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第VI話 ふたり

 遠くで車のクラクションが聞こえる。月も星も見えない、真っ黒な空。鮮やかなネオンがあちこちに浮かび、夜の空気を彩っている。

 沙慧はぼんやりと、夜の東京を歩いていた。

 交差点の信号が赤だ。沙慧は足を止める。

 夜なのに、人が多い。駅からたくさんのひとが吐き出され、その人たちは、横断歩道の向こう側にたまっていく。その間も、駅はひとを呑みこみ、吐き出す。

 信号が、青に変わった。

 皆が一斉に歩き出す。皆同じような顔をして、人の波に流されるようにして歩いていく。沙慧も、歩いた。向こう側にいた人々も、一斉に歩いてくる。

 二つの人の塊がぶつかり合い、砕けた。それでも人々は進行方向を変えずに、誰かと向かい合ってはすれ違っていく。

 沙慧も人の波に押されるように、ふらふらと歩いた。剥き出しの二の腕が、少し寒い。

 スーツ姿の男性に女性、制服姿の高校生、塾の名前が入った鞄を背負う中学生、部活帰りの学生、地味な服を着て急いでいる女性、派手な服装で髪を染めている女子高生、幸せそうに頬を染めて歩く若い男女。

 皆一様に、すれ違う人たちのことを気にも止めない。長い髪とそれを梳く櫛のように、一瞬ふれあっては離れていく。

 横断歩道を渡りきり、人の流れから抜け出した。沙慧は辺りを見回す。

 知らない顔だけが往来する。沙慧を知っているひとは、一人もいない。

 沙慧の罪をとがめるひとは、誰もいない。

 沙慧は微笑みを浮かべる。

 と、その目を軽く見開いた。

 漆黒の夜空。きらびやかな明かりをまとった高層ビルの間を縫うようにして、赤い風船がふらふらと空を泳いでいた。

 沙慧は瞳で、風船を追っていった。

 風船はふよふよと、頼りなさげに飛んでいく。やがてそれはビルがびっしりと生えた駅の周辺を抜けて、どこか妖しい店が密集しているところの上空へ入っていった。

 その店たちがなんなのか、沙慧でも知っていた。

 色街。

 けれど、何かが囁いた。

 追いかけてみようか。

 沙慧はふらふらと歩き出す。

 ひとと擦れ違い、人の波にもまれて、沙慧は風船の行った方へ行ってみる。

 風船を追いかけている、というのは言い訳だと、沙慧もわかっていた。

 ただ、行ってみたいのだ。

 そして、――あそこへ行ったらどうなるのだろうと。

 信号が赤になる。足を止める。

 この横断歩道を渡れば。

 だんだんひとがたまってくる。車の排気ガスがうるさい。電光掲示板では何かを宣伝していて、めまぐるしく色の変わるライトが目に痛かった。夜の冷気が、ひとの熱気に紛れていく。

 向こう側にもひとがたまり始める。携帯をいじっているひと、神経質に腕時計を気にするひと、重そうな鞄を肩にかけ、顔をうつむかせているひと。

 この人たちひとりひとりに、何があったのかは知らない。知る必要がない。

 信号が青に変わった。

 せき止められていた水が一気に解放されたように、人の波が動き出す。沙慧も、その人の波に合わせて動く。

 人の塊がぶつかって、砕ける。さっきと同じ。

 そして、さっきと同じように、ひととすれ違っていく。

 人の波。人の群れ。ネオンの光。熱気。

 すべてが渦巻いて、意味のないものになっていく。すべての理由が、わからなくなってくる。

 横断歩道の中央にさしかかる。



 右腕に、硬い感触を感じた。



 最初は手がぶつかったのだろうと思い、右腕を軽く動かした。けれどその感触は、沙慧の手首をとらえて放さない。そのことで、この感触は確かに沙慧を掴んでいるのだと知る。

「…え?」

 沙慧は思わず足を止め、声を漏らした。


 **


 竜は、白のTシャツにジーンズというラフな格好で、ぶらぶらと東京を歩いていた。

 目的地はひとつ。――そこで、榮が待っている。

 ジーンズのポケットに手を突っ込みながら、竜はぐるりと街を見回した。

 東京の街。竜はいつもこの街は、どこか乾いていると感じる。

 慌ただしく時間が流れ、人々は他人に関心を持たず、ひととひとはすれ違うだけ。時計の針に急かされて、乾いた時間が流れるだけの空間。

 乾いている。けれどこの街に住んでいる人間は、乾きを訴えることはない。

 慣れているからだ。乾いた時間が急いて流れ、ひととすれ違うだけの生活に、慣れている。

 竜は地方で生まれ、小学三年生まで過ごしたあと、四年生進級を前にして東京に越してきた。引っ越してきたばかりの頃、流れる時間の速さに愕然とした記憶がある。

 この街では、青い空をぼんやりと眺めることも、水に手をつけながらその冷たさを全身で感じることもしないのだろう。意味のないことはしないのだ。

 この街に来て四年目だが、実を言うと、今でも居心地が良いとは思えない。

 交差点。横断歩道を渡ろうと思ったら運悪く信号が赤になる。小さく舌打ちしながら、竜は足を止めた。

 向こう側にも、だんだんとひとがたまってくる。

 排気ガスのにおい。ひとのざわめき。車の走行音。めまぐるしく色の変わるネオン。どこかで上がる女子高生の嬌声。ゲームセンターの喧しい音。

 すべてが混ざって、混沌とした空間を作り出す。

 竜は大きく息を吐き出した。

 信号が青になる。両手をポケットから出し、右足を前に出す。

 向こう側から来る人の塊とぶつかる。できる限りよけながら、それでもよけきれずに人の肩と軽くぶつかる。

 それを何度か繰り返し、交差点の中央にさしかかった。

 と。


 ――目の前に現れた、ひとりの少女。

 

 竜は目を瞠った。

 レモン色のワンピース、白い腕、長い髪、華奢きゃしゃな身体。

 それが誰だと認識する前に、腕が動いていた。

 左腕が動く。すれ違う瞬間、華奢な少女の右手首を、掴んでいた。

 自分の行動の意味がわからない。衝動だ。

 少女は軽く腕を動かしたが、自分の手首を包んでいるものが、意図的に握っている人の手だと気付いたのか。少女の口から、声が漏れた。

「…え?」


 **


 沙慧は自分の右手首に目をやった。――少し骨張った、少年の手。その大きな手のひらが、自分の手首を掴んでいる。

 沙慧はゆっくり、大きな手から腕、肩、首…と、視線をずらしていく。

 竜は沙慧の手首を掴んだまま、沙慧の瞳の動きを見つめる。

 沙慧の瞳が、竜の顔にたどり着く。

 ふたりの視線が、出逢った。

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