第VII話 夜に
都心の街の横断歩道。漆黒の空を頭上に、人々はせわしなく歩いていく。
横断歩道には途切れることなく人が流れ、ひととひとは擦れ違いを繰り返す。
そんな人の波は、横断歩道の中央を避けるようにして、ぱっくりと割れていた。
割れ目の中心にいるのは――少年と少女。
少年が少女の右手首を左手で掴み、少年が少女を引き留めているような格好だ。少女は少年を驚いたように見つめかえす。
ある人は興味深げにふたりを眺め、ある人は面白そうにニヤつき、ある人は迷惑そうに眉をひそめ、ふたりを避けて歩く。
沙慧はそんな周りの視線に気付かず、もう一度声が漏れるのを止められなかった。
「…え?」
竜も、自分の行動が不可解だというように、困惑した表情で言葉を紡ぐ。――もうひとつ、握った手首のあまりの細さに、少なからず驚いていた。
「…高村、だよな?」
沙慧は目を瞠った。そしてふいに、思い出す。
中学の教室。
窓際の席。
学生服。
春の終わりになると必ず、ぼんやりと外に視線を投げている。
何かを懐かしむように。
「…水槻、竜…くん…?」
竜は呆然とした沙慧の瞳を見ながら、困惑しつつも素早く考えを巡らせていた。
沙慧の来た方向から横断歩道を渡りきれば、竜の住むマンションがある住宅街、どこかの事務所のオフィス、流行りの洋服をそろえたショップが主だ。あとは某商事のビル、人の出入りが滅多に見られない興信所。マンションのそばで沙慧を見たことはなかったし、オフィスやビル、興信所に行くような年齢ではない。そしてこの高村沙慧は、流行りの洋服に興味があるとも思えなかった。
そしてそれ以外といったら、まっすぐ行けば色街のある小路。
まさか。
「おまえ…」
思わず問い詰めようとしたとき、酒のにおいが鼻をついた。
「よっ、若いねえ兄ちゃん姉ちゃん!」
かなり酒を飲んだあとだとわかる、赤ら顔をした中年男性がふたり、よろよろとすぐそばを歩いていった。そのうちひとりが、甲高い口笛を吹く。
「青春かぁ!?大いに結構結構!」
下品な笑い声を上げ、二人組は通り過ぎていく。そこで竜は顔を上げ、――信号が点滅し始めていたのに気付いた。横断歩道の真ん中に、竜と沙慧だけが取り残されている。
とりあえず信号を渡りきろうと、竜は沙慧の手首をきつく握ったまま、歩き出した。
「え…ッ」
沙慧は一瞬抵抗のための力を入れたが、同年代の男子の力に敵うわけがなかった。さっき歩いた道を再び戻るようなかたちで、竜に引っ張られる。二、三歩まろぶように足をもつれさせたあと、僅かに駆け足を混ぜながら、竜の後ろをついて行く。
途中後ろを振り向いた。風船は、もう見えない。
再び前を向き、握られている手首が妙に熱を持っているのに気付いた。
(そういえば…)
他人に触れられるのは、久しぶりだ。少なくとも、悪意を持たないで触れられるのは。
とくり。
身体の内側が、震えた。しびれに似た感覚が、指先まで駆け抜ける。
こんな感覚は、忘れていた。
忘れていた感覚が、感情が、次々と呼び覚まされる。
めまぐるしいその変化に沙慧はほんの少し怯えながらも、何故か嫌ではなかった。
*
竜は自分の行動に戸惑いながらも、とにかく人の多い通りを抜けた。
沙慧の細い手首を握ったまま闇に落ちた小路に入る。闇は音を吸収してしまうのか、その小路に入った途端、街の喧騒がすっと遠のいた。薄いガラスを通したようだ。それでも微かに、笑い声や車の走行音が聞こえてくる。
街灯がぽつぽつと点在する小路を少し行くと、児童公園があった。とりあえず竜はその公園に入り、ベンチに沙慧を座らせる。
沙慧は手首を包んでいたものが消えたことに少しの間微かな違和感をおぼえ、右手首を左手でス、となぞってみた。
なぜかくすぐったい。手首ではなく、体の芯が。
竜はふぅと息をついて、腰を伸ばすように空を仰いだ。ちらりと沙慧のほうを伺い――そして、驚く。
沙慧の唇が、僅かにほころんでいた。本人は気付いていないらしく、竜が思わずその顔を凝視してしまっているのにも気付かない。
へぇ。
竜は思う。
こいつは、こんなふうに笑える奴だったのか。
