第III話 罪と痛み――沙慧
大通りから外れたところに、沙慧が住む家があった。
都会にあまりそぐわない、広い日本家屋。門を通り、玄関まで続く石畳を踏む。庭も広く、松の木やちょっとした池が、趣味よく並んでいた。
沙慧は石畳の上で少し立ち止まる。ゆっくりと深呼吸した。
大丈夫。大丈夫。
そう胸の中で繰り返し、再び歩き出す。玄関の戸に手をかけ、ゆっくりと横にすべらせた。
がらがらがら…
少し重い音が響く。この音が聞こえないはずはないのに、誰も出てこない。
出迎えなど、この家に来てから一度もなかった。
沙慧は深く息を吸うと、学校指定の革靴を脱ぎ、のろのろと家に上がる。革靴は、靴箱の一番奥に入れた。
そのまま、まっすぐのびる廊下を少し歩き、自分に与えられた部屋にはいる。沙慧の部屋は洋室だった。ドアを閉めた途端、身体の強ばりが解ける。そのことで、自分が緊張していたことに気付いた。頭を振って鞄を投げ出すと、沙慧は制服のままベッドに倒れ込む。
――沙慧が今いる家は、母方の祖母の家だ。もう沙慧と一緒に住んでいたくないと、美祢が――姉が、泣いて祖母に頼み込んだ。祖母は可愛い娘の長女のためだと、二週間前に沙慧を引き取った。
けれどこの家でも、沙慧の居場所はなかった。祖母も、沙慧のことを忌々しく思っている。この家には母の姉――叔母夫婦とそのふたり息子も住んでいるが、叔母は婿を取り、姓を変えずに、母の旧姓でもある「竹本」を名乗っている。つまり叔母一家の姓は「竹本」だ。
「竹本」の中に、異色の「高村」がいる。
沙慧は常に息を詰めていた。竹本たちの白い目に耐え、従兄弟たちの好奇心が隠しきれない視線を堪えてきた。私物は極力自分の部屋に置いたし、靴やコートなども、一番奥や隅に入れるようにしている。
沙慧はベッドに横たわったまま、じっと自分の手のひらを見つめた。
最初は、少なからず憤っていた。何故自分がこんな扱いを受けなければいけないのかと、少しぐらい許されても良いではないかと。
けれど、今ではそれが愚かだったと思う。
自分は、すべてを壊した。その罪が許されることは、無いのだ。
すべて自分のせいなのだから、罰を受けるのは当たり前なのだ。泣くことも、嘆くことも、目を逸らすことも許されない。痛みと苦しみの中に晒されるのは、当然の罰。
ただ、独りで耐えて、堪えて、生きる時間が終わるのをじっと待つ。
それが、沙慧が自分に戒めた生き方だった。
沙慧は目を閉じ、長く息を吐いた。頭が重い。思考が闇に霞んでいく。
そう言えば最近、ろくに寝ていなかった。
そのことをふと思い出し、そのまま沙慧は意識を手放した。
*
泣き叫ぶ声。必死な声。子供の泣き声。
沙慧は、薄暗い部屋に慣れた思考を、ゆるゆると回した。
姉さん、父さん、佐織の声。そして、何かが甲高く引き攣れるような音。
三人の声は、尋常な声ではなかった。少なくとも沙慧は、今まで聞いたことがなかった。
――お母さんの声が、聞こえない。
そう思い当たった瞬間、何故か身体が動いていた。
暫く自分から開けることの無かった部屋の戸を、おそるおそる開ける。
途端に、三つの切羽詰まった声が大きくなった。引き攣れるような音は、耳に響き続ける。沙慧は目を瞠った。
この、引き攣れるような音。
この音は、お母さんの声?
心臓が、大きく震える。
何か。
わたしは、とんでもないことを。
沙慧はまろぶように部屋を出た。そのまま、声のするほう――リビングへ向かう。
一歩踏み出すごとに、心臓の音は大きくなっていく。手のひらに汗が滲んだ。
沙慧はリビングの扉のノブを掴み―――ゆっくりと、開けた。
そのまま、沙慧は立ちすくむ。
髪を振り乱し、狂ったように泣きながら言葉になっていない音を叫び続ける母。母の姿に恐怖し、母に縋りついて泣き叫ぶ姉。酷く狼狽え、それでも母の名を必死に呼び続ける父。異様な光景に、声を上げて泣くしかできない幼い妹。
…これは。
身体が震え、立つことに必死になり、思考がぐちゃぐちゃになる中、妙に冷めている脳の一部分が考える。
…母は、壊れた。
母の狂気を宿した瞳が、沙慧をとらえる。母は、いっそう叫んだ。
その引き攣れたような音の波は、かろうじて、ひとつの言葉に聞き取れた。
サエ、
ゴメンナサイ。
姉と父が、驚愕して沙慧のほうを見る。沙慧は、いっそう震えた。
足が体重を支えきれなくなり、崩れ落ちる。呆然と、沙慧は叫び続ける母を見つめた。
冷めている脳が、残酷に告げる。
…母を壊したのは。
沙慧だ。
あの一言で。
母は壊れた。
姉と父が、沙慧を凝視する。沙慧はふたりの視線にも気付かずに、呆然と母を見つめる。
リビングには狂った母の声と、泣き続ける妹の声が響いていた。
精神崩壊。
母は精神病院に入院した。父の収入はすべて入院費に回るため、美祢は生活費をつくるために、睡眠時間も惜しんでバイトを始めた。高校が終わればすぐにバイトの場所に直行し、深夜零時を過ぎるまで働いてくる。朝は五時からの仕事のため、三時に起きて四時半に出発するという生活だった。
父はそんな美祢の負担を少しでも減らすため、一週間いっぱいに仕事を入れ、毎日残業をして、少しでも多く収入を入れてきた。必然的に、家に帰ってくるのは美祢が漸く眠りについたすぐあととなる。
佐織は幼いながらも自分の家の状況を悟り、家では何も言わない子供になった。小学校であったことも何も話さずに、自分のことは自分でやる。朝早く夜遅い父、姉と顔を合わせることはなくなった。
高村家は、崩れた。
三人は沙慧を憎む。
沙慧が母を壊さなければ。
家族はバラバラにならなかったのに。
憎い。憎い。
沙慧が憎い。
沙慧は独りで呆然と、毎日を呼吸して過ごしていた。
お前のせいだ
お前さえいなければ
消えろ
消エロ
消エロ
憎い
お前さえ、いなければ―――!
*
沙慧は目を開けた。身体が重い。
寝返りを打って、ぼうっと天井を見上げる。
もう一度目を閉じて、身体にたまっている重いものを吐き出すように、深く息を吐いた。
最近、こういう夢をよく見る。
嫌な記憶、痛む記憶。それらが「夢」という形を取って、鮮やかに再生される。
沙慧が最近眠れなかった理由のひとつだ。夢を見るのが怖くて、痛みが蘇るのが嫌で、眠れなかった。眠れば必ず、この夢を見る。
目を開けて、天井に向かって右手をかざす。
犯した罪、与えられた罰。どんなに逃れたいと思っても、逃れられない。逃れることは許されない。
頭の奥が鈍く痛む。全身が軋むような感覚がした。
それをやり過ごし、沙慧は焦点の合わない目で、まだ見慣れない天井を眺める。
そうやって生きていくしか、道はないんだ。