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大正おぼろ譚  作者: 縞白
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『蓮池屋敷』





 ある屋敷の話である。



 運びたい物があるから手伝っておくれ、と叔母に頼まれてその屋敷を訪ねた。

 広い庭に大きな池のある立派な屋敷だが、人の声のしない寂しげな(たたず)まいであった。


 叔母はこの屋敷に住んでいたご婦人と、生け花の趣味を通じて知り合ったそうだ。

 しかしつい先日、彼女は亡くなり、後日開けられた遺言から花器を一つ譲られることになったのだという。


 屋敷の主人は数ヵ月前に亡くなっており、夫君の背を追うように逝ってしまったと、叔母は寂しげに微笑んだ。

 仲の良いことは素晴らしいけれど、そう急ぐことはなかったのに、と。

 私は頷き、玄関口で叔母を出迎えた女性に挨拶をすると、あとは彼女らが静かに言葉を交わすのを、庭の池を眺めながら聞くともなしに聞いていた。


 昼の陽射しの下でも黒々として表情の読めぬ大きな池に、蓮の葉が浮いている。

 その隙間にちらちらと、鮮やかな紅の地に雪のような白と金色の(まだら)が散る、美しい錦鯉(にしきごい)が泳いでいるのが見えた。

 しかし、それはすぐに視界から消えてしまい、探す間もなく私は叔母に呼ばれ屋敷へ入る。


 叔母を迎えた女性は、この屋敷に住んでいた夫妻の長男の嫁で、近くにある家から毎日通って片付けをしているのだという。

 夫妻が亡くなった今、屋敷に住んでいるのは彼らが晩年に授かった末娘一人きりであるらしい。

 仏壇の前に座って手を合わせた後、叔母から自分が花器探しをする間、お前は彼女にお相手していただきなさい、と言われ、私はひとり座敷に残された。

 その末娘は体が弱いが、屋敷を訪れた人が全員口を揃えて褒めるほど、旨い茶をいれてくれるのだという。


 広い庭が一望できる、日当たりの良い座敷。

 何をするでもなく、ただ綺麗に整えられた庭を眺めていると、失礼いたします、と細い声がして(ふすま)が開いた。

 入ってきたのは、影の中にいるのに目を細めるほど真白い肌の、たおやかな娘である。

 叔母が親しくなったこの屋敷のご婦人は、それなりの御歳であると聞いていたが、晩年に授かったという彼女はいまだ二十歳(はたち)にも満たぬように見受けられた。


 私のような独り身の男が、叔母に連れられてきた先でこのような場に置かれると、しまったこれは見合いの席であったか、と身構えるものだが、彼女を一目見てそれは無いと察する。


 透き通るような空気をまとった娘であった。

 その匂いのうすい淡さを、私はいつか見たことがあった。


 お邪魔しております、と挨拶をすると、娘ははにかみがちな微笑みで応じて、茶をいれてくれた。

 口をすり抜けてしまいそうなほど澄んだ緑の茶は、含むとなんともふくよかで甘くまろく香り、夢のような飲み心地がした。

 これが茶だと言われても信じがたい気持ちになる、この世の物とは思えないほどの甘露であった。


 こんな旨い茶は初めて飲みました、と素直に思ったことをのべると、娘は頬をうっすらと赤くして、愛らしい微笑みを返してくれた。

 そして、なかなか叔母からの声がかからぬ暇の身と、ぽつりぽつりと言葉を交わす。


 いわく、彼女が旨い茶をいれられるのは、池の錦鯉が、その味を教えてくれたおかげなのだという。

 先ほど尾鰭(おひれ)を見かけたように思います、と私が言うと、それは珍しい、と驚かれた。

 その錦鯉は彼女の母がこの屋敷の主人に嫁いだ時に祝いとして贈られたもので、最初は群れをなして泳いでいたのが、いつしか一匹きりになってしまって、今は池の底で微睡んでいることが多いのだという。

