに獲物が興味を示しているのを確認する。
あとは、その時をただ遅遅として待つのみ。
――メイドさんの言ってた通り、気の休まる優しい香りだ
「ん〜、そ〜だね〜。じゃ〜あ〜」
「じゃ、じゃあ……?」
まだ鉄と砂の味がする生唾を鼻腔に残る芳香で包み、舌から食道へ押し流す。
「今からわたしのことは、“アス”って呼びなさ〜い!」
「アス……か。」
他人に渾名や呼名はおろか、名称を付与したことなどある訳もなく――なんなら付けられてきた側の人間ゆえ――良正には『コレだ!』も『コレは……』も確固たるものは何一つ無かった。
「響きはいいんだけどさ、お前、本当にそれでいいのか? なんか“カ”を切り取っただけで面白みに欠けてないか?」
が、どこにも掛かりがなく味気なさを感じた良正は、呼ぶ自分ではなくそれでアスカが呼ばれてしまうことを気遣う。
「『お前』って何だ……舐めてるのか、わたしのこと……?」
刺さる眼光から寒気が背筋に伝い、良正の身体は金縛りに遭ったように硬直する。
――まだ、会って一日も経ってないのに色々あったせいで、上手く距離が測れてなかった
「いえ、滅相もありません」
「にっひひ〜! なら許〜す!」
――気を遣うところミスったぁー、危ねぇー
凍った身体を溶かすように、右手が紅茶に吸い寄せられる。
年下の少女の一挙手一投足に、玩具のように翻弄される良正の心は、赤べこ状態に慣れつつあった。
✣
「取り敢えず、もう一回初めから考え直してみろって! 」
「だから〜、それはいいって言ってんじゃんか〜!」
「いい加減、理由くらい言ってみろよ!」
呼名自体、ではなくそれを考え直すか否かの戦いは
紅茶が冷め始めてもなお、膠着状態だった。
「それは言えないんだってば〜!」
「じゃあ、考え直せって! 言えない理由に効果はなしなんだよ!」
「――いいんだってばっ!」
俯きながら声を荒らげ、テーブルに手を突き立てたアスカは震えていた。
両人の間のグラスがカタカタと、無機質な音を立てる。
彼女の満杯のグラスは中身が溢れ出し、激しく波を立てていた。
「……だ、だってさ、“アスカ”って呼ぶとなんか……ね……?」
「あ、、、」
自然の住人とは時に外界を絶するもので、歴戦の狩猟者といえ絶対不可侵領域の半歩外で足を止めるのが関の山。
良正には、本能が止まれと叫ぶのが聞こえた気がした。
「何だか、暗くなっちゃったね……よ〜しっ! こっからが本番だぞ〜! わたしは“ぐっちゃん”って呼ぶからね〜! じゃ〜、よ〜い……スタ〜ト〜! ……ほ〜ら〜、は〜や〜くぅ〜」
「えぇ……わ、わかった。呼ぶよ。呼べばいいんだろ、呼べば!」
良正の知る“桜庭アスカ”の三日も待たぬ復活に驚きが隠せぬものの、先の申し訳なさでわずかに竦んで見える良正は、女子および女性の名前を呼ぶことなど久しいため、えも言えぬ抵抗感を覚えながら言う。
しかも、愛称ときたものだから難易度は格段に跳ね上がっている。
――だが、ここで呼ばないとそれはそれで例の如くまたボコられるかもしれないッ……!
恐怖もにわかにちらつく中、彼は仕方なくではあるが彼女を呼ぶことを決心。
どうあれ、彼女はこれから一緒にこの異世界を生きていく仲である故だ。
どくどく、ばくばくと心の臓の悲痛な叫びが身体中へと仰々しく響く。
どうも緊張が抜け切らないようで、もう空に近いグラスを見合わせ、深呼吸して心を落ち着かせる。
――スゥーッ
……ハァ
一通り終えて多少、気が楽になった
そろそろ呼ぶとしよう
そう勇気を振り絞り、彼はたった二文字を音として辛うじて発する。
「……ァ、アス?」
「え〜? よくきこえないな〜? もっと暖かみと優しさを込めて、丁寧に、はっきりと呼んでもらいたいな〜」
「……」
やり切れない己の未熟さに黙することしかできない。
時針は虚しく、ただただ、空転していく。
「あっれれ〜? な〜んで人の名前呼ぶのにそんな時間かかるのかな〜? あ、まさか〜女の子恐怖症とか〜? にひひ。そんなわけないよね〜、わたしより年上で大学四年生だもんね〜。さすがに……ね〜?」
煽動と言うのは怖いもので、左右の脇腹を刺突しているようで、存外、正面を蹂躙し核を崩壊せしめる。
「もうなんなんだよッ! そうだったらなんだって言うんだよッ! ほら、何か、何か言ってみろや!」
図星をつかれることに慣れていないため、良正は誤魔化すように喚くしかなかった。
「……ずびばぜんでじだッ。僕は女性恐怖症でず、本当に辛いんでず。どうが、お許じぐだざい。どうが……どうが、お願いじまず」
が、どうにもならないと悟ると、彼は頭を下げて彼女に正直に打ち明けた。
――言霊を使って涙出してるなんて知ったら、殺されるだろうな……
「ねぇ。ねぇってば! ほら、頭上げてよ。ごめんね、傷付けるようなこと言っちゃって。私は、ぐっちゃんにどんな過去があるのかなんて知らないけど、こうも酷い有様ってことは多分相当辛いんでしょ」
アスはとても物分りがよく、他人の辛さを理解できる慈しみの娘なんだと良正は思った。
「そ〜れ〜で〜も〜、わたしのことをアスってしっかり呼べるようになるまでは寝させないよ〜!」
「ず、ずびばぜんでじだっ。って何、うわぁぁぁああッ! ねぇやめて、それはやめて。それだけは、もう許してぇぇぇええッ!!」
バギボガッ!!
しかし、わがまま勇者娘アスカ、依然健在。
幾度目かのボコられが始まってしまった。
言霊ではない、心からの涙が、良正の袖を濡らした。
――この紅茶、俺よかアスが飲まなきゃだったんじゃね……?
結局、彼はこの夜眠ることはできたが、「できるまで練習するから眠れない」というより「できるまで叩くから眠れない」という、そんな夜になった。




