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第IV話  初夏の日――竜

 太陽が、ぽかぽかと窓から差し込んでくる。その心地よさにぼんやりとしながら、竜は一昨年の今頃に思いを馳せた。

 さかえを失って間もなかった頃。自分は部屋に籠もってみたり凶暴になってみたり、情緒不安定だった。母親はそんな自分にどう接して良いのかわからずに、まるで壊れ物を扱うように、必要以上に気を遣ってきた。

 今だって、母親は奇妙に気を遣い、変に優しく接してくる。情緒不安定だった頃は気にする余裕はなかったが、今になると、鬱陶しい。

 自分は別に壊れていないし、正常なままだ。それをびくびくと怯えに近い感情を持って接されるとイライラして、必然的に母親への対応は雑になる。母親はそのことに更に怯えて、よりいっそう丁寧に自分を扱う。

 いい加減、疲れていた。

 今は、母親との関係は微妙だ。食事は一応一緒に取るけど、目は合わせない――というか母親のほうがいつもうつむいている。帰る時間はまちまちで、これといったコミュニケーションはなかった。

 けれど変化したのはその辺りだけで、あとは栄を失くす前――本来の自分に戻っているはずだ。明るく快活、礼儀正しく。無理して自分をつくっているつもりはないし、その必要も無い。

 ただ、小学から一緒の中学に上がってきた何人かの友達――といってもここはかなり高度な受験を受けないと入れないから本当にごく僅かだが、その何人かの友達は、母親と同じような対応をしてきた。母親ほど酷くもないが、どこか気を遣われているのを感じた。

 まあ、それもそうか。竜は苦笑を浮かべる。

 栄を失くしたばかりの五年生初夏から半年ほどは、凄まじく荒れていた。授業をサボるなんてしょっちゅうだったし、掃除用具を入れたロッカーを蹴ってへこませたり、滅多に使わない特別教室の窓ガラスを割ったりしていた。クラスメイトの大半からは敬遠され、教師たちからは激怒の視線を何度も向けられた。

 そんくらい、俺、栄のこと好きだったんだなぁ。

 うんうんとひとりうなずき、はたと、手元に人影が落ちているのに気がついた。

「え?」

 今まで無意識のうちについていた頬杖をといて、顔を上げる。

 こめかみに僅かに血管を浮き上がらせ、頬をぴくぴくと痙攣させている老教師。

「…あ」

 今が数学の授業中だったと、漸く気がついた。

 バッと教室を見回すと、皆くすくすと笑っている。竜はいささか引き攣った作り笑いを浮かべ、わざとらしく声を上げた。

「あれー、先生。どうしたんですかーぁ?」

 ぴくん。

「馬っ鹿者!! 授業の始めから今までボケーッとしやがって! 今が何している時間かわかっているのか!!?ここは進学校じゃぞ!! お前のようなものが何故受験に受かったのか、主任に伺いたいくらいじゃ!!!」

 竜はへらりと笑う。

「えー、だってそれは俺が入試問題解けたからでしょ?」

 ぶちん。

「馬っ鹿者ー!!!!!」

 老教師は一発怒鳴り、手にしていた教科書で竜の頭を思いっきり叩くと、肩を怒らせて教卓へ戻っていった。

「…痛ってぇ…」

 叩かれた頭をさする。笑いは暫くさざ波のように教室内にとどまっていたが、老教師が再び黒板に図式を書き始めた途端、生徒たちはすっと表情を引き締めてノートに向かった。

 竜もシャーペンを握る。そして、ふと視線を廊下側の席にやった。

 廊下側の列の、後ろから三番目の席が、ぽっかりと空いていた。

 いつもあそこに座っているのは、高村沙慧という女子生徒だ。

 常に感情を表すことなく、じっとそこに座っている。永明中の頭髪に関する規則は「髪を染めるな」程度だから、肩胛骨より少し下くらいまで伸びているサラサラの細い髪を、無造作に後ろに流していた。

 何故か、印象に残っている。常に凪いでいる、けれど常に何かに耐えているように黒い瞳。

すべてを諦めているような無表情の下には、苦しみが渦巻いている。

 高村沙慧は自分と本質的に近いと、竜は何故か感じていた。話したことはないか、自分と彼女はどこか似ている。

 だからこそ、それを見抜いた。

 竜はくるりとシャーペンを回す。

 高村沙慧は、確かに気になる。少なくとも、他のクラスメイトよりはずっと。

 けれど、執着はしないと決めていた。

 執着して手に入れようとしても、絶対にいつかは失う。

 執着しても、良いことはない。



 一日の授業終了後に、希望者だけが勉強する放課後学習会を終えて帰路についたのは、空が赤く染まり、影が長く伸びた頃だった。

 学生服の上からディバックを斜めに肩にかけ、夕暮れに染まった道をのろのろと歩く。ふありとあくびを噛み殺した。

 疲れた。今日母は仕事が遅く帰りは深夜になると、今朝ぼそぼそと告げていったから、家には誰もいない。とりあえず一眠りしてから、コンビニに出向いて夕飯をすまそう。

 そこまで考えてから、――竜はぴたりと足を止めた。

 すぐそこに、竜の住むマンションが見える。この小路からそのマンションまでは、一定の間隔で電柱が立っている。

 竜がいる場所から一本先の電柱に、こちらに背を向けてもたれかかっている人影があった。

 影になっているが、それがすらりとした細身の、長身だということがわかる。肩の辺りまでさらりと伸ばしている髪。胸の辺りはつんと盛り上がっていて、腰は見事なラインを描き出していた。

 そこらのモデルよりはよほど良い、女性にしては長身に非の打ち所のないプロポーション。

そんな女性を竜は、ひとりしか知らなかった。

 思わず硬直してしまった喉をとりあえず震わせる。

「…えいさん?」

 人影は、その柔らかな線の肩をぴくんと動かした。

 人影が電柱から背を起こし、ゆっくりとこちらを向く。

 それから、竜に歩み寄ってきた。

 顔は影に落ちていて、よく見えない。竜はもう一度呼びかけた。

「榮さんですか?」

 竜に歩み寄ってくる人影。顔に落ちていた濃い影が、徐々に取り払われてゆく。竜はそれを、ぼんやりと見ていた。

 夕暮れに染まった小路、鮮やかな金色を微かに残している空。ゆっくりと歩み寄ってくる、美しい人影。

 映画のワンシーンに取り込まれてしまったようで、竜は動けない。

 人影の顔から、影が完全に取り払われた。身体の線にふさわしい美貌があらわになる。

「…竜」

 形のよい唇から、竜の名が紡がれる。それにはっと我に返り、竜は慌てて、そのひとに駆け寄った。

 綺麗だ。少女と言うには大人びていて、女性というには幼い。榮というこのひとは、少女のあどけなさと女性の妖艶さを持ち合わせていて、まるで名人の手による精巧な人形のようだった。

「榮さん! どうしたんですか?」

 もう、眠気なんて忘れていた。狼狽うろたえて、竜は榮に詰め寄る勢いで問いかける。

 榮は、柔らかく微笑んだ。

「どうしたって…来ちゃった」

「…あのですね、榮さん」

 答えになっていない答えに、竜は思わず額を抑える。

 竜は、学年でも長身のほうだ。そんな竜と並んでも榮は背が高く、違いは二、三センチほどしか認められなかった。

 榮は微笑みを浮かべたまま、小首をかしげる。竜は思わず大きく息をついた。

「…夜になれば逢えるのに…」

「…夜になれば、ね」

 その声色こわいろに、竜はふと目を瞬く。

「…榮さん、あの季節ですか?」

 榮は一瞬目を瞠ったあと、すぐにふわりと笑った。

 竜はもう一度溜め息をつく。

 榮には、別れた恋人がいるらしかった。本人は認めたがっていないが、榮は今でも恋人を想っている。

 榮は、竜を弟のように気に入っていた。けれど、恋人と別れた時期が近づくと、ふいに榮は、竜に「男」を求めてくるのだ。表面はいつもと変わらずに慈しんでくるけれど、指を絡めてきたり腕を組んだり、時には肩により掛かってきたり。竜はその時は、好きにさせるようにしている。どうせ一月後には終わるのだから。

 ――榮の行動を甘んじて受け入れるのには、もう一つ理由があった。

 けれど竜は、その理由に気付こうとしない。気付きそうになる度に、慌てて思考を別のことへと持って行く。

 ふ、と、今も気付いてしまいそうになり、別のことを言葉にして押し出した。

「…今日は行くんで、大丈夫ですよ」

「そう? …じゃあ、待ってるよ」

 榮はにこりと笑うと、するりと身を翻し、小路の向こうに姿を消した。

 竜は軽く頭を振り、再び戻ってきた眠気に抗いながら、もう一度マンションに歩き出した。


 気付いてしまいそうになる。

 それは、自分でも醜いと思ってしまうほど、浅ましい考え。

 だから必死で、気付かないふりをする。

 ――気付かないままで良いのだとは、思わないけれど。

 文章が稚拙で申し訳ありません。

 けれどここは、書きづらいけれど書かなければ次に(わたしが)進めないエピソードでして…。

 駄文、大変失礼いたしました。次話からは、この文章よりはだいぶましになる予定です。どうぞご容赦ください。

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