 それで、めったに鯉の姿を見られぬので、皆この池にあるのは蓮の葉だけと思うのだ。


 なるほど、黒々とした深い池であるし、鯉には鯉の気に入りの場所があろう。

 姿を見せるのが勤めというわけでもあるまいし、自分が尾鰭を拝めたのは僥倖(ぎょうこう)であったのだなぁと頷いていると、娘はなぜだかころころと笑った。


 はかなげな風情(ふぜい)とは異なる、あたたかい笑い声である。

 思わず聞きほれていると、ぱしゃん、と水のはねる音がした。


 人気の少ない屋敷で、池の音は思いがけずよく響く。

 笑い声がぴたりとやみ、娘が池の方を向いて、そうね、と同意するように(おとがい)を傾けた。

 水音の調子に、何やらぴしゃりと背を打たれたように思った私が姿勢を正したのとは真逆の、よく慣れた様子であった。

 そうして彼女は、緊張する私とは裏腹に、先よりもだいぶ気をゆるめた表情で、池の方を愛おしげに見やって言った。


 七つになるかならぬやで、あの鯉が私を見つけたのです。

 体が弱くて床に伏せてばかりの私を、今のように水面(みなも)を叩いて、錦鯉が茶席に招きました。

 母の嫁入りとともにこの屋敷へ入ったせいか、鯉は椿の花びらのような紅の着物に金色(こんじき)の帯をしめて、雪のように白い髪をした美しい女性の姿をしていました。


 そして、その茶席で、水さえも喉を通らないことのある私に、彼女は神さまの涙のような優しいお茶をいれてくれました。

 私はおいしいと感じられるものを口にできる、そのことが嬉しくて、うれしくて。

 本当に、夢のような一時でした。


 けれどその夢は、現実と地続きにありました。

 床で目覚めれば醒めてしまうそれとは違い、茶席へ招かれ、人の世にあらざるものを口にした私の身はもう、(うつつ)から離れてしまっていたのです。


 娘の微笑みが深く陰りを帯びて、部屋が夕闇に沈んだように薄暗く感じられた。

 無意識にこくりと喉が鳴る。

 先ほどそこを滑り落ちたのは、彼女がいれてくれた、この世の物とは思えないほど旨い茶であった。


 母様と父様のもとへ帰りたいと、私は錦鯉に頼みました、と娘が続けた。

 風がやみ、葉擦れの音も鳥の声もしない静寂のおりた座敷で、細い声が語る。


 晩年に私を授かった両親は、体の弱く何もできぬ私を守り、慈しんで育ててくださいました。

 せめて先に逝くことなく、娘として、二人の最期を看取りたいのです。

 どうか、どうかこの願いだけは、と私は必死に頼み込みました。


 それで鯉は、しばらく思案しておりましたけれど、この家から遠く離れたりしないように、と約束を交わすと、私を両親の元へ行かせてくれたのです。


 話はそれでしまいだった。

 語り終えた娘は、ふと外を見やって、あら、雨かしら、と言った。

 彼女の視線を追った私は、にわかにかき曇る空の暗さに、ああ、そのようだ、と思い、次いで池の眩しさに気付いてまばたいた。


 いったい何が眩しいのか、最初は分からなかった。

 しかし目をこらして見るうちに、蓮の花だと輪郭をとらえる。

 深い池の水面にぽつぽつと葉だけを浮かばせていた蓮が、みるみるうちに茎をのばして蕾をふくらませ、眩く輝く白い花を次々と咲かせてゆく。


 虹色の光沢がすべるような蓮の白い花弁に、やがて雨が降りかかる。

 ぽつぽつと庭石を濡らし、花を揺らすその細い雨には不思議なほどに音が無く、私にはすべてがどこか遠い出来事であるかのように感じられた。

 その時である。


 蓮花がりぃんと揺れ、池から天へと滝が落ちるように水が跳ねた。

 飛沫(しぶき)が散ってあたりが(かす)み、その向こうにうねる影を見る。


 それは一匹の錦鯉であった。

