幕間
手酌でついだ酒を、ちびりちびりと舐めている。
彼が持ってきた手土産は真っ先になくなり、母が置いておいてくれた煮物も食べつくして、今の肴は煮干しである。
これがなかなか旨いのだ。
母に見つかるとため息をつかれて取り上げられてしまうので、実家から離れた今だからこそ楽しむことのできる味わいであり、それがまた愉しい。
ぱらり、と静かな音がした。
向かいに座った彼が、私の渡した書き物を読み、一枚、また一枚とめくる音である。
私は煮干しをかじりながら、胸の内に面はゆいものを感じつつ、彼が読み終わるのを待っている。
渡したこちらが少しばかり戸惑いを覚えるほど、目線で字を追う古馴染みは真剣な面持ちだ。
一度読み、顔を上げるかと思えばもう一度、今度は指先で輪郭をなぞるようにするすると読み直し、最後の一枚までゆくとそのままの勢いでこちらを向いた。
感想を待ち構え、酒も煮干しもとうに飲み込んでいた私が、どうだった、と問うまでもなく。
唐突に言う。
お前は見送ってしまえるのだな、と。
訳が分からず、どういう意味だ、と首を傾げた。
すると、自覚が無いのか、とどこか寂しげな顔をした彼が、言葉を続ける。
これはどこかへ行ってしまった人々について書かれているようで、しかし見送ったお前の在り方を書いたものでもある。
お前には執着というものがあまり無いと、ぼくもそれなりに知っていたつもりではあるが。
こうもあっさりと見送ってしまえるお前の姿を、見せつけられるのは、なあ。
視線を合わせるのを避けるように、横を向いてしまった彼を、ぽかんと見つめた。
けれど沈黙が落ちた部屋で、じわりじわりと言葉が染みてきて、私はいつしか額に手を当てていた。
いや、そんなつもりは、なかった。
私は、ただ、
何を言いかけたのか、自分でも分からないその言葉は途中で遮られた。
お前はぼくを見つけてくれる、と独り言のような彼の声。
人は自分の見たいものを見たいように見るから、数年越しにおとずれた姿形の変わらぬぼくを、たいていは同じものとして思わない。
こちらから声をかけても、はてこれは誰であったか、という顔をする。
それを知ってから、ぼくは自分から声をかけることをやめてしまった。
けれどお前は、ぼくを見つけて、当たり前のように声をかけてくる。
おう、と先もお前から声をかけてくれたろう。
あの時にどれほどぼくが安堵したか、お前は一生わかるまい。
それなのに、それだというのに、とうつむいた彼は声を震わせる。
同じその手でぼくにこれを読ませるのだ、お前というやつは、と。
こんな話をしたのは初めてで、彼がそのように心細い思いをしていたなどと、私はまったく知らなかった。
根無し草のようにあちらこちらへ旅をしているらしい彼は、身なりも仕草も世慣れたふうで、おそらく方々に親しくしている人がいるのだろう、と。
勝手に思い込んでいた私を、ふいに顔をあげた彼の眼差しがとらえた。
なあ、お前。
先の震える声とはまるで違う、体温のない口調で問う。
蛇に睨まれた蛙のように、身をすくませた私へ。
もし、ぼくがお前を連れてゆきたいと言ったら、人であることを棄ててくれるか。
これに書いた者たちのように。
これに、と言いながら動いた彼の手が、紙束を私の眼前に突きつけた。
なあ、お前。
人であることを、棄ててくれないか。
何も答えられない私の前で、彼が指をほどく。
ぱらぱらと舞い落ちる紙に、我知らず視線が引き寄せられる。
そして次に顔をあげた時、そこにはもう誰もいなかった。
けれど私は泣きそうに顔をゆがめた彼を、舞い散る紙の狭間に一瞬、確かに目にしたように思う。
それで記憶が蘇った。
彼と初めて会った時は、たぶん私が、そんな顔をしていた。