第II話 ひだまりの夢――竜
病院の一室に、春の柔らかな日差しが差し込む。窓の近くに据えられたベッドはひだまりになり、暖かい空間を作り出していた。
けれど。
そのひだまりのなかに横たわった少女は、死の間近の苦しみに顔を歪め、荒い呼吸を繰り返していた。
少女の身体にはたくさんの医療器具がつけられ、口には酸素を送り込む透明なマスクが取り付けられている。それでも、最先端の医療技術は、この少女から死を遠ざけることはできなかった。
少女は一秒ごとに、死に近づいている。
水槻竜は、失うかもしれないという恐怖に呑み込まれて叫び出しそうになるのを、必死に堪えていた。
竜の隣には、泣き叫びながら少女の名を呼ぶ女性がいた。
「栄!逝っちゃだめ!」
悲痛な叫び。女性は少女にすがりついて、少女を必死に呼んでいた。そんな女性の肩に手を乗せて、顔を歪める男性。
「…っ栄…!」
叫びを押し殺したような声は、確かに悲しみと苦渋と恐怖で満ちていた。
竜も、叫んだ。
「栄!!」
死ぬな。消えるな。
失いたくない。
頼むから。
「栄!!!」
苦しむ少女を目の前にして、名前を叫ぶことしかできない。それが、歯がゆい。
医者たちの出入りがいっそう慌ただしくなる。機械の画面に映るグラフが、乱れる。
竜は、布団の端から僅かに出ていた少女の左手を取り、握るだけではなく、抱き締めた。必死でこの少女をつなぎ止めるように。
「栄!」
何を言えばいいのかわからない。
目を開けろ、と言えばいいのか。
死ぬな、と言えばいいのか。
わからない。
わかるのは、自分はこの少女に死んで欲しくないということと。
この少女は、確実に死に向かっているということ。
ふいに、少女が目を開いた。
「栄!!」
三つの声が重なる。医者たちの視線が一瞬、集まる。
霞む視界に三人の姿をとらえた少女は、ふわりと微笑んだ。
その微笑みに、竜はぞくりとする。
この少女は。
生きることを、終えようとしているのか。死を、受け入れようとしているのか。
「栄!? 大丈夫!?」
母親が少女にすがりつく。少女は、微かに唇を動かした。
あ…
り、が……
………とう……
竜は目を見開いた。
掻き抱いた手の温度が、下がっていく。
「栄!!逝くな!!」
抱き締める手の力を強くする。逃げようとするぬくもりをつなぎ止めるように。
少女は、自分の手を抱き締めている少年の姿を認めると、いっそう笑みを深めた。
父親の、押し殺すような叫び。母親の悲痛な声。
それらが、遠くに押しやられていく。
少女と竜。
少女は再び、微かに口を動かした。――竜だけに向かって。
…す……き、だ…よ
竜は、喉から引き攣れたような音が出るのを止められなかった。
……りゅう…
父親の呻くような声と、母親の悲痛な叫びが戻ってくる。
少女はもう一度、三人を視界に入れると―――
目を、閉じた。
「栄!!!」
声が引き攣るのにもかかわらず、叫んだ。
ピー…
やけに甲高い電子音。長く尾を引いて、病室の空気を無情に引き裂く。
竜は涙を流していることに気付かない。
母親が泣き崩れる。父親が母親を抱き締め、嗚咽混じりに少女の名を呼ぶ。
竜は、ぬくもりを失った手を抱き締めたまま、暫く動けなかった。
好きだよ。
竜。
あの少女が残した、柔らかく甘やかで、この上なく残酷なささやき。
竜は白い天井を仰ぐ。
暫く、そのままの姿勢でぼうっとすると。
意味のない音を、叫んだ。
好きだよ、栄。
今までも、これからも。
もっと早く、伝えられたならよかった。
今更伝えあって、繋がっても。
もう一緒に笑うこともできないし、手を握りあうこともできない。
君は消える間際に、伝えた。
なんて、残酷な。
好きだよ、栄。
失いたく、なかった―――
*
竜は、ゆっくりと瞼を押し上げた。
肺の奥にたまっている重い空気を、ゆっくりと吐き出す。
右腕を持ち上げて、右手を天井にかざした。
もう、一年も前のことなのに。
あの時の夢を見る度に、胸の中には重いものが凝り、全身は鈍く軋む。
――いや。
あの時の痛みは、忘れるわけはない。これから先、ずっと。
大切だった。愛しかった。
あの時はまだ小学生だった。だから、「まだ子供なのにそんな大袈裟な」と、大人には言われた。
けれど、子供だから何だというのだ。
子供だからって、感情が軽いわけではない。大人ではないからといって、感情が偽りな訳でもない。
確かに、そう思った。
かざした右手をぱたりと落とし、ゆっくしと上体を起こす。両手の指を絡めて、組んだ手を額に押し当てた。
「栄…」
そっと名前を呟く。
羽森栄。
春のひだまりのような少女だった。いつも柔らかく微笑んで、どこか儚い。
触れただけで消えてしまいそうで、抱き締めることができなかった。
とても大切で。どんなことをしても手放したくないと、この上なく執着していた。
けれど、失った。
失ったあとの喪失感は果てしなく。その喪失感に呑み込まれていきそうで、怖かった。
喪失感に呑み込まれるぎりぎりのところに立っていたとき、ふと思った。
執着したから、こんなにも失ったあとが虚しい。
だったら、最初から執着しなければいいのだ。――手に、入れなければいいのだ。
もう一度、深く長く息を吐く。軽く頭を振ると、ベッドを出た。
カーテンを開ける。
もうすぐ春が終わる。五月に入ればあっという間に梅雨が来て、その次にはもう夏だ。
竜は目を細めて空を見上げると、ゆっくりと部屋を出た。
目尻に残る涙の跡には、最後まで気付かずに。
執着して、失うことが怖い。
だから、執着することが怖い。
―――なにかを、心から求めることが、怖かった。