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第V話 どこかで――沙慧

 沙慧はぼんやりと、天井を見上げていた。

 今朝目覚めたら、酷く頭痛がした。それこそ、頭を持ち上げることすらままならないほど。

 あまり言いたくはなかったが、祖母に言わなければ学校に連絡は回らない。倒れそうになるほどの激しいめまいにくずおれそうになりながら、必死で部屋のドアを開けた。

 その、部屋のドアを開けた丁度そこに、沙慧と同い年の、従兄弟の兄のほうがいたのが幸いだった。従兄弟は沙慧の様子に軽く眉を上げ、祖母を連れてきてくれた。

 声をつっかえながら旨を伝えると、祖母は不機嫌そうに眉をひそめながらも、学校に連絡しておくと言ってくれた。可愛い孫の手前もあったのだろう。沙慧は、従兄弟がいてくれたことに感謝した。

 そして祖母の了承を取り、もう一度部屋に戻って横になり――その途端、嘘のように頭痛がひいていったのだ。

 沙慧は驚いた。頭が砕けるかと思うほどの痛みも、気持ち悪くなるほど揺れていた視界も、あっけなく無くなったのだから。

 沙慧は一瞬、祖母に伝えて学校に行こうかとも思ったが、やめた。あの祖母がどんな反応をするか、目に浮かんだからだ。

 沙慧は閉じた瞼の上に右腕を乗せ、全身の力を抜いた。

 疲れたのか、と思う。

 精神こころでどうごまかしていても、精神的疲労は肉体に影響を及ぼす。精神こころでどんなに虚勢を張り、ごまかして耐え、堪えていたとしても、身体は正直なのだ。一定の量の疲労がたまると悲鳴を上げ、症状を出す。今日は休めると知ったから、症状を納めたのだろうか。

 たまには良いか、とふと思ってしまった自分を、間髪入れずに叱責した。

 本来なら、休むことも許されないのだ。

 けれど、身体は正直で、疲労を少しでも消そうと瞼が重くなる。

 沙慧は抵抗するだけ無駄か、と思い、少しだけ、と目を閉じた。


 *

 どこかで、誰かが泣いている。

 声を出すことなく、無表情なままで、泣いている。

 まるで、自分自身にすら気付かせまいとするように。


 タスけテ

 助けて

 たスけて


 つカレた

 つかれタ

 疲れた


 もう、

 ゆるシて

 ユるシて


 赦して―――


“赦されるわけがない”

“赦されることなど無い”

“消えない罪”

“許しを望むなんて、あつかましい”


 わかっている。それでも、許しを望まずにはいられない。

 救って欲しい。

 誰か。誰か。


 息が詰まる。呼吸ができない。

 生きて、いけない。

 全身に突き刺さる憎悪、嫌悪。

 全身で感じる拒絶、否定。

 どこに行けばいい。どこに行けばいい。

 どこで生きればいい。どこで。

 ここじゃない、どこかで。

 どこ?



 泣いているのは―――

 *


 頭痛は去ったはずなのに、頭の芯が鈍く重い。沙慧はゆるゆると瞼をあげた。

 ぼんやりと視線を巡らせる。部屋が、赤い。

 …赤い?

 ――夕方だった。

 沙慧は思わず、上半身をガバリと起こす。

 寝付いたのはたぶん、午前八時前後。今は、午後六時。十時間も眠っていたことになる。

 沙慧は目を瞠り、――その途端、目尻に走った張るような感覚に驚いた。

 まさかと思い、目尻に人差し指を這わせる。僅かに、濡れたような感覚があった。

 泣いていた。

 なるほどだから目覚めたとき頭が重かったのか、などと考えながら、沙慧はぼんやりと、微かに濡れた指先を眺めた。

 泣いていた。一体、どのくらいぶりだろう。

 少なくともあの薄暗い部屋に閉じこもる一ヶ月ほど前からは、泣くことも忘れていた。

 薄暗い部屋に閉じこもる一ヶ月前。――閉じこもる原因となったことが、起こった時。

 あれは例えるなら、今まで表だと信じていたコインの面が、裏だったことを知ったような。

 あの瞬間感じたのは、まず衝撃だったと思う。

 それから、絶望、恐怖、怒り。そして、人間への不信感。

 ひとの発する言葉すべてが、信じられなかった。

 ひとが笑顔を浮かべながら紡ぐ言葉。自分に向かって言葉が紡がれた時、心の中で問い返し、疑った。

 それは、あなたが本当に感じていること?

 この言葉には、本当に偽りはない?

 裏ではののしり、嫌悪しているのではない?

 これは、わたしを信頼させるための嘘かもしれない。わたしをほめている裏で、嘲っているかもしれない。

 そう考えると、何も信じられなくなった。

 人は心を偽れると、気付かなければ、信じていられたのに。

 純真にひとを信じて、ひとと寄り添って、交流を深めて。そう言う理想的な生き方が、できたかもしれないのに。

 気付いてしまった。

 ひとは、心を偽れる。


 母さんのように。


 そう思ってしまい、沙慧はこくりと唾を呑んだ。

 違う。母さんは、偽ってはいなかった。

 そう自分に言い聞かせる。だって、本当に自分を憎んでいたら、自分が暗い部屋に閉じこもった時、喜ぶはずだ。母さんは、泣いて謝ってきた。

 だから、母さんは偽ってない。

 そう理性で言い聞かせる。それなのに、どこかがそれを否定する。


 違う。母さんは、どんな形であれ偽っていた。

 だって、裏切られた。信じていたのに、裏切られた。

 母さんが自分のことをあんなふうに思ってたなんて、知らなかった。

 裏切られた。裏切られた。

 母さんは、わたしを裏切った。

 だって、わたしは傷ついた―――


「―ッ!」

 沙慧は硬く目をつむり、頭を振った。

 駄目だ、駄目だ。

 何が駄目なのかはわからないけれど、駄目だと感じた。

 顔が歪む。

 息が苦しい。

 息が詰まる。呼吸ができない。

 生きて、いけない。

 沙慧は静かな息苦しさを払拭したくて、ベッドから抜け出し、窓に歩み寄った。酸素を求めるように、窓をいっぱいに開ける。

 あえぐようにして呼吸する。呼吸が、浅くなる。

 酸素が足りないような感覚に陥って、視界が霞み始めた。微かに暗くなった瞼の裏に、ふと、家族の顔が浮かんでくる。

 姉の目。父の目。妹の目。祖母の目。従兄弟の目。叔母の目。

 すべての目が憎悪や嫌悪をいっぱいにたたえ、睨んでくる。

 ふいに、目が眩んだ。

 全身に突き刺さる憎悪、嫌悪。

 全身で感じる拒絶、否定。

 どこに行けばいい。どこに行けばいい。

 どこで生きればいい。どこで。

 ここじゃない、どこかで。

 どこ?

「ここじゃない…」

 荒い呼吸の中、掠れる声で呟いてみる。

 ここじゃない、自分の居場所。誰も自分を知らない場所でなら、罪に縛られることなく、生きていけるかもしれない。けれどそんなところ、自分は知らない。

 ――ふと、明かりの灯り始めた東京の街が見えた。

 沙慧はその明かりを、ともすれば霞みそうになる視界で、ぼんやりと見つめる。

 西の空はいつしか赤からくすんだ藍色に変わり、東京は夜を迎えようとしている。

 東京の夜は、虚しさすら感じるほど強い明かりに彩られる。けれどその分、ネオンの当たらない場所の闇は、目が潰れるかと思うほど濃い。

 夜の、東京。

 沙慧は今まで着ていたパジャマを脱ぎ捨てた。

 部屋の隅にあったロッカーを開き、ハンガーを素早くずらしていく。

 三分の一ほどをずらした時、沙慧は手を止めた。

 薄いレモン色の、ノースリーブのワンピースがあった。沙慧はそれを手に取る。

 久しく着ていないものだった。沙慧はそのワンピースに身を通す。

 老人会の温泉旅行で、祖母は向こう一週間留守になるはずだ。従兄弟たちは部活、叔母夫婦は残業で帰りは遅くになる。早めに帰ってきても、わざわざ異質な「高村沙慧」の部屋をのぞいたりはしないだろう。

 レモン色のワンピースは、沙慧の細身の身体によく映える。

 沙慧は、タンスの一番下の引き出しに入っていた、白いサンダルを取り出した。

 サンダルを履いて、窓の縁に、外に足を出して腰を下ろす。街の明かりがよく見えた。

 ――夜の街なら、生きていける気がした。

 誰も自分のことを知らない、乾いた街。華やかな街。

 ひとと、出会ったかと思えばすれ違っていく街。

 沙慧は大きく深呼吸する。

 そしてそのまま――窓の外へと飛び降りた。

 東京の街へ。

 漸く、ここまで辿り着けました。

 次の話でようやく、沙慧と竜が絡む予定です。

 物語が展開するはずなので、どうぞよろしくお願いします。

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