 鮮やかな紅の地に雪のような白と金色の斑が散る、美しい魚が、優美にたなびく尾鰭でぱしゃんとひとつ池を打って、降る雨を(さかのぼ)る。

 雨滴に煙るその向こう、錦鯉はぐんぐんと空を昇り、やがて一頭の龍となる。

 その彩りはこの上もなく華やかで、天に(にしき)の華咲くようだ。


 いつしか雨はやみ、あたりに残った水煙に陽が射して虹がかかる。

 錦の龍にもさっと筆で()いたように陽光がすべり、煌めく鱗の優美に波打つ(さま)にため息がもれそうになったが、ふと、鋭い鉤爪(かぎづめ)のついた前脚にひときわ美しく輝くものがあることに気が付いた。


 天翔ける龍がしっかと握りしめるそれは、力の源であると言い伝えられる宝珠であろうか。

 しかしそれを見た時、私は確かに、彼女のあたたかな笑い声を、聞いたように思うのだ。





 その後の記憶は、定かではない。

 どれくらい時間が経ったのか、うたた寝から覚めるように我に返った私は、何事も無かったかのようにひとり座敷に座っていた。


 卓には冷たくなった(から)の茶碗が、一つ。

 向かいには誰もおらず、そこに誰かがいた気配すらなかった。


 私は縁側に出て、近くに見つけた下駄(げた)を借り、濡れたふうのない庭へ降りる。

 満開の蓮花で満たされるところを見たはずの池は、いつの間にか葉すら浮かばぬ黒々とした水面をたたえ、その奥にはまったく何も無いように思われた。


 そこへようやく、家の奥から声がかかる。

 花器を運んでおくれ、と叔母の頼む声である。


 私はもう何もない池に背を向け、屋敷へ戻った。







 後日、叔母を通じて菓子折りをいただいた。

 私がごく普通の味しかしない茶をいれると、叔母が包みをほどいて菓子をつまみながら、種明かしをしてくれた。


 私たちがあの屋敷を訪れる数日前に、夫妻が箱入りにして育てた珠玉の娘の、あの彼女は、錦鯉との約束の話を兄に語ったのだという。

 ああ、と思わずため息がもれる。

 兄君は当然、気付いたのであろう。

 彼女の、錦鯉は私を両親の元へ“行かせてくれた”、という言葉に。


 どうしようもなく、彼女の身はすでにこの世に無かった。


 それでも、大事な家族である。

 そう簡単に諦めのつかない兄は、嫁とともに必死で彼女を引き留めた。

 しかし、止めようにも止められぬこともある。


 それで相談を持ちかけられた叔母が、平静に見送ることなどできず、さりとて一人で旅立たせることもできないと苦悩する兄君の代わりに、見送り役として私に白羽の矢を立てた、というのが先日のいきさつであったらしい。


 花器もしっかり運ばされた上に、知らずもう一つお役目を頂戴していたとは、いいように使われたものである。

 しかし叔母は、一生に一度、あるかないかというくらい旨い茶が飲めたろう、しかも見目麗しい娘に手ずからいれてもらったのだから、あれ以上に何が欲しいと思うんだい、などと悪びれない。


 やれやれ、と苦笑して首を横に振りつつ、いただいた菓子に手をのばした私に、叔母が告げた。

 長男は所帯を持った時に建てた家があるから、あの屋敷は売りに出すそうだ。

 末娘とともに錦鯉も消えてしまい、蓮の葉すらも沈んでしまった池を見て、踏ん切りがついたのだという。


 あれだけ大きな屋敷が閉じられる時なのだから、奇妙な事の一つも起こるだろうと、叔母はどこか遠くを眺めてつぶやいた。

 あの日降ったはずのにわか雨も、それを遡って天を翔けた錦の龍も、誰も知らずもはや私のおぼろげな記憶の中にしか無い。


 菓子をつまみ、茶をすすった。



 ある屋敷の、しまいの話である。





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