沙慧は、学校では一度も笑っていない。ただ堪えるような目をして、じっと授業が終わるのを待っていた。息を詰めるようにして、誰とも目を合わせずに。たまに教師に指されれば正しい答えを淡々と呟くものだから、クラスの女子の一部に反感を買っていたが、沙慧が纏うその異質な空気に押され、誰も何もしていなかった。沙慧を遠巻きに見るだけで。
結構笑い顔、可愛いじゃん。
そんなことをふと思い、なぜか顔を赤くなる。なぜだろうと考えて、気障な男のようなことを考えたのが恥ずかしかったのだと思い当たった。それでまた顔を赤くする。
「…水槻くん?」
名前を呼ばれ、ハッとした。沙慧のほうを見る。
沙慧は、本当に微かな困惑を浮かべ、喉に引っかかるような言葉を紡ぐ。
「あ、何?」
「…なんて呼べばいい?」
沙慧は、困惑している自分に驚いていた。
いつも、冷静でいた。困惑する必要などひとつもなかったし、言葉を選ぶ意味もなかった。
今日の自分は、どこか変だ。
竜は一瞬拍子抜けした。
このひとが、そんなことを気にするようなタイプには見えなかった。
「…あ、別に何でも。水槻でも竜でもタツでも…」
沙慧たちの学年には、竜という名前の生徒が二人いる。竜はごく一部の生徒からは、区別するためにタツと呼ばれていた。
竜は何となく二の腕をさすった。そのことで、今が夜だと思い出す。公園は薄闇に落ち、街の喧騒が遠くに聞こえる。街とは反対のほうから、冷たく冴えた風が流れてきた。
「…あ」
そうだ。自分はいいが、高村沙慧は、こんな時間に外に出ていて良いのだろうか。
「高村?」
「なに?」
沙慧は竜を見上げる。細い髪がさらりと揺れる。
綺麗だなと思ってから、竜は言葉を口にした。
「こんな時間に、大丈夫か? 家に帰った方が…」
竜は続けようとした言葉を飲んだ。
「家」という言葉が出てきた途端、沙慧の瞳が目に見えて震えたのだ。瞳孔が一瞬引き絞られ、酷く怯えた色を浮かべる。
「…あ…」
沙慧の唇から零れた声が掠れて、震えている。竜は戸惑う。どうすればいいのかわからなくて、とりあえず頭をかいた。
「…えっと…?」
また、冷たい風が頬をなでていく。半袖の自分でも少し肌寒いのに、ノースリーブでワンピースの相手は大丈夫だろうかと心配になった。
風がふぅとやんだ時、沙慧は震える声でぽつりと呟いた。
「…帰りたく、ない」
帰りたくなかった。あの、広い日本家屋。すべてで自分を拒絶する、人間。
沙慧は言ってから息を呑む。
今までは、耐えてきたはずだ。耐えて、何も感じないように努力してきた。
それが、今になって本音が顔を出す。
駄目だ。耐えなければいけないのに。今まで耐えてきたのに。
耐えなければいけないのに。
「…じゃあ」
沙慧はハッとして、竜に焦点を合わせた。そして、目を瞠る。
竜の表情が、一変していた。
今までの気さくな印象を持たせるものではなく、とても冷たく、硬質な。
その表情のまま、竜は淡々と言った。
「一緒に来る?」
「…え?」
また風が吹いた。沙慧の髪が、夜の空気になびく。街の喧騒が一瞬、掻き消えたように感じた。
「一緒に来る?」
「…どこに?」
竜は微かに笑みを浮かべた。
「…ココじゃないトコ」
ここではない、どこかへ。
沙慧はうなずく。理性で考える前に、感情がうなずいていた。
「行く」
竜はふいににっと笑った。さっきまでの硬質なものは微塵もない、いつもの笑顔。
「よし。行こうか」
竜が手をさしのべてくる。沙慧は一瞬の躊躇いもなく、その手に自分の手を重ねた。ゆっくりと、ベンチから立ち上がる。
ここではない、どこかへ。
二人は夜の公園を抜ける。暗い小路を通るうちに、街の喧騒が再び戻ってきた。
とくり。とくり。
心臓が鳴るのを、沙慧は止められなかった。
ただ、竜に手を引かれ、ネオンが無数に浮かぶ街の中を歩いていく。
ここではない、どこかへ。
第IV話に続いて文章が拙く、申し訳ありません。
一生懸命書いているんですが、文章力の無さのせいか、語彙の少なさのせいか、うまく言葉をつなげることができなく…。最終話が見え始めたら、手直しをします。
お目汚し、本当にすみませんでした。