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大正おぼろ譚  作者: 縞白
3/9

『雨宿りの君』





 ある日の黄昏時の話である。



 町に出かけた先で通り雨に降られた私は、威勢よく地面を叩く大粒のそれに追い立てられ、近くの軒下に駆け込んだ。

 用事はもう済ませてしまったが、あいにくと傘を持ってきていない。

 しかも黄昏時である。

 できれば日暮れまでにやんでくれまいか、と振り仰いで曇天を見上げていると、ふと隣でくすりと笑う気配があった。


 まるで気付かなかったのだが、雨宿りの先客がいたらしい。

 これは失礼を、と慌てて身を引きながら隣を見ると、いいえ、とほほ笑む少女と目が合う。

 丈の長い白のワンピースを着たその少女は、繊細なレースで縁取られた可愛らしい日傘を手に、先ほど急に振り出した通り雨に濡れた様子もなく佇んでいた。


 身なりは深窓の令嬢そのもので、綺麗にのびた背筋も育ちの良さをうかがわせる。

 遅まきながらも挨拶を交わして話をしてみると、その言葉遣いも丁寧なものであった。

 しかしいささかお転婆(てんば)なところがあるようで、散歩が大好きな彼女は今日も家の者を連れて出かけたのだが、心の向くまま気の向くまま、あちこち巡り歩いているうちにはぐれしまったのだという。


 賢そうにきらめくややつり上がり気味の瞳や、気の強そうなふうにつんと上向く顎を見ていると、好奇心旺盛な猫を思わせる少女である。

 見たところおとなしげな風情であるが、なるほどお守りをするとなると、なかなかに手強そうだと思う。


 心の内で苦笑しつつ、綺麗な洋服でいらっしゃるのに通り雨に降られるとは、今日は不運でしたねと話を続けると、彼女はそうでもないのだと、首を横に振った。

 そういえば、丈の長い白のワンピースには、一つも泥はねがないのにふと気づく。

 我が身を見おろせば言わずもがな、先ほどここへ駈け込むのに蹴散らした土のはねたような染みが、あちこち点々とにじんでいる。

 はてこれは、と首を傾げる私に、少女はその理由を教えてくれた。


 ちょうど今のような、黄昏時に雨が降る日。

 傘をさして通りを歩いていたら、誰かがそばを通り過ぎたのだという。


 しつけの良い少女は、こんばんは、と声をかけた。

 姿は見えなかったが、通りすがりのその誰かは、こんばんは、とちいさな声で返したそうだ。


 少女はそれで満足して、ろくに相手を見もせず歩いていたが、しばらくしてからこうつぶやいた。


 ああ、困った雨だこと。

 散歩することは好きだけれど、濡れるのは嫌いだわ。


 すると傘を叩いていた雨音が消え、それ以来、雨に手をのばしても濡れることがなくなったのだという。

 まるで覆いつきの傘の下に入れられたかのように、服が汚れることもなくなったといい、少女は無邪気に喜んでいる。


 なんともそれは、摩訶不思議(まかふしぎ)な話でありますね、と私があいづちを打つと、なぜだか面白い人だと笑みをこぼされた。

 泥はねた姿で真白のワンピースの少女の隣に立つ、こちらはいたって真面目である。

 いったい何方(どなた)の傘の下に入れられたのやら、やや心配になって、不思議すぎておそろしくはありませんか、と訊ねると、少女は首を横に振る。


 いいえ、ちっとも。

 だってわたくし、散歩が好きで、濡れるのは嫌いなんですもの。


 そう言うと、勢い衰えたとはいえまだしょぼ降る雨の中、日傘をさして歩き出す。

 あ、と。

 思わず少女の方へと手をのばした私は、しかし指先を何かにふうわりと押し返されて、目を見開く。


 白いワンピースの少女の姿が、いつの間にか、(しゃ)がかかったようにおぼろげになっている。

 彼女を覆うそのうっすらとしたものは、どうやら上から垂れさがっているようだ。

 何も考えられぬまま覆いの先へと視線を辿らせて顔を上げた私は、少女の日傘の揺れる先で、大きな傘のようなものが広げられ、それをさらに上からつまんで支えている手のようなものを見た気がした。

 しかしその手はどこからか黄昏にまぎれこんで消えてしまい、私の目は(くう)をきる。


 やがて視線を通りへ戻すと、少女の姿はどこにもなく、雨はやんでいた。

 時刻はもう、日暮れ間近である。


 私はからっぽの手をおろし、家路へつく。

 黄昏時には何に出会うかわからぬゆえ、人影を見かけたら挨拶をして相手の様子を確かめよ、と幼い頃に言われた気がしたが、あの少女の話を聞くと思う。


 時と場合によりにけり。



 ある日の黄昏時の話である。





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