第VIII話 灰色の場所
薄闇に沈んだ部屋。コンクリートが剥き出しになっているその部屋は硬質で冷徹な印象を与え、月の光が唯一の窓から差し込んでくる。
窓のすぐ手前に据えられたソファーに、榮は片膝を抱えるようにして座っていた。冴え冴えとした月光が榮をてらし、榮の周囲の空気を仄青くする――それはまるで一枚の絵。
抱えた膝に顔を埋めるようにして、榮は掠れた声で呟く。
「…ろ、や…」
それは、ひとりの青年の名前。榮の記憶に刻みついて消えない、呪縛にも似た想い。ただ甘いだけではなく、苦しみと痛みと虚無を伴う、深い想い。
唐突な出逢いと、甘やかな幸せと、唐突な裏切り。いつも底の見えない笑みを浮かべ、それでも腕の暖かさは本物だった。
ああ駄目だ。この時期になると、思い出す。
脳裏に浮かぶのは、青年の面影。もう二年近く前のことなのに、鮮やかに。
榮は硬く目をつむる。
はやく、はやく。
忘れろ。
いくら想っても、もう逢えない。
忘れろ。全部。
*
人混みを縫うようにして、竜が歩いていく。指先だけを繋いで、沙慧もそのあとをついて行く。
繋いだ指先の暖かさを不思議に思いながら、沙慧はふと思った。
これは、現実だろうか。
毒々しいまでの鮮やかなネオンに彩られ、追い払われた夜の闇。追い払われた夜の闇は光の届かないところに凝り、目が潰れそうなほどに濃い闇と化す。人はその闇に気付かずに、時間に急かされ擦れ違いを繰り返す。
一歩間違えば狂気と幻想の世界となる、東京。
そんな街を二人、泳ぐように歩く。これは現実?
かあさん。
その単語が、一瞬脳裏をよぎった。なぜだろう。
これは、逃げではないのか。
浮かび上がってきた問いかけ。逃げることを許されず、目を逸らすことを許されず、その生き方を自分は許容した。それなのに。
今自分がここにいることは、逃げにつながりはしないか。
「高村?」
「ッ!」
ふいに、鼻先に暖かいものがぶつかった。
「わ…っ」
竜は驚いた。さっきから呼んでいたが返事がなく、身体ごと振り向きながらもう一度呼んだのだ。その途端沙慧が胸にぶつかってきたものだから、反射的に、沙慧の細い背に腕を回しそうになる。――その間も、指先は繋いだまま。
驚いた。沙慧の身長は、竜のあご辺りまでしかない。小学校の頃は、女子との身長の差なんか無いに等しかったのに。
「…ごめん。何、水槻くん」
「ああ、…えっと」
繋いでいない方の手で軽く鼻を押さえながら、沙慧が離れる。竜は頭をかいた。
特に意味はなかった。ただ、背後の沙慧が上の空らしかったので、大丈夫かと思って呼んだだけだ。
「いや、なんでもない」
早口で言ってから、沙慧に背を向けてもう一度歩き出した。沙慧もついていく。
夜の街を、二人で泳ぐように歩く。
竜は暫く歩いたあと、街を外れた。竜が無言のままだから、沙慧も何も言わない。
街を外れ、暗い小路をずっと行く。入り組んでいるその小路を竜は慣れた様子で歩く。
沙慧はゆっくりと辺りを見回した。きらびやかな街から抜けると、辺りは少しずつ寂れた雰囲気を持つ。築何十年もしそうなアパート、空き家が目立つようになり、街灯と街灯の距離が少しずつ開いていく。
この先に何があるのだろう。
今まで歩いてきた暗い路地を、ふと振り返る。
遠く、遠くの高い位置に、ビルの明かりが見える。規則的に並んだ窓から光が零れ、夜にそびえ立っている。ビルが、いくつも。
「高村?」
ふと我に返る。前に向き直る。竜がこちらを見ていた。
「…何?」
「いや。そろそろ着く」
行って、竜は少し足を速めた。思いもよらないクラスメイトとの遭遇で、かなり時間に遅れている。榮が心配しているかもしれない。
沙慧は一瞬目をつむる。意味はなかった。ただ指先のぬくもりを確かに感じ取るために、目をつむる。視覚を封じ、触覚を鋭敏にする。
けれどそれは本当に一瞬で、次の瞬間には沙慧は目を開けていた。
竜が幾つ目かの角を曲がる。沙慧もその角を曲がり――
突然、視界が開けた。
「…え?」
沙慧は声を漏らした。
突然ぽっかりと視界が開ける。中学校の校庭ほどもありそうな土地が、目の前に無造作に横たわっていた。夜のせいか、その土地すべてが灰色に染まっている。
そして、その土地の奥にある、コンクリートが剥き出しの鉄筋製の建物。
「…これは?」
沙慧の問いに、竜は答えた。
「私立の学校か工場になるはずだったもの。つっても、建設途中に金出してたどっかのお偉いさんがどうにかなっちゃって、金が無くて造られかけのまま放棄された、中途半端な建物。今は俺らが存分に使わせてもらってるけど」
鉄筋製のその建物は、月の光を浴びてどこか不気味にそびえている。
沙慧は繋いでいた手を離し、ゆっくりと歩き出す。
竜はそれを、ぼんやりと見ていた。
土地の半ばまで沙慧が進み、立ち止まる。濃淡のある灰色だけで構成された景色に、レモン色のワンピースが鮮やかだ。
「……」
竜は、何かを言いかけるように唇を動かす。けれど、言葉は音にならず、空気に消えた。
少しうつむく。唇に、そっと指先を当てる。自分は、何を言おうとしたのだろう。
と、榮の横顔が瞼の裏に浮かぶ。
「…榮さん」
呟く。
今の榮は、情緒が少し不安定だ。閉ざしたはずの恋人の記憶が蘇り、恋人の幻影が榮を追い詰める。
竜は、ほんの少し笑みを浮かべた。
好きだったひとの記憶とは、――もう逢えないのに焦がれずにはいられないひとの記憶とは、厄介なものだ。忘れようと、想いを閉じようとする自分の理性を無視して、蘇ってくる。
笑みを消して空を仰ぐ。あのひだまりの少女は、空の上で微笑むことができているだろうか。
「…高村」
息をついてから歩き出し、沙慧を追い越す。追い越す瞬間名を呼ぶことで、ついてくるよう促した。
後ろから沙慧がついてくる。その気配を感じ、竜は心持ち足を速めた。
榮は、大丈夫だろうか。
建物の中は暗く、灰色の紗を通して見ているようだ。一歩踏み出すときの足音がかつ、かつ、と必要以上に大きく聞こえる。
前を歩く竜の背を、沙慧は見つめる。
この灰色の大きな建物に呆然と立っていた自分を、竜が追い越した。
追い越す瞬間に垣間見えた、硬質な表情。
あの表情の意味するものは、何なのだろう。
長い廊下。等間隔で並んだ窓から、弱々しい光が差し込んでくる。それでも、人口の光源が皆無に等しいこの建物の中では、貴重な明かりだった。
ふと竜の足が止まる。沙慧もそれに倣った。
廊下の突き当たり。少し大きめの扉がある。
「…悪い、高村、そこで待ってて」
竜は沙慧を首で振り返り、言う。沙慧は微かにあごを動かした。
それをうなずきだと取り、竜は扉のノブを手のひらで包み込む。
大きく息を吸ってから、扉を細く開けた。
――扉からまっすぐの位置にある窓。窓のすぐ手前のソファー。
榮が、いる。
ソファーに座り、片膝を抱えて。抱えた膝に顔を埋めるようにして、微動せずにそこにいる。
窓から差し込んでくる光が榮の周りの空気だけを青くし、幻想的といっても良いほどの雰囲気をつくりだしていた。
竜は沙慧に部屋の中を見せまいとするように、細く開けた扉の隙間に身を滑らせる。ちらりと沙慧を見やり、もう一度悪いと視線で伝えてから、扉を閉